世界のCNPから

くろるろぐ

結局のところ

仕事を終えた足でスーパーへ向かい、適当に肉と野菜とを買って、人の家へ上がりこんだ。米を炊いた。洗濯をして干した。消費期限の切れた食材を、まだ新鮮な食材と組み合わせながらおかずを作った。帰ってきた家主が飯を食い終わるのを見届けて、皿を洗ってから帰ってきた。

 

いまは一人反省会中である。

 

無洗米をいつもの癖で研いでしまったことを思い出した。洗濯を夜にするのはあまりよろしくないのに思いっきり洗濯してしまったこと、さらに外へ干した直後から雨が降り出したことを思い出した。ネギを焦がし肉を焦がし味噌汁を増やし、味も見栄えもパッとしない料理を生成してしまったことを思い出した。

家主は「ありがとう助かった」と口に出してはくれたものの、それがどこまで本心からの言葉であったかという点については家主のみぞ知るところである。

 

自己満足なのだ、結局のところ。

 

誰かを支えたいという思いは「誰か」の自立を妨げうる。誰かに尽くしたいという願いは「誰か」を雁字搦めに縛り付けうる。誰かを愛したいという祈りは「誰か」の心に害を与えうる。相手の気持ちを知ることはできない。「相手の立場に立って考えましょう」という幼子向けの教えは本当のところ、「相手の立場に立つことはできない」という真理に気づかせるための教えだったのだと思う。

 

とはいえ僕は「知ることができない」から「知ろうとすること自体が無駄なことだ」とは思っていない。他者理解の絶対不可能性を噛み締めた上で、それでも他者を理解しようと、他者の感情に少しでも近づこうと足掻き“つづける”こと……それ自体は、意味のあることだと思っている。

 

……しかしその「足掻き」は、意味のあることでありながら、同時に「誰か」を傷つけうるものでもある。がむしゃらに動かした手が「誰か」を叩いてしまうこともある。それでも足掻きつづけるのであれば同時に、他者を傷めつけてしまう可能性までも背負いつづけなくてはならない。

 

と、そんなふうに思うので僕は、単純に好きとか嫌いとかやっていられなくなってしまうのであった。

自分のやっていることは所詮、「誰か」を傷つけているだけの行為なのではないか……という恐怖と不安、それをこうして語ってしまう醜悪な欺瞞、予防線を張る自分への嫌悪感。押韻は完璧だね。そうじゃなくてな。

 

……自己嫌悪に陥っているつもりで自己陶酔に陥っているというパターンも往往にしてあるなというのが最近の気づきなので、自分については嫌悪でなく反省をしていきたいところである。自省内省猛省。

 

まあいずれにせよ、今日は僕が自分の“支えたい”“尽くしたい”というわがままを突き通してしまっただけという感じがするので、そのあたりまた考えなきゃなと思う次第。

 

とりあえず次はネギを焦がさないようにしたい。