昔の同級生たちは
昔の同級生たちはみんな成功している。
舞台女優になった人がいる、海外で活躍している人がいる、脚本家になった人がいる。
クロル、23歳。
僕だって何かしら成し遂げられると思っていた。いや、正直に言えば、今も思っている。いや、正確に言えば、「「僕だって何かしら成し遂げられる」と思っていないと怖くて生きていられない」。
何も成し遂げられないままでいることが怖い。そういう意味で、僕はたぶんプライドがめちゃくちゃ高い人間だと思う。どうせ何もできやしない、と口先では言いつつも、もしかして、という希望を捨てられないまま怯えているのだから。
「ライブ出ます、よかったら観に来てね」
高校時代の同窓生をまとめたLINEグループが動いているのを久々に見た。僕らの学年には120人いたはずなのに、このLINEグループには100人しか入っていないので、僕はこのLINEグループがもともと苦手だった。そればかりではなく、先に述べたような「成功した同級生たち」の「成功」の報告が時折こうして流れ込んでくるので、はっきりいって頭痛の種だった。だから通知はもちろん切っていたし、連絡が入るたびに「非表示にする」を選んで視界から消していた。
高校時代の人々のことが嫌いなのではない。何も考えず無邪気に「自分は嫌われていない」などと誤解して自由に振舞っていたあの時代の僕を知っていながらこうしてLINEグループの一員に入れておいてくれるような心の広い人たちのことを、僕は嫌いになんてなれない。ただどうしても、見ていられないのだった。
自分のやりたいことを突き詰めて、自分の行きたい道を選んで、きらきら、きらきら、あんなにきらきらしている人たちがいるのに、僕は精神安定剤に頼りながら興味のない作業をしている、そんなどうしようもない事実が、僕をどんどん追い詰めた。
僕は無能だったのだ。
僕には何もない。何もない。実は、中学生の頃にはっきり言われたことがある。
「Aさんはピアノが弾ける、Bさんは絵が上手い、Cさんは顔が綺麗だ。けれど君には何もないから、一緒にいて安心する」
僕は本当に、ああ、と思った。空っぽであることが、誰かの救いになるのだとしたら、何の取り柄もないことが、誰かの支えになるのだとしたら、僕という生ゴミを踏み台にして、誰かが前向きに生きていけるようになるのだとしたら、
あんまりだな、と思った。
何かが欲しい、自分にはこれがあるから大丈夫、生きていていいんだって思えるような何かが欲しい。
頭のどこかではわかっている。そういうものを持っている人たちだって最初から持っていたわけじゃないとか、努力しつづけて勝ち取らなきゃならないとか、くさっている暇があったら動き出すべきだとか。
むしろどうして動かないの、なんて、小学生の頃の僕だったら言うだろう。自分は誰からも愛されていると信じ、自分がいじめられていたことにも気づかなかったあの頃の僕なら。
いつからこんなことになってしまったんだろうな。
とか何とか考えていると、また同窓生LINEが動き出した。動かしたのは、クラスで「インキャ」として一挙手一投足を嘲笑われ避けられていた、僕よりもだいぶ酷い目にあっていた人だった。
「もしかしたら行くかも」
……「陽キャ」の皆さんが画面の向こうで噴き出しているのが見えるような気がした。僕は自分が嘲弄されたかのように顔を赤らめてしまった。けれど、同時に羨ましいと思った。
本来はこれでいいんだよな。
よく思い出してみるとあいつは「陽キャ」に嘲笑われつつも自分を曲げたことのない奴だった。目立つ役もこなしていたし、厳しい意見も言っていた。何もかもが怖くなって気を狂わせかけている僕と違って、あいつは何かしらの「何か」を得ているんだろう。
羨ましい。
何となく僕も、全てを諦めて死ぬか、何かしらの何かを得るために何かしらをやっていくか、そろそろ二股道にさしかかってきたところなんじゃないかなという気がしないでもない。
死ぬなら早いほうがいい。やっていくことにするなら、ぐじぐじしないほうがいい。こうしている間にも、時間はどんどん過ぎていく。
時間といえば、こないだ時間停止モノのAVを見た。
興味のある18歳以上の方は「時間を止められる男は実在した!~幸せそうな奴等の自慢の彼女を『寝とって』ハメ倒し!潜伏生活編~」で検索していただきたい。いや検索しなくてもいい。
時間停止能力を持つ男が幸せなカップルの時間を止め、その幸せを奪う……ありがちなストーリーだが、「他者の幸せを許すことができなかった者」の末路はただ滑稽なばかりとも言い切れない。時間停止能力を発動する際の、男の切ない慟哭……苦悩の叫びは必聴である。いや聴かなくてもいい。
さて、「時間停止モノ」という字面をご覧になると、人はすぐ「絶対フィクションでしょ」とおっしゃる。そんな方々に僕は申し上げたい。
「むしろAVのすべてがフィクションだから……」
現実において、貧乳女子校生とMM号でイチャイチャする機会なんてないし、水道屋に寝取られる妻を物陰から眺める機会もないし、メイド喫茶のメイドがいきなり目の前で放尿する機会もない。……というのはまぁいいとして、それだけでなく、例えばレイプ系、痴漢系、陵辱、暴力、果ては和姦、いわゆるいちゃらぶえっちに至るまで、いかなるAVもすべてフィクションである。作品である。ニセモノの世界である。
フィクションとは現実世界に影響を与えないために用意される虚構世界である、というのが僕の解釈だ。
ニセモノの世界だから、そこでは何をしてもいい。その代わり現実世界には手をつけないようにする。思いっきり壊してもいい世界を創ることで、壊してはいけない世界を守るのである。
……というのが、フィクションというものなんじゃないかね、と思う。
だからこそ、すべてのAVは、いやAVを含むえっちなコンテンツは、どこまでもフィクションであり、現実世界を守る虚構世界なのだ、なんて思う。
そういった意味で、僕はいくらでも壊していい穢していい甘えていい汚していい虚構世界を、えっちコンテンツを、心から愛している。
愛しているのである。
セックス、イン、ザ、スカイ。
昔の同級生たちはみんな性交している。