世界のCNPから

くろるろぐ

そんな日曜日の夜、だった

「男でメンヘラはヤバいでしょ」というようなツイートを見かけて、男女で扱いを変えるのは良くないだろうと首を傾げつつ、どんな人でも苦しいときはあるだろうと頷きつつ、でもどちらにせよ病んでいる僕(他の誰かではなく、僕)に対して不快感を覚える人もいるんだよなあとしんみり感じた、日曜日の夜、「つらいときは吐き出していいんだよ」と他人には言うけれど、僕自身は吐き出さない方がいいんだろうなと思った、「苦しいときは頼っていいんだよ」と他人には笑顔を見せるけれど、僕自身は自立できるようになろうと思った、生きることも赦されないが死ぬことも赦されないというのが雑魚の在り方なのだと悟った、そんな日曜日の夜、だった。

 

一口に「メンヘラ」といっても色々なタイプがある。と、いうような話をするとき僕は大抵コトバンクなどのネット辞書からまず語義を引用してくることにしているんだけれども、今回はGoogleで「メンヘラ」と検索した途端に吐き気を催してしまったのでやめておくことにした。世の中は「メンヘラ」と呼ばれる人間に対してとても……なんだろう……手厳しかった。

本当はこんなこと思いたくなかった、公平で客観的な立場から話をする方がいいと思った、けれども、揶揄する側に立てる人間のなんと多いことか、と思ったし、幸せな人たちが羨ましい、とも思った。「メンヘラを見分ける方法!」みたいな記事を嬉々として書ける人も、ワクワクしながら読める人も、あまりに恵まれた人たちだ。

 

 

僕の場合、実をいうと「誰でもいいから愛してくれ」状態というよりは、どちらかというと「本当は自分のことを肯定したいのに周囲がそれを許してくれないような感覚に陥る」状態にある。たぶん優しい方々は「肯定していいんだよ」とおっしゃってくれるだろうけれども、なんというか駄目なんだな。過去に犯してきた失敗が、未来に犯すだろう失敗が、現在の一瞬一瞬を生きる僕を脅かしてきていて、あんなことをしてきたお前が許されるわけがないだろう、これからも同じ過ちを犯すに決まっているだろう、というような幻聴が聞こえてくるような気がする。そして実際、僕はそういう過ちを犯してばかりいる。

 

一瞬だけ、僕も頑張ったんじゃないかな、と思う瞬間があったとしても、次の瞬間、もっとつらい思いをしている人がいるとか、もっと努力している人がいるとか、過去に酷いことをしてきた自分がいま何をしたところでそれが認められることはないとか、今回たまたま良くできただけなのに調子に乗るべきではないとか、そんな風に「仮想他者」の声がしてしまって、あ、ごめんなさい、何もできていませんでした、となってしまう。

そういう状態でいるから、死はどうしても“自分の犯した罪”や“自分のかいた恥”や“自分の傷つけた人々”から逃れるための手段であると感じてしまっていて、死にたいなあという感情はそういうところからくる。とはいえ、そうやって逃げるための死を望んでいる僕の醜さは人から責められても仕方のないものだ、とも思う。死ねば楽になれる、という態度の汚さ、狡さ、愚かさ、そういったところを刺されても本当に仕方のないことだと思う。だって僕は雑魚なんだから。

 

と、いうようなことを、僕は頼まれもしないのに語りつづけている、そういう種類のメンヘラなのだった。

 

要するに僕は実力が伴わないのに自尊心ばかり高いのだ。自分のことしか考えていないのだ。そういう点で僕は間違いなく「メンヘラ」であり、そう呼ばれるに相応しいのだ。僕は自ら李徴を気取り、自ら語り手となって予防線を張り、ツイッターを袁傪に見立てて漢詩を詠みつづけている。袁傪を食ってしまう前に我に返ったにもかかわらず、何も言わずその場を去ればよいところを、聞こえよがしに「あぶないところだつた」と呟きつづけて袁傪の気を引いた虎。李徴の漢詩に対し、袁傪の感想というていで、「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか」などと語ってみせた語り手。都合のいい「聞き手」としての袁傪を描き出した語り手。

自己弁護。

 

中島敦 山月記

 

今日は一日中を寝て過ごした。脳味噌が重い。やってられねえなと思う。明日は月曜日だ。