世界のCNPから

くろるろぐ

重い内容の記事の中で読んだこともない漫画のステマをする

僕は人の好意を信じないことにしている。

他人を信用していないから、というのとは少し違う。僕は「相手に好かれている」と思ってしまうと、気を抜いてしまう人間だからだ。無意識下で傲慢になり横柄になり怠惰になり、いやなやつになる。相手に好かれているということを言い訳に、甘えてしまう。

だから僕は敢えて「自分は嫌われている、人々が親切なので礼儀正しく接していただけているに過ぎない」と思い込むことで、できるだけ気を抜かないようにしようとする。(とはいえそれでもまだ失礼を働いているのだから、僕は本当に救いようのないゴミだ。)

 

職場の人々はよく互いに互いの陰口を叩いている。僕はそういう現場を見るたび、「やはり「自分は嫌われている」という姿勢で生きていく方が正しいのだ」という確信を強める。数秒前まで明るい笑顔で会議をしていた先輩と上司とが、それぞれのいないところでそれぞれのことを何と言っているか……「あぁ僕も言われているんだろうな」、という結論に辿り着くのは当然のことであろう。まして僕は無能で、良いところなどひとつもなく、人々を苛立たせてばかりなのだから、間違いなく陰で何か言われているはずだ。それを念頭に置いた上で接していかないと、僕はどこかで転ぶに違いない。……といったような、強迫観念とでもいうべき思いがあるのである。

 

しかし、この思い込みは、実のところ自衛手段でもある。あらかじめ「自分は嫌われている」と思い込んでおけば、「嫌い」を前面に押し出して接してくる相手に対し心の余裕を持って接することができるからだ。やっぱり嫌われていたか。分かっていたよ。いやな思いばかりさせて申し訳ない。すぐにあなたの人生から立ち去るからね。そうやって僕はできるだけ人との距離を置くようになってきている。誰だって嫌いな人間にそばにいてほしくはないだろう。嫌いな人間の言葉など聞きたくないだろう。

(などと言いつつ、ブログを書きツイッターでつぶやき恋人を縛りつけ知り合いに呼ばれれば会いにいくのだから、僕は本当に救いようのないカスだ。)

 

では逆に、この思い込みを拠り所にしている僕が、「好きだ」という類の言葉を聞いた場合にどうなるか。

僕は毎回、誇張でなく本当に泣いているのである。

流れるのは単なる嬉し涙とも言い切れない。「自分は嫌われている」という確信の中に生きている僕は、「この人は本当に好いてくれているのかもしれない」という一縷の希望に、とても弱い。砂漠をゆく旅人にとって一滴の水がむしろ恐ろしく感じられるように、僕は他者からの優しさが怖いのだ。

 

僕はどうあっても相手の期待するような人間じゃない。もっと優秀な人々のために生産されている酸素を無駄に吸っては吐き、もっと有能な人々のために用意されている言葉を一方的に奪っては酔いしれ、自分だけ勝手に安心して、自分だけ勝手に生きている。好かれていると思った途端に気を緩めるし、それでいながら相手を不快にしていないかどうか気にする。こんな有様で、優しくされる権利なんて本当にないのだ。

ないのに。

 

怖いなあと思う。

 

さて、人々の親切を強奪しておきながら気味の悪いことばかり呟くだけではよくないなとも思うわけだが、逆も逆で耐えがたい話なのだ。逆、つまり、僕が他者から好かれるという恐怖の逆、僕が他者を好くという恐怖の話だ。

 

ツイッターで見かける「名言」にこんなのがある。

 

「興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?」

 

実は(怖くて)読んだことがないので言及していいものかどうかわからないが、これは「クズの本懐」なる漫画に出てくる台詞らしい(重い内容の記事の中で読んだこともない漫画のステマをする)。

クズの本懐(1) (ビッグガンガンコミックス)

クズの本懐(1) (ビッグガンガンコミックス)

 

人間関係の闇をあまりに掘り下げられると僕の胸に刺さりすぎそうで怖いのでやはり僕には読めそうにないかもしれない。

 

話を元に戻そう。

「興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?」

僕はこの台詞を見かけたとき、妙に感心してしまった。

むろん状況は想像できる、この台詞は性愛の話題の中で出てきたものだろう、好きでもない人間から性愛的感情を向けられたらゾッとするよねという話なのだろうというのはわかる。

ただ僕はどんな人からでも「好かれる」というだけで畏縮してしまうたちなので、「気持ち悪い」で一蹴できる人というのは強いなぁと思ったのだ。

そして次の瞬間、僕は鳥肌でいっぱいになった。

 

僕が好意的に思っている人たちも、こう思ってらっしゃるかもしれない。

 

僕からの好意を気持ち悪がっているかもしれない。僕に好かれることについて何の喜びも感じていないに違いない。僕が好意的に思うことで、相手は救われるどころかむしろ追い詰められているのではないか。

 

考えはじめると止まらず、僕は罪悪感と自己嫌悪の中、矛盾に陥ってしまった。好きな人たちに苦しんでほしくないから、好きでいるのをやめなくちゃいけない、好きでいるのをやめなくちゃいけないってことは、けっきょく好きってことだ……云々。

 

僕は誰の好意も受け取ってしまうべきでないし、僕の好意は誰のことも救えない。

自分が相手を好きだからといって相手も自分を好いているとはかぎらない。

他者の気持ちは絶対にわからない。

「自分は好かれている」と思い込んで調子に乗って他者に迷惑をかけるのも嫌だし、自分が他者を好きでいることで他者に気持ち悪い思いをさせるのも嫌だ。

 

元気を出してほしい、無理をしないでほしい、ゆっくりやっていけばいい、僕は好きだよ、……そんな言葉の数々が、むしろ相手を追い詰めて、苦しめているのではないか。

無意識のうちに、相手を好くことで相手からも好かれたいという下心が生まれてやしないか。その下心が、相手の心に空いてしまった穴を食い広げていやしないか。

 

自分の好きな人には幸せに生きていてほしい。けれど僕がそうして好くことで相手は幸せを奪われているのかもしれない。

「好意」とは、まるで素敵なもののような字面を持っていながら、実はこんなにも重い毒なのだ。

 

残業をしながら滔々と考え事をしていると(作業の手は止まりがちだ)、自分の好いている人々の顔が浮かんでくる。しかしその「好き」はどうも簡単なものではなくて、誰も苦しめたくないという傲慢な思いが妙な形で絡まってめちゃくちゃになった塊のようなものらしい。

 

だからけっきょく、好きとか嫌いとか、好かれるとか嫌われるとか、そういうことを度外視して、できるだけ考えないようにして、それでも伝えたいことを伝えようとすると、こんな感じ。

 

どうかみんな幸せに生きて。