世界のCNPから

くろるろぐ

道端のゲロ溜まりは“避けて通られる”という時点で実はかなり気にされている存在だ

ともかくも新宿を歩く人間は

顔がいいなと思った次第

(心の川柳)

 

大きなものを入れておける袋が必要になったので久々に新宿へ出向いた。この時間帯、新宿駅東口のあたりはかなり混み合っていた。行き交う人々とぶつからないよう自然と肩を動かして、何だかぼうっとしながら歩いた。空は黒、街明かりは白、緑、赤、青。いろんなものが光の中に溶けて見えた。人間自体からも光が発散されているようだった。

 

ともかく都会の人間は顔がいい。どんな親の元へ生まれ、どんな環境で暮らし、どんな生き方をして、どんな価値観を持ち、どんな人生を送ってくるとああいう顔になるんだろうかと、いつも思う。顔だけでなく背丈や体型もいい。すらっと背が高く、骨と筋肉とが造形美の限りを尽くしている。服もいい。流行なんて分からないけれども、彼らが自分という作品を最もよい方法で表現しようとしているのはどことなく伝わってくる。誇張でなく、ちょっとした芸能人になら簡単になれるだろうと思われるような美しい人たちが新宿という街には本当にワラワラ歩いている。

 

そういう中にいると、僕は自分の生きているのが恥ずかしくなってくる。

 

自分で自分の造形を気に入ることができないというのは悲劇的なことだ。鏡はできるだけ見たくない。すれ違う人々の笑い声が僕の醜さを嘲笑う声なのではないかと感じる。盗撮されてツイッターに晒され、「マジで気持ち悪い奴おった」などと叩かれるんじゃないかと怯える。人前に出るのがとても嫌だ。目立つはずがないとわかっていても嫌だ。

 

とはいえ、僕は実をいうと他者からイケメンだと思われたいわけではない、と思う。ここはちょっと面倒くさい感情なのだが、要は自分で自分のことを気に入ってみたいという話なのだ、たぶん。

自分で自分のことを気に入っていないから、他者から有難いお世辞(と書いて「おほめ」と読む)のお言葉をいただいても、感謝はすれど納得はできない。だって自分じゃイイと思わないんだよな、となってしまう、こういうところがあるせいでよく頑固だと言われてしまうんだけれども。

自分で自分のことを気に入っていないから、他者から嘲笑されているような気がしてしまう。嘲笑されうる状態である自分を意識してしまう。誰も見ちゃいないのに、誰にも見られたくないと感じる。

上手い例えが思いつかないが、そうだな、チャック全開で街を歩いていて、自分でもそれに気づいているのに、どうしても閉めることができない……開けたまま歩かなくてはならない……というような気分に近いだろうか。汚い下着はチャックを上げれば隠せるけれども、汚い顔面はなかなかうまいこと隠せるものじゃない。低い背丈も、太った体躯も、濁った地声も、腐った体臭も、ズボンで覆っておくというわけにはいかない。穢らわしい姿をお見せして申し訳ない、などと口先で謝罪しつつ、晒しながら歩いていくしかないのである。

 

まあ冷静になってみれば、道行く人々は僕のことなど道端のゲロ溜まり以上に気にしていないようだし(道端のゲロ溜まりは“避けて通られる”という時点で実はかなり気にされている存在だ)、何もそこまでゴチャゴチャ恥じ入る必要はない。はずである。身近な人は僕の外見を一切気にしていないようだし(そもそも僕のことを見てすらいないのではと思う)、このままでも支障はない。はずである。

けれどもけれども、やはりチャック全開で歩きたくはないなと思ってしまう、という、この見栄は、はたして誰に宛てたものなんだろうと考えだすと、暗澹。何しろ誰も気にしていないんだからな。

などと思索を広げていくと、これは容姿に限った話じゃないな、なんてところに行き着く。こんなブログをこうして書きつづけてしまう僕は、洗濯もしていない下着をこうして見せびらかしながら歩きつづけてしまう僕は。……

 

帰り際、今日の月がひどく明るいということに気づいた。月は月自体が光を発散しているわけじゃないのにあんなに綺麗なわけで、そういう手もあるんだよな、とかなんとか、かんとか。まあ月自身はそんなこと考えちゃいないだろう。

本当はすべてどうでもいいことなのだと、思えたらいいのにと思った。