ぱぁっと
相手が無理して明るく振舞っているのか、本当に元気だから明るく笑えているのか、というのを判断するのは難しい。
ついこないだ、徹夜明けの先輩が楽しげに話しかけてくださったが、僕は先輩が「夜を賭して仕事した疲れを誤魔化すために笑っている」のか、「夜型なので集中して仕事ができたから満足して上機嫌になっている」のか、判断できなかった。とりあえず、「自分だけが夜勤をさせられた」という状況にありながらああして笑えるというのはさすがだな、と感じたくらいのものだった。
人生を楽しんでいそうな人が陰で苦しんでいることもあるし、人生に苦しんでいそうな人が実はその人なりに楽しんでいることもある。
人は人を「外見」(容姿、行動、態度、発言などなど)でしか判断できないので、本当のところを知るというのは難しいことだ。
当の本人ですら、自分の“本当のところ”を知ることができるとは限らない。気づかないうちに無理していることもあるし、気づかないうちに楽しくなっていることもある。そう考えると、精神とか心理とかそういうのに関する「判断」というのは白黒はっきりしたものじゃなくて、もっとぼんやり曖昧なものなんだろうと思う。
とは言ってもな。
灰色というのは落ち着きのない色だ。白か黒か、どちらかに傾いてしまえば楽なのに、絶妙なバランスを保ちながら立ちっぱなしでいなくてはならない。そういうところにも苦しみはある。
責務から逃れたい、はずなのに、責務を果たしたときの達成感を忘れられない。
相手のことを嫌いになりたい、はずなのに、相手の素敵なところも目についてしまう。
できるだけ早く死にたい、はずなのに、本当は幸せに生きられるはずだと思ってしまう。
灰色というのは漆黒よりも残酷な色なんじゃないだろうか、とか。
すぐ大仰な言い回しを用いてしまうのが僕のよくないところだ。
要するに、もともと精神やら心理やらというのが曖昧で半端で灰色なものだからこそ、「自分は白であらねばならない」だとか「自分は黒に呑まれるしかない」だとかで悩むことになるんだろう、みたいな話。
白黒どちらかに倒れたほうが楽なのに、自分というものがデフォルトで灰色の状態だから、なんだか収まりが悪くて、どちらかに倒れたいという悩みを抱くことになるんじゃないか、などと思うのだ。
僕が文学部にいたとき、そういう灰色性、曖昧さ、というのは、よく話題になった。
中世文学の時代には白黒はっきりしたものが好まれたので、勧善懲悪物語が流行した……それが坪内逍遥や二葉亭四迷らを発端とする近代文学の時代に入ると、やがて「人間心理の揺れ動き」というところに焦点を当てるようになっていった……という論などである。
文学を含む芸術分野において、むしろそうした曖昧さは人間の妙味として尊重されているのだといえる、と思う。
だから本当は、白に揺れたり黒に揺れたりしながらやっていくことを受け入れ、曖昧さを趣として味わえるようになるといいのだろう。
とはいえ、僕が生きているのは実人生である。
やっぱり苦しいのは嫌だ。
となると、「白に揺れたり黒に揺れたり」というときに、できるだけ白っぽい方に長居して、できるだけ黒っぽい方から離れて、ということができるようになっていくしかないのかもな、とか思う。
真っ黒になりそうになったら、ぱぁっと白いことをしてバランスを取るといいんじゃないかな。友達と喋るとか、遠出をするとか、風俗へ行くとか、高い食事をするとか、好きな子をデートに誘うとか、本を読むとか、パワーパフガールズを観るとか、なんでもいい。
……などと言いつつ、最近の僕自身にはそういう、真っ黒な自分を撥ね飛ばせるほど「ぱぁっと」なるような「白いこと」というのがあんまりなくて、それが目下の悩みである。
白いモノでもぱぁっと跳ね飛ばすか……。