世界のCNPから

くろるろぐ

「本当のところをいうと、僕はこう思うのです」

「じゃあ会社内に本音で話せる相手っている?」

 

上司からそう聞かれて僕は何も答えられなかった。その上司は弊社内でいうと相対的に僕の最も尊敬している上司で、だからわざわざ飯の誘いを飲んだくらいの相手なのだが、それでも何も答えられなかった。

 

本音?

 

まずあらかじめ言っておくと、僕はほとんど嘘をつかない。というより、つけない。嘘をつくというのは破綻なき物語を書くというのとほぼ同等の作業だ、というのが僕の考えで、つまり僕はそういう作業に耐えうるほどの構成力を持たないのだから素直に真実を語ってしまったほうがよいというところに落ち着いているのだ。

 

などと言いつつ、正直に話すことと本音を話すこととは違う、とも思っている。なぜなら「話す」ということ自体が「本音」と相容れない行動だからだ。

 

「本当のところをいうと、僕はこう思うのです」。言葉にした途端、それが自分の「本音」とズレていることに気づく。違う、こうじゃない、訂正のための言葉を重ねれば重ねるほど、「本音」は遠のく。「本音」には形がない。「言葉」は形なきものに形を与えようとする。喧嘩するのは当然のことだ。

 

そればかりではない。

僕はもうとっくに自分の「本音」を見失っている。あらゆる価値観を讃え、多様性尊重の権化・ミスターダイバーシティとして生きているつもりの僕は、自分がどのイデオロギーに身を染めているのかもはや自分でも分からない。

 

二枚舌だの八方美人だの責められるならそれも甘受しよう、ただ主張しておくと、僕は他者の太鼓で雷神ごっこをしているわけじゃない。本当に他者の意見ひとつひとつを気に入ってしまうので、どれかを「自分の考え」として固定的に宣言しえないのだ。一見すると矛盾しているように見える複数の主張についてさえ敷衍してその根底にある共通意思を摘出しようとするのである。

 

本音?

 

「「腹が減った」とか「眠い」とかも「本音」だよ」、まあね、でもそういうことじゃないんだ。僕が言いたいことってのは。

「本心から出た言葉であればことごとく「本音」と呼んでしまっていい」、なるほど、では次に知りたいのは「本心」のことだ。

「本当の心」、と返答されたら僕はしたり顔を浮かべる、「本当の心を言葉にできるはずがあろうか」という台詞とともに。

 

つまり突き詰めていうと、僕の考えでは「「本音」で語り合う」ということ自体がヒトには成しえないことだという話なのだ。

では我々は互いに虚偽と虚飾とを交換しているに過ぎないのか、などとひねくれても構わないが、僕はそれよりも、「本音」には到達しえない種々の言葉のやりとりをそういうものとして楽しんでおきたいと思う。

 

上司は「本音で話せるような状況じゃないってのはあまりいい環境じゃないな」と顔をしかめてくださったが、僕としては構わなかった。どうせ「本音」なんてどこにもないのだ。人の言葉など好きに解釈すればいい。

 

「本当のところをいうと、僕はこう思うのです」。

パーン

死にてえ! いや死にたくはねえ。

 

何もかもをパーンとやってしまいたいときというのがある。けれども僕は勇気のない人間なのでほぼ全ての「パーンとやってしまいたいとき」を踏みとどまって見逃してきた。

奈須きのこ空の境界」の橙子さんあたりに聞いてみたらきっと僕の起源は「惰性」って言われるんじゃないかと思う。すなわち、一度始めたことを続けるのが上手いのだ……なぜなら辞めるための活力を湧かせられないから。

 

ここのところ僕は仕事をこなすだけの機械と化している。筆に水だけつけて紙の上を滑らせているような、いくら必死になっても絵が完成しないような、そういう骨折り損の生活をやっていっている。仕事をサボって海へ行きたい。

と、言いつつ、絶対にやらないのが僕である。大学時代もそうだった、サボりに適した快晴の日でも授業にはぜんぶ出席していた。頭の出来が悪いうえ友達もいなかったので成績はよくなかったが、ひとりぼっちの皆勤賞をこっそり誇っていたものだ。

 

サボれない、休めない、投げ出せない、捨てられない。続けるつらさよりも辞めるつらさの方が僕にとっては重い。何事についても、「よーし辞めるぞ」の一歩が難しい。「よーし死ぬぞ」も失敗している。

という話をしたら、恋人から「じゃあ私のことも捨てられないから捨てないだけなんだね」と微笑まれたことがある。反射的に「違う」と返したものの、さて否定するための材料は証拠は権利はいずこに? 僕は「惰性」で恋人を束縛しているのかもしれない。

 

そういうことなら、僕は恋人との関係も「パーン」した方が本当はいいんだろうな、ってこれはもう数年前から悩んでいることである。けれど僕は相変わらず恋人のことを好きで、……いや、少なくとも主観的には好きだと思っていて、意識と無意識と、自己認識と実情と、もうわけわかんないのだが、結局のところ事実としてもう8年間も「惰性」的に縛り付けているわけで、

 

パーン。

 

梶井基次郎檸檬」( 梶井基次郎 檸檬 )における一節が頭をよぎる。「黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。」梶井自身も実際に神経衰弱だったらしいが、それはさておくにしても、この「檸檬」における“爽やかな果物”と“爆弾”とのコラボレーションは実に梶井的で鮮やかだと思う。

 

まあこの一節を引いて「文豪ストレイドッグス」で梶井基次郎が「爆弾魔」になっていたのは最高に面白かった。あの作品、なかなかギャグセンスが高い。太宰は川上からドンブラコ〜ドンブラコ〜と流れてくるし、泉鏡花は実物がおっさんなのに美女になっているし。まあ信長も美女になってエロ同人を描かれる時代、肉体的性別なんてどうでもいいよねという話なんだろうな。

 

閑話休題

辞めるとか逃げるとか消すとか爆発させるとか、そういう「パーン」的な幕引きを決意するのにも勇気は必要だと思う。そして僕にはそれが決定的に欠けている。辞めるべきときに辞められるのも、逃げるべきときに逃げられるのも、才能だよ。

こないだ尊敬する知り合いから、「現状維持も「選択肢」だ」、という言葉をもらった。つまり、今の状態をそのままにしておくことを選ぶのもアリだけれど、それが失敗だとわかってきたら別の選択肢を選ぶのもアリだということなのだ。「現状維持」は特殊な場所にあるものではなく、いくつかある選択肢のうちのひとつなのだ。こいつはダメだと思ったら捨てていいものなのだ。

もちろん勇気は要るけれど。

 

何かに対する僕なりの抵抗として、いまウイスキーを飲みながら記事を書いた。パーン。なかなか爆発力のある一説になったんじゃないかと思う。嫌なことなんて考えなくていい。より良い結果を目指して自分なりにやればいい。爆発したっていい。

 

パーン。

 

死にてえ! いや死にたくはねえ。

本当は生きたいよね、できれば誰よりも幸せに。

 

東京国立博物館

先日、大学時代の知り合いたちと連れ立って上野の東京国立博物館( 東京国立博物館 - トーハク )を訪れた。

 

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特別展は 「 両陛下と文化交流―日本美を伝える―  」 ・ 「 国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅  」の二本立て。せっかくなので両方とも見てきた。

 

それぞれに突き刺された。

 

「両陛下」の方は、お二人の幼少期から現在までを文化財とお写真とで紹介していく形式だった。

それにしても皇室というのは「伝統」をひどく重んじておいでだ。「香炉と伏籠を使って着物に香を焚き染める」とか「重要な儀式の際には黄櫨染御袍や唐衣裳をお召しになる」とか、高校古典の授業でしか目にしたことのない風雅なる世界が解説されていた。賛否両論あるだろうが、僕としては伝統文化の妙味というのを堪能できて楽しかった。

 

中でもちょっと面白かった展示として「ボンボニエール」というのがあった。

 

明治20年代から,饗宴の折の引出物のひとつとして,ボンボニエールと呼ばれる小さな菓子器が採り入れられました。慶びの場にふさわしいデザインによる,手のひらに載るほどの大きさの愛らしい菓子器は,今日まで皇室の御慶事を記念する品として引き継がれています。

( 参考: 展覧会概要/第77回 皇室とボンボニエール―その歴史をたどる - 宮内庁 )

 

つまり菓子を入れておくための入れ物なのだが、これが皇室向けにかなり凝った作りをしているのだ。僕は皇室の方々がこういうものを使ってらっしゃるということ自体まったく知らなかったのでホホウとなった。

 

そしてその中のひとつ、「両陛下ご結婚記念」のボンボニエールを見て僕はちょっとばかり泣きそうになってしまった。

 

それは静かな池の上を二羽の鳥が連れ添って泳いでいるという立体的な作品だった。僕は息を呑み、そのまましばらく立ち尽くした。

 

人と人との関係なんてものは不安定で不条理だ、こと僕は「結婚」という言葉のもたらす鈍痛に日々呻吟しているわけであるが、……その二羽の鳥の凛と寄り添う姿を目にして、僕は「清廉」の二字を思い浮かべた。

夫と妻。

 

むろん「天皇陛下」であるからには「理想」である必要があるのだ、だから隅々まで「理想」を造形しているのだ、それは「象徴」としての宿命に過ぎないのかもしれない、……ということを汲んだ上でなお、僕はその「理想」の冴え冴えとした銀光を目に焼き付けておきたいと思った。綺麗事でいいのだと思った、どうせガラスケースの向こうに飾られているものなのだから。

 

 

さて。

 

「東寺」の方は、真言宗総本山である仏教寺院・東寺(またの名を教王護国寺)、および真言宗自体がテーマとなっていた。

 

真言宗の開祖である空海真言密教の教えをわかりやすく広めるため、手の組み方を図解したり(「蘇悉地儀軌契印図」)、唐から曼荼羅(真言密教の世界観を表現したウワーって感じの絵) を持ってきたり、何かと尽力した人物である。展示ではそういった空海の努力を示す品々を確認することができた。

 

その中でも特に今回は「仏像曼荼羅」……つまり密教の世界観を仏像によって表した立体曼荼羅とでもいうべき展示に力が入っていた。

仏像にもいろいろあって、その種類についても解説してくれていた。館内の写真を撮ることはできないので記憶頼みだが、まず仏界のヒエラルキーってのはだいたいこんな感じらしい。

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これが確かに仏像たちの姿に現れていた。僕は展示されていた仏像を見ながら「これは「菩薩」! ヨッシャ」「これは「天」! アァ「明王」の方だったか〜」などと見分けて遊んだ。

 

ちなみに僕の大学時代の知り合いたちは(僕も含め)文学館や博物館や美術館や水族館に行くとそれぞれ自分勝手なペースで好きな場所を見て回るため、基本的に「はぐれる」。僕は仏像選別ゲームに1時間ほど費やしてから現れたせいで、とっくに見終わっていた知り合いたちから苦笑されながら殴られた。

 

しかし。

僕は宗教に耽溺しているわけじゃないが、「あまねく人々を救済する」という如来の在り方には惹かれるところがあった。あの超然とした表情の内奥に、数多の人間を救いうる力があるのかと思うと憧れた。

 

僕は自分のことで精一杯だ、僕は仏教的に禁じられている種類の欲にまみれている、僕は他者を救うどころか片端から痛めつけている。

ひとりを救おうとすれば重さで沈めてしまうし、複数を救おうとすれば各々を傷つけてしまう。誰かの役に立つこともできない。あんなに苦しんでいる人がいるのに僕は何もしてやれていない。5億円を手に入れたら譲りたいのに、体が複数あったら代わりに働きたいのに、あまねく人々を救いたいのに、僕は誰のことも救えない。

 

そういう意味で、僕は仏像のことも「理想」としてノンビリ眺めた。「あまねく人々を救済する」、そんな不可能の偶像を真下から見上げた。

むろん宗教上の信仰対象だからこそ「理想」である必要があるのだ、だから隅々まで「理想」を再現しているのだ、それは「象徴」としての役割に過ぎないのかもしれない、……ということを汲んだ上でなお、僕はその「理想」の晴れ晴れとした後光を目に焼き付けておきたいと思った。綺麗事でいいのだと思った、どうせ見上げることしかできないのだから。

 

 

 

……宮沢賢治の「雨ニモマケズ」( 宮澤賢治 〔雨ニモマケズ〕 )は有名だから、ご存知の方も多いだろうと思う。僕はこの作品において刮目すべき箇所を、次の部分だと主張したい。

 

「サウイフモノニ / ワタシハナリタイ」。

 

そういうものに、私はなりたい。

「ならなくちゃ」「絶対なってやる」ではないのだ。「なりたい」。なれないから、「なりたい」。

「なりたい」を詠むというのは恐ろしいことだ。自らの理想を描くことは、それが成し遂げられぬまま空費されていく現実を描くことに他ならない。しかし一方、反実仮想は芸術との相性がいい。美術・演劇・音楽・映像・そして文学・あるいは人生における「なりたい」の描写は、それが憧憬であれ悲願であれ諦念の影の未練であれ、芸術たりうるものであると思うのだ。

 

僕は鳥になりたいのでも如来になりたいのでもなさそうだが、彼らから連想される“何かしら”に「なりたい」……とかなんとか言うと数行前に自分で書いた文章に脳天を貫かれてしまうのだけれども。「空費」という言葉を繰り返すのは自傷行為でしかないので、自分は芸術をやっていこうとしているだけだと言っておきたいわけだが。

 

しかし人生を芸術に見立てて愉しまんとするなら、何だかんだやっていけると思えるくらいの安定的余裕か、あるいは自分の吐いた血反吐に筆を浸して原稿用紙に立ち向かうような血みどろ死にかけの気魄か、少なくともどっちかくらいは欲しいわけで、嗚呼この辺りまで考えが至ると惨めになる。

 

何者にもなれないまま終わりたくはない、何者かに「なりたい」。

村岡花子訳「赤毛のアン」では「X氏を恋い慕っている人」のことを「X氏の崇拝者」と訳していた

ここのところ可もなく不可もなく、いや正確にはやや不可寄りの、ちょっと気を引き締めていないと崖から落ちてしまいかねないところを歩いている。時々ガクンと足を踏み外しかけるたびに、自分の体が必死になって生きようとするのを感じる。情けないことである。

 

僕は宗教に耽溺するような人間ではないようだが、例えばぐらぐら揺れる足元を何かに支えておいてほしくて、例えば味気ない毎日を誰かに見守ってもらいたくて、より大きな存在をよすがにせんとする……そういうことなら、身に覚えがないとはいえない。

 

まあもちろん、自分を破滅させたり、他人に迷惑をかけたり、犯罪に走ったり、人道を忘れたり、そういう種類の「宗教」は危険性が高いと思うけれども。

今回の話はそういう話ではなくて単に、人は拠り所を求めずにいられないんだなあというような意味の話だ。

 

とはいえ、宗教における「信仰」あるいは「信心」とは、ただ頼り縋り甘える態度のことではない。形式や程度の差こそあれ、そこには信仰対象に対する“奉仕の精神”が漂っているように思う。

自らを捧げ、尽くす。自分という存在を、信仰対象に対して恥じないものへと高めていく。そういうわけだから、宗教をやっていくというのは意外と体力の要ることなのかもしれない。

 

 

なぜ急に宗教の話をしはじめたか? それは先日、自室という名の都会適応型現代風洞窟を探検および掘削した際、幼いころ祖母から与えられた「赤毛のアン」を発掘したからなのだった。

 

赤毛のアン 赤毛のアン・シリーズ 1 (新潮文庫)

赤毛のアン 赤毛のアン・シリーズ 1 (新潮文庫)

 

 

まさにこれ。

本ばかり読む僕に祖母が「私は目が悪くなってきて読むのがつらいから、もしあんたが読みたいなら読めば」と言って寄越したもので、僕は確か全巻に渡って読破した。

 

汚れた部屋の中でこの表紙を見た途端、この村岡花子訳「赤毛のアン」では「X氏を恋い慕っている人」のことを「X氏の崇拝者」と訳していた……ということを唐突に思い出し、一気に懐かしさを感じた。

 

僕はてっきり村岡花子氏が粋な訳を当てたものとばかり思っていた。しかし版権の切れた洋書を扱っているという「Project Gutenberg」( Gutenberg )なる場所に“Anne of Avonlea”(邦題「アンの青春」) ( Anne of Avonlea by L. M. Montgomery - Free Ebook )が保管されていたので確認してみると、原文の時点で「worshippers」すなわち「崇拝者」であったということがわかった。

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(こういう原書を自力で読めるようになりたいと思っていたんだったな。今からでも遅くないかな。)

 

 

さて。

そんなこんなで結局のところ愛の話である。

「恋い慕っている」という気持ちを「崇拝」と表現する美麗な感性が何となく僕の中でしっくりはまってしまい、今日はずっとそのことを考えていた。

 

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
崇拝
すうはい
worship
一般には尊敬し,あがめることをいい,宗教において思考,言葉,行為などで,神聖なるものに自己の全的依存を告白すること。

精選版 日本国語大辞典の解説
すう‐はい【崇拝】
〘名〙

① あこがれの気持で、ある人を心から敬うこと。


② 宗教的対象の前に立ち、自己の有限性、依存性、卑小性、無力性を自覚したり、あるいは自己の罪業の深さとその自力による救済不能を自覚したりすることから、宗教的対象に自己の救済一切をまかせ願求する心をもって、対象を敬いあがめること。

(参考: 崇拝(すうはい)とは - コトバンク )

 

僕の恋愛観は、いや下手をすると人間関係観さえも、この「崇拝」の精神に則っている……あるいは則ろうとしているのではないか。

僕は有限で依存的で卑小であり、無力だ。故に自らを捧げたい、尽くしたい。自分という存在を、信仰対象に対して恥じないものにしたい。

これも宗教なんじゃないだろうか。

 

世の人々からすれば異常なことだろう。自分を大切にしなよ、だとか、卑屈になって恥ずかしくないの、だとか、そういうふうに思われる方も多いだろう。

ここのところインターネッツでも、「こういう男はクソ」「こういう女とは付き合いたくない」というような情報が随分と流れてくる。普通は、そうだ。恋愛という場において……もしくは人間関係の場において、互いに互いを理解し歩み寄ることは何よりも重要であって、自分は他者を思いやり、他者は自分を思いやってくれる、その相互関係を期待するのは当然のことだ。

 

けれども僕はもはや、僕が相手を思いやり、相手が幸せそうにしている、それで充分だというような領域に達しつつある。僕に与えられるのはほんのひとしずくの慈悲で構わない、くらいのことを思えるようになってきた。

 

……とはいえ、ひとしずくであれ慈悲を欲してしまうあたり聖人君子には程遠い。

それに、そうやって奴隷根性を剥き出しにする僕のありようは、きっと恋人や友人たちを想っているが故のものではないのだ。僕は崖から落ちるのを恐れて、誰かを崇め喜ばせることによって僕自身の足元を固めようとしているだけだ。

 

その証拠に、僕は全く「歩み寄り」というやつをできていない。ただ自分勝手に「相手を思いやっている」つもりになっている。何が奉仕の精神だ。何もかもが自己満足のエゴイズムにすぎない。

 

ぐらぐら揺れる足元を、味気ない毎日を、何かに仕えることで、誰かに求められることで、どうにか堅固かつ鮮明なものにしようとしている……そしてより大きな存在に自らを捧げたがっているだけなんだと思う。

 

「献身」ごっこ。醜いことである。

卒業の季節

桜の蕾が膨らみ、股間の蕾も膨らむ、春。

卒業の季節だ。

 

かつて同じ童貞として笑いあったはずの学友どもや後輩どもが、いつのまにか童貞を卒業していく。そしてどういうわけか彼らは、“卒業”を果たすと卒業証書を僕のもとへ見せびらかしにくる。そこに書かれている文言は実に種々様々だ。初めての恋人と自室のベッドで、先輩と飲みにいった流れで、……等々。猥褻な薄桃色の卒業証書からは甘ったるい香りがする。僕は謹んでその文面に目を落とし、香りを楽しみ、そして「卒業おめでとう」と微笑む。それ以上の祝辞は必要ないだろう。童貞を喪失した彼らは「非童貞である自分」そのものを祝福として味わい、すでに充分すぎるほど陶酔しているのだ。

 

さて。

数時間ほど前、そういう旧友のひとりから連絡がきた。つい先日、童貞卒業を報告してくれた人だ。「またラブホへ行くから知りたいことがあったら聞いてくれ」、と彼は言った。「また」、とは。

僕は苦笑しながら、羽ばたいていった彼のことを考えた。少し寂しいような、何だか笑ってしまうような、不思議な感覚が我が身を包んだ。僕はのんびりと穏やかな気持ちで、「とにかく部屋中のアダルトグッズの写真を撮って送ってくれ、今すぐ送ってくれ早く送ってくれ」と返信した。彼は「いやまだ仕事中だから、会うの22時からだから」と冷静な切り返しを見せた。

 

22時。

 

彼は真面目な人だから、22時に待ち合わせといっても10分前には到着していただろう。大事な恋人のことを思いながら待ち合わせ場所でネクタイでも締め直していたかもしれない。やがて彼の恋人が現れ、彼の手を颯爽と握る。「性行為を予感する恋人同士の間に流れる空気」は他のあらゆる状況で流れるどんな空気とも違う湿度と質感とを持つ。「どんぶらこ どんぶらこ」という擬態語が「川を流れる桃」に対してしか使えないのと同じように。

 

晴れやかなるかな。

彼には幸せになる権利がある。

 

「俺はあの子を愛している。あの子が俺を忘れても、俺はあの子を忘れない。いくらでも待てる。君も知っての通り、あの子は気まぐれだから、もしかしたら天が俺に味方するかもしれない」

 

「なあ、俺は酔うとどうしても性欲に呑まれるんだよ。君なら許してくれるだろ。わかってくれるだろ。「人の性欲」をこよなく愛している君なら」

 

「久々だな。唐突だけど君が面白がりそうな話を持ってきた。この間、ラブホへ行ったんだ。つまり一緒に行くような相手ができたってことで。君の知っている人ではないけれど」

 

入った学校からはいずれ出ていかなければならない。流行ったアイドルはいずれ解散しなければならない。年度が変わる。平成が終わる。時は流れ、未来は現在になり、現在は過去になる。

 

白い精子の中に、まぐわいは燃えて。

 

卒業の季節だ。