世界のCNPから

くろるろぐ

【今ナメクジの写真を見たくないなら絶対に先を見ないでください。記事にナメクジの写真を使いすぎて、ほぼ100%ナメクジの写真を見てしまいます】

トイレにナメクジがいた。

 

正確には昨日の朝からいたのだけれども、朝は時間がなかったのでそのままにしておいたのだ。僕は実家暮らしなので、家族のうちの誰かしらが追い出すなり塩を撒くなりするだろうと踏んでいたのもある。が、それは甘い考えだった。

ナメクジは昨日の朝いたはずの“トイレットペーパーホルダーの横”から、“トイレットペーパーホルダーの上”まで移動を遂げていた。そんな位置にいてよく今まで気づかれなかったな。

 

しかし、僕はふと思った。これはナメクジなりの承認欲求の表現なのかもしれない、と。

トイレットペーパーホルダーの横にひっそりと張り付いているだけでは誰からも見てもらえなかった……もっと自分を見てほしい、自分の存在に気づいてほしい、愛してほしい……現代人の多くが悩まされてやまないという承認欲求を、このナメクジも抱えていたのかもしれない。何だか苦しくなった。

 

とはいえ、承認欲求というのは一概に悪いものであるというわけでもないと思う。「人に認められたい」という欲求をバネにして何事かを成すことができるのなら、それは充分に意義のあることなのだ。「腹減った→食う」「眠い→寝る」「セックスしたい→する」と同等に、「人に見てもらいたい→見てもらえるように何かやる」、というのは自然なことだ。

ではなぜ承認欲求に対し否定的な目が向けられやすいのかというと、「見てもらえるなら方法は何だっていい」という方に流れてしまいやすい欲求だからであると思う。「私を見て」というのが高じすぎて、他者に迷惑がかかっていることに気づけなくなってしまったら“終わり”であるはずなのだ。

渋谷でトラックをひっくり返した人たち、恋人の精神を蝕むいわゆる〈メンヘラ〉、派手な犯罪に手を染める凶悪犯罪者、そういった人々の根っこにあるのはそういう「見てもらえるなら何だっていい」という怠惰なんじゃないだろうか。人の視線を浴びることの快楽だけを追い求めて、その視線が含む意味に意識を向けようとしない、そういう傲慢……なんじゃないだろうか。

 

つまるところ、承認欲求そのものは悪ではない、「頑張ったから/頑張るから、見て褒めて讃えて」という欲求は、むしろ達成感・爽快感・優越感を得るために無くてはならないものだ、ただしその方向性は、他者への影響は、常に意識しなくてはならない、……というのが僕の感覚である。

 

いやーしかし僕、ナメクジを見ただけで思考を宇宙に飛ばせるな?

 

……そんなことを考えながら、僕は思わずナメクジをじっと見つめた。その一瞬の動きを覚えておいてあげたくてスマホのカメラを向けた。するとナメクジは僕の視線に応えるように、その体をくねらせはじめた。

なんだこいつ、可愛いじゃないの。

粘液に濡れた胴体、艶かしく踊る触覚、どことなく淫靡な蠕動……認めざるをえない、こいつは……かなり…………

 

と、トイレで独り言を言いまくっていたらナメクジはトイレットペーパーホルダーから降りて物陰に隠れてしまった。実をいうと見とれているうちに退治できなくなってしまったというわけなのだ(つらい)。

まあ自力で外へでも脱出してもらいたい。

 

さて、ここから先は写真しかないから、ナメクジを苦手とする方々にはここで引き返していただこう。

お付き合いいただき誠にありがとうございました。

 

 

 

【今ナメクジの写真を見たくないなら絶対に先を見ないでください。

記事にナメクジの写真を使いすぎて、ほぼ100%ナメクジの写真を見てしまいます】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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