世界のCNPから

くろるろぐ

快速列車に殺されかけた

空が暗い。虫が鳴いている。風の匂いも秋である。春には春の、夏には夏の楽しみがあったけれども、秋もまた悪くない。

 

快速列車に殺されかけた。

 

列車事故による死は華やかだ。痛みも苦しみも、飛散する血液の量も、影響を受ける人間の数も。鮮やかな赤と錆びた銀。

 

それが自殺である場合、列車による轢死を選択することには多少なりとも自己主張の意思が伴うのではないかと思う。けれど実際のところ、死体は個性のない肉塊となってしまうし、主張したかったはずの自己は消え失せてしまうし、それだけやってもせいぜいテレビやネットのニュースをチラと飾るくらいのことにしかならないわけで(最近は飾られすらしないかもしれない)、切ない話でもある。

 

一方、轢死はああ見えて楽な死に方でもあるかもしれない。骨肉を砕かれる瞬間的な痛みに耐えるだけで済む。遺族が支払う多額の賠償金のことも、足止めを食らう何万人という人々のことも、醜く潰れる自分自身の死体のことも、死んだ当の本人には関係のないことだ。もともと自殺というのは自らのエゴイズムを認め赦した先にある死に方なのではないかと思う、であれば、「死んだあとのことを考えない」というのは別に責められるべきことでもない。

 

などと語りながら、なるほど確かに僕も、ふと気を抜くと引き込まれそうになる。

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一歩踏み出して闇の誘いに乗れば思いのほか柔らかく受け止めてもらえるんじゃないか、そんな気になることもある。

親しみ深い「闇」については、例えば梶井基次郎の「闇の絵巻」でも語られている。

 

梶井基次郎 闇の絵巻 - 青空文庫

闇の絵巻

闇の絵巻

 

まあ、「闇の絵巻」は死そのものを扱った作品ではないかもしれないんだけれども。

完全なる闇というのはむしろ心地のよいものだ。世の中はときに眩しすぎる。こと都会方面に住んでいると、そう思う。人を愛し人に愛されてきたステキに明るい人々に囲まれていると、そう思う。

 

 

さて、そんなことを思いつつ僕は列車の来るのを待っていた。僕もそれなりの都会に住んでいるつもりだが、それでもホームドアを導入していない駅というのは甚だ多い。予算の都合もあろう。深夜まで利用者のいる駅をどう工事するかという問題もあろう。一筋縄ではいかないものである。僕の利用している駅もそういう悲しい駅だった。

 

ホームの端へ近づいたつもりはなかった、いつも通り黄色い線の内側にいたはずであった。けれども風は思いのほか強かった。

不協和音とともに一陣の疾風が僕を後ろから殴った。情けない声が出た。高速で走りぬけてゆく列車に体が引き込まれようとするのを感じた。僕はどこか本能的に息を詰めて体勢を整えた。一瞬のことだった。

 

まぁ、なんのことはない、別に殺されはしなかった。

 

僕は駆けていく列車を後ろから眺めた。死の風はまだ吹いていた。いい風だった。快く速い風だった。快速列車は僕を乗せてくれないまま、脇目も振らずに次の駅を目指していった。僕はホームに取り残された。

続いてやってきた普通列車に乗り込んで、僕はおとなしく自宅へ向かった。

 

普通列車は始発から終電までの間であれば各駅に停車してくれる。大抵の駅から乗れるし、大抵の駅で降りることができる。そういう手段で移動したほうがいい場合もある。快速列車は運が良くないと乗り込めないタイプの列車であり、いざ降りようというときに止まってくれないタイプの列車であり、間違えたものに乗ってしまうと引き返すのに手間がかかるタイプの列車であり、通過するときに人間を巻き込んで殺しうるタイプの列車であるから。

普通列車の終電さえも逃してしまったときは粛々と歩けばいい。どこかしらで翌朝の始発電車に乗ることができる。敢えて電車を降りて歩いてみたっていいと思う。闇というのはむしろ心地のよいものだ。世の中はときに眩しすぎる。列車はときに速すぎる。

 

ふと気を抜くと記事がポエムになる。

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秋だからね。