世界のCNPから

くろるろぐ

へけっ

徒然なるままにツイッターを眺めていたら、久々に「ぼっさんコラ」と呼ばれるコラ画像が流れてきたので、ふと過去のことを思い出してしまった。

 

ぼっさん

ぼっさんとは編集

 

 

なぜこの「ぼっさん」を見ると過去を振り返ることになるのかというと、かつての知り合いに「ぼっさん」とかなりよく似た男がいたからである。髪型、体型、服の趣味までよく似ていた。一時期はそいつのあだ名が「ぼっさん」になっていたくらいだったし、本人も「でちゅわ」と語尾につけていたくらいだった。

 

もう3年間は会っていない。

 

3年前に会ったのは、たまたまそいつの誕生日会が開催されたからだった。当時まだ社交的だった僕はわざわざバイト終わりの体を引きずって会いに行った。思えばあの頃の僕はなぜあんなに社交的でいられたのだろう。高校時代、最も迷惑をかけた相手のうちのひとりである〈偽「ぼっさん」〉に、なぜノコノコと会いに行けたのだろう。

 

〈偽「ぼっさん」〉は本当によくできた人間だった。僕は彼を中学1年生から高校3年生の6年間にわたって見てきたのだが、彼はその間いちどたりとも「黒歴史」を作らなかった。いつでも小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら一歩引いたところにおり、それでいて場を白けさせるでもなく、なんだか羨ましいくらいによくできたオタクだった。

元来オタクというのは「趣味にネチネチこだわるあまり、知識や技術や思考回路は見事だけれども交友関係や恋愛関係を上手くやれない人」というものだと思うのだが、彼はそういうタイプの生粋の「オタク」だった。

気の知れた童貞仲間と一緒にいるときは底抜けに明るいのに、クラスの女の子から「お茶一口ちょーだい」なんて言われると一瞬で口ごもって何も喋れなくなる、そういう奴だった。

 

高校時代は〈偽「ぼっさん」〉を中心として何人かの童貞が集まって歓談する、というのが教室での過ごし方のひとつだった。もし僕が何もかもをぶち壊してしまいさえしなければ、そういう歓談の場は今になっても続いていたかもしれない。

 

だから僕は過去を思い出したくないのだった。

 

「あの頃のクロルやばかったよねw」とか、「まだ許してないよw」とか、「メンヘラは進行してるか?」とか、そういう冗談めかした言葉でさえ、僕は怖かった。たぶん冗談じゃないのだ。嘲笑と怨嗟。憤怒と失笑。

「みんなまだおぼえている」という恐怖。

 

たまにやってしまうのだが、今日も高校時代の知り合いたちのツイッターフェイスブックを眺めに行った。みんなそれぞれに苦しみ、それぞれに楽しんで生きているようだった。良かった、と思った。できることなら、本当に本当に僕のことなど忘れてほしい。もう思い出されたくない。過去に学び現在に活かし未来を創る、という理想形を眼差しながらも、罪人である僕は、過去を忘れ現在に生き未来を捨てるしかないのだから。

 

しかし。

みんないい人たちだったなぁ、と僕は、かつての知り合いたちのSNSをストーキングしながらホンノリ微笑んでしまうのだった。

不思議なことに今日の僕は、彼らの生活を覗き見ながら、いつもの骨まで震わせる恐怖だけでなく「みんな元気そうで良かったな」というシミジミした気持ちをも感じている。

それは恐らく今の僕が、彼らの輪から外れたままの状態を保ちつつ、彼らを見ているからだろう。直接的に会話しているかどうかというのはあまり意味を持たない。ただ、感覚として……実感として、「僕はこの人たちの輪の中にはいない」「僕はこの人たちと関われない場所からこの人たちを見ている」という気持ちになっているので、気が楽なのだろうと思う。

ひどく高い建物の上から、地上を見下ろしているような……ふと死んでしまって、幽霊となって生者たちを空中から眺めているような……そういうのんびりとした感情だ。

いつもはこんな風にならないので、今日は体の調子がいいのかもな、あるいは疲れ果てすぎて、本当に魂が抜けてしまっているのかもな、などと考えている。

 

まあ何はともあれ、みんなが幸せになれそうなら、それでいいのでちゅわ。へけっ。