世界のCNPから

くろるろぐ

という話

そもそも言葉ってのは信用のおけないモノである。

 

人それぞれの頭の中にある、感情とか欲望とか苦悩とか願望とか、そういったカタチのない「思い」を、カタチあるものとして吐き出す、それが「言葉」ってやつの在り方だ、と思う。

もともとカタチのない「思い」を、社会の中で通じている何らかの「言葉」に置き換えているようなものなので、それはどうしても本来の「思い」から逸れた、類似のものとならざるを得ない。どれだけの語彙をもってしても、「言葉」によって「思い」そのものを示すことなどできようはずもない……というのが、僕の考えだ。

 

例えば。

小説家、劇作家、漫画家、ありとあらゆる創作者は、大抵の場合、ある段階で「書けない」と言いだす。僕は創作者になれなかった“なりそこない”だから偉そうなことなんて言えないけれども、その「書けない」という感覚は何となく持っているような気がする。

 

ふざけているわけでもサボっているのでもない、ただ「自分の中に言葉がなくなってしまう」、そういう瞬間というのがある。言語化できないとか語彙が足りないとか、そういうのとはまた違う。頭の中身をカタチにするというだけでも怖いのに、それを人目に晒さなくてはならない、という状況そのものが言葉を詰まらせにくるとでもいおうか。

「「他者の目を意識した自己」は如何なる言葉を紡ぐか」……この辺については太宰が上手いと思う。あとは鷗外あたりか。

 

僕なんかは趣味でブログを書いているだけなので本当に詰まったらやめてしまえばいいけれども、言葉を吐き出しつづけることが仕事や義務となっている人というのはなかなか苦しいんじゃないかと思う。

本当は僕もそういう苦しみに苛まれる側の人間になりたいはずなんだけどね。これはオフレコ。

 

まあ、僕が必死こいて並べる三億の言葉よりも、三億円分の札束の方が人の心を騒がすだろう。僕がゴチャゴチャと言葉を喚くよりも、イケメンや美女がニコッと微笑む方が人の心を打つだろう。だから、僕の言葉のことはあまり気にしないでいいのだ。

 

 

というこの記事も言葉である、という話。