世界のCNPから

くろるろぐ

橘さんは永遠に抜ける

人生で一度くらい、永遠に抜ける作品ってやつに出会っておいた方がいい。

 

僕にもいくつかそういう作品がある。それはかつて読んだネット小説だったり、コミケでたまたま見つけた漫画だったり、昔観たアニメだったり、そういうやつだ。

 

「橘さん」というのもそういう作品のうちのひとつである。とあるフォロワー氏にお勧めしていただいた。本当はリンクを張って紹介すべきなのだと思うが、あまりに名作なので迂闊にブログなんぞへ書きたくない。どうしても興味のある方は僕のツイッターにお声をお掛けいただきたい。きちんと原典のURLをご提供する。

 

「橘さん」もそうだが、アダルトコンテンツというのは素晴らしいものだ。現実世界の誰をも傷つけることなく、虚構世界の中で己の欲望を好きなだけブチまけることができる。僕にとってアダルトコンテンツは昔から逃げ場だった。つらいときに薄暗い部屋でえっちな作品に触れていると、なんとなくすべてを許せるようになるのだった。

 

ところで、僕はアダルトコンテンツを愉しむ際、「すべての登場人物に自己投影している」あるいは「誰にも自己投影していない」、そのどちらかでやっていっているらしい。

例えば、異性愛者かつ性自認的に男性、というタイプの男性が異性愛AVを見るときは、おそらく「竿役の男」に自己投影するんじゃないかと思う(もちろん女の方に自分を寄せる場合もあるだろうが)。NTRを好む人なら「恋人を寝取られる側」に自己投影するだろうし、虚構世界において痴漢される自分を夢想したい人なら「痴漢被害者」に自己投影するだろう。同性愛者でも、まずは「タチ」か「ネコ」かで作品への姿勢が変わってくるだろう。

つまり、どういう趣向のどういう状況のどういう作品についても、自己を作中の誰かへ投影し、作中の誰かの視点で愉しむ、というのがわりかし普通なんじゃないかと思う。しかもその「誰か」というのは、自分が享受したい快楽を作中において享受している「誰か」である場合が多いんじゃないだろうか。

 

しかし僕はどうもそうじゃない。作中人物を画面越しに、あくまで傍観者・観劇者として愉しんでいるようだ。といっても斜に構えているつもりはなくて、ただ「自分が作中人物になる」という感覚を持たないまま、作中の興奮を浴び、作中の絶頂を受け取り、作中の顔射に喝采を送っている、という感じである(?)

 

思うに、僕は他者のセックスを好みすぎているのだ。

他者が己の欲望をいかに表現するのか、他者同士が互いの欲望同士をいかに絡めあい探りあうのか、なぜ人類は一度たりとも性的なるものを文化や文明から排除できたことがないのか、なぜ人間はセックスをしつづけるのか……なんちゃって……

「性欲」は、それを持つ人々にとっても、溢れさす人々にとっても、持たない人々にとっても、どうしても無視できないものとして在るように思う。何をどうしたって、やっぱり奥深い。考えれば考えるほど、どこまでも飛んでいける。

だから僕は他者のセックスが好きだ。自分がどうこうするとかではなく、ただセックスというものが好きだ。

 

という視点でやっているせいで、特定の「誰か」に自己を仮託しながらアダルトコンテンツを愉しむ、ということにならないんだろうと思う。セックスという概念そのものを愉しみたいという態度なのだ。

そしてそんな視点でやっているせいで、特定のジャンルにもこだわらないし、特定の地雷を持ってもいない。あらゆる「性欲」のありようを好いているからだ。

そしてそういう視点でやっている僕個人の感想を言わせていただくと、橘さんは永遠に抜ける。