世界のCNPから

くろるろぐ

確かに一週間ほど溜め込んだ後の方がいっぱい出るし快感も強いのだが

毎日記事を書きたいんだ本当に。

 

 

さて。

ある人が「性欲」と「性別」とに関する興味深い記事を書いていたから、僕も便乗しようと思う。といっても僕も専門家ではないので、大したことは書けないだろう。あらかじめ断っておく。

内容は薄いのに7000字を超えてしまったのでゆっくりお楽しみいただきたい(反省)

 

ところで、皆様は「精子戦争」という本をお読みになったことがあるだろうか。

精子戦争---性行動の謎を解く (河出文庫)

精子戦争---性行動の謎を解く (河出文庫)

 

射精された精液に含まれる精子の数は変化する。それは前回のセックスとの間隔や相手と一緒にいた時間に関係する―この驚くべき著者の理論は、全世界の生物学者を驚かせた。私たちの日常の性行動を解釈し直し、性に対する既成の概念を革命的に変える、まったく新しい観点から生み出された衝撃作。

 

(参考: 精子戦争: 性行動の謎を解く - ロビンベイカー - Google ブックス )

 

表紙だけを見て咄嗟に購入してしまった本なのだが、想像以上の大当たりだった。

精子戦争」は、長年「性欲」について研究してきた生物学者ロビン・ベイカー氏によって著された一冊である。

その中身は、彼の積み上げてきた研究内容を[ごく短い小説→その場面に隠れている重要な性欲的要素の説明]というひとまとまりにして順々に解説していく、という構成となっている。専門的であるはずなのに読みやすい。

そして、この本はまさに「性欲」やら「性別」やらの話題を解説してくれているのである。だから今回この記事を書くにあたって、この本を役立てたいと思う。

 

……ただし、一応ひとことだけ。「精子戦争」は初版が2009年、つまり10年前だ。こと科学分野において、10年の開きというのは大きいものだと思う。ベイカー氏による主張の数々は、生物学界においてとっくに古い論となっているかもしれない。

また軽く調べたところ、(一般読者の感想文は見つけられたものの、)専門家や生物学者の感想文は見つからなかった。つまりこの本の信憑性を担保してくれそうな他の学者たちの声というのが、インターネッツでササッと見つかるようなところにはなさそうなのである。

筆者本人も以下のようなことを書いている。

私の解釈について、同僚の学者たちみんなが同意見であるというわけではない。(中略)しかし私としては最新の研究による純粋に学問的な解釈に基づいて語ったつもりである。

 

以上を踏まえ、「まぁ真実とは限らないかもね〜」くらいの気持ちで読んでおかないとマズイことになるかもしれない、ということだけは言っておきたい。免責事項ってやつである。

といっても、中身の面白さに変わりはない。たとえ細かい点が科学的事実と違っていたとしても、僕らは専門家でも学者でもないので、もっと大枠で捉えて、「そういう見方で見ると面白い」くらいの態度を取っても構わないのだ。ドヤァ。

 

そんなわけで、すべての内容をお話ししてしまいたいほど面白い本である。しかしそんなことをすると怒られること間違いなしなので、今回は「性欲」とか「性別」とかの話だけに絞って少しだけ紹介したい。

 

とりあえず「男性」のオナニーについて引用する。おあつらえ向きに「マスターベーションの役割」という章があるのだよ……

 

マスターベーションの経験は九八%以上の男性にある。さらに、実際、それは誰でも二十歳までに経験する。しかし、これほど広く行われている行為であるにもかかわらず、精子を射出する習慣は子孫繁栄の面で重要な武器になると考える男性はほとんどいない。しかし、これはまさにそうなのである。(中略)

 

マスターベーションは、実際は非常に複雑な行動で、頻繁に射精する男性、あるいは射精する可能性のある男性が、次の射精を調節する方法なのである。どんな状況になるかを予測して、男性はマスターベーションを使って、相手の女性の中に射精する精子の数といつ精子をつくるかを調節することができる。(中略)

 

男性の体は、マスターベーションとセックスの違いを区別できるのだ。両方の射精精液の中身は同じではない。セックスで射精する精子の数はさまざまな状況によって変わる。(中略)しかし、男性の年齢を別にすると、マスターベーションで射出される数に影響する唯一の要因は、最後にした射精からどのくらいたったかという時間の経過である。(中略)

 

セックスと次のセックスの間にマスターベーションをすると、しなかった場合より次のセックスの射精で出る精子は少ない。しかし、射精された精子は、若くて、動きが活発で、邪魔をする年老いた精子も少ない。(中略)

 

男性はいつでも若々しい精子軍団を持ち、絶えず準備のできている状態にしておかなくてはならない。セックスや精子戦争がすぐに起こるかもしれないからである。

 

す、すげぇ!

つまり、オナニーは完璧な精子を完璧なタイミングで射出するための準備運動だったというわけなのだ。「ティッシュへの無駄撃ち」と嘲笑されがちだが、実は無駄なんかじゃなかったのである。

「相手がいない」とかいうのは今回あまり関係ない。体が、脳が、「いつでも理想的な射精に備えるために動いている」ということ自体がめちゃくちゃ面白いと思った。

そしてここで気づかされる……「一週間溜め込んだ濃厚こってりザーメンを受け取れ! 孕め!」という表現について……確かに一週間ほど溜め込んだ後の方がいっぱい出るし快感も強いのだが……生物学的にみるとむしろシコってから24時間以内の新鮮なザーメンの方が孕ませやすいのだということに……

 

 

次に「女性」側の話。こっちはちょっと複雑なので体の構造の話あたりから引用しておきたい。

 

子宮は西洋梨を逆さにした形をしていて膣の上のほうに位置しているのだが、多分あなたの指先は届かないだろう。西洋梨の細くなった部分が頸部と呼ばれるところで、ここが膣の天井に突き抜けているところであり、二センチほど膣の中へ突き出している。(中略)頸部には細い管があって、この管が膣と子宮の内部をつないでいる。精子はここを通らないと子宮の中へ入っていけない。(中略)

 

頸管の中は空ではない。粘液が詰まっていて、指をしばらく中に入れておくと、少しだが頸管粘液は指に落ちてくる。

 

この「頸管粘液」というのを説明しておかないと以降の話がしにくいんだよな。そんでオナニーの効果が以下。

 

一つには、マスターベーションは、(中略)一時的に頸管から膣への頸管粘液の流れを増やす。(中略) この頸管粘液の流れが膣のヒダに粘膜を付着させて潤いを増し、次の性交の準備をする(中略)。さらに、絞り出されるのは最も古い部分の粘液なので、一緒に古い(中略)精子や病原体などを含む頸管数を多く運び出す。これは感染を避ける効果的な方法である。(中略)

 

二つ目に、マスターベーションは頸管粘液の酸性度を高める。(中略) 精子バクテリアも、酸性の頸管粘液の中では正常に働かない。そのため、マスターベーションの後しばらくは、おそらく何日も、精子は頸管粘液の編み目を通って泳ぐ力が弱まり、病原体は侵略や増殖がしにくくなる。

 

三つ目に、マスターベーションは頸管のフィルターの強さを変える。たいていの場合、強くする。これは今述べたように酸性度が強くなるためばかりではなく、オーガズムが引き金になって頸管の窪みの貯蔵庫に溜まっている前回の射精からの精子を半分ほど追い出すようにするためである。これがフィルターを強化するのだ。(中略)

 

女性は妊娠しやすい時期のほうが妊娠しにくい時期より頻繁にマスターベーションしたくなる傾向がある(中略)。その意味がここでわかるだろう。この時期こそまさに、女性が性交のために膣の潤滑油と頸管のフィルターを準備することで最も利益を得る時期なのだ。

 

女性のマスターベーションにもこれだけ意義があるということだ。

しかしこうして頸管粘液の動きを知ってみると、「精子の泳ぐ力を弱める」とか「精子を追い出す」とか、どうも精子に対して冷淡なように思える。

それもそのはず……実は男性の体と女性の体とで、セックスにおける最大の目的が違っているのである! というのが生物学者・ベイカー氏の論である。

 

生物学的観点から見たセックスおよびオナニーというのは以下のような感じらしい。

 

男性(の肉体)の目的は、女性(の肉体)に自分の子どもを産ませることだ。

男性は基本的に自ら子どもを産めないので、自分の子孫を残すためには女性を孕ませなければならない。だから機会があればすぐに女性を妊娠させることができるよう、「絶えず準備のできている状態」にしておこうとする。

よって、男性のマスターベーションの意義は「理想的な精子を保つこと」になる。

 

一方、女性(の肉体)の目的は、よりよい男性(の肉体)の精子を得て自分の子孫を強いものにすることだ。

ひとりの女性が産むことのできる子どもの数はそう多くない。なので女性が弱い精子をポンポコ受け入れていると結果的に自分の子孫を弱めることになってしまう。だから女性の方はよりよい精子を手に入れ、より悪い精子を追い払うことを目的とする。また、ここぞというときに感染症にかかっているとまずいので、消毒の意味で粘液を分泌することもあるらしい。

まとめると、女性のマスターベーションの意義は「この人ぞという相手の精子が一番いい状態で入ってこられるように調整すること」になる。

 

つまりオナニーについては、性欲の強弱の問題であるというより、調整の間隔の問題である可能性が高いんじゃないだろうか。まあ、セックスに向けて肉体の調整をするためにオナニーをするのだという捉え方をするなら、一切セックスする予定のない人間にとってオナニーはそんなに必要でもないわけで、……とか言えないこともないかもしれないけど。

 

少なくとも、いずれにせよ性別問わず悪いものであるはずはない。腹が減れば腹が鳴るように、眠くなれば欠伸が出るように、ごく自然な肉体の働きでしかないということがわかると思う。

 

いかかだろう。ヒトのオナニーにはこんな意味がある、……かもしれない、と思ったら、ちょっとワクワクしないだろうか。

もちろん最初に述べておいたように、これらが科学的事実であると断言するのは危険かもしれない。けれども……けれども、「そういう見方で見ると面白い」くらいの態度で、視野を広げるくらいのことはしてもいいと思う。

 

……男だから〜女だから〜というような論が、僕は苦手だ。あらゆる人間がことごとく自分の生きたいように生きていければいいと切に願う。そのためにも、思い込みでモノを言うのではなくて、少しずつでも肉体のことや精神のことや倫理観やら価値観やらについて相互理解できるようにしていきたいと思っている。

僕がセックスの話を好むのにはそんな理由もあるのだ。多種多様な価値観の寄せ集め、という点において他に類を見ない分野だからね。

 

 

……

 

ここからは僕の妄想だが、……

ヒトの性欲というものは、大元を辿れば生殖本能からきたものだと思う。ヒトも動物であり、子孫を残さないと絶滅してしまうから、遺伝子レベルで生殖本能が備わった、それが性欲として顕われた、というようなことだったんじゃないかと思う。

 

たとえば僕はかつて、「もしセックスが誰にとってもめちゃくちゃ痛いものだったら、「子どもを作りたい場合だけ頑張ってセックスする」という文化になって、強姦だの不倫だのといった問題を起こすこともなくなるはずだったんじゃないか?」というようなことを考えたことがある。

けれど、恐らく本当にそうなったら、人類は一瞬で滅亡するのだ。セックスが気持ちいいもので、やりたくなるものだからこそ、ヒトはセックスをする……その結果として子孫を残すことができる、絶滅を避けることができる……そのための性欲であったのだと思う。

 

精子戦争」の中にもこんな一節がある。

基本的には、体がある特定の行為へと向けられると、その行為を遂行しようとする衝動が起こる。その衝動が満たされたときに生まれる感覚が、喜びである。

生殖という「特定の行為」を「遂行しようとする衝動」が「性欲」であり、「その衝動が満たされたときに生まれる感覚」が「快楽」、だったということなんだろうと思う。

 

でも世の中には、「子どもは欲しくないけどセックスは好き」という人や、「性欲を感じない」という人、果ては「セックスに対して嫌悪を感じる」というような人もいる。

「性欲」の感じ方は人によって様々で、多種多様・十人十色・千差万別、どんな言葉を使っても言い足りない。しかしヒトが一律に生殖本能を持っているなら、みな一律に子孫繁栄のための性欲を感じるはずではないのか? 一体どういうことか?

 

……僕は、これこそが“人間”らしさだと思う。他の動物と一線を画した存在たる“人間”らしさだと。

 

少し話は逸れるけれど、僕はコンドームの発明を人類史における超重要事項として捉えている。「避妊」という発想、それは生殖本能と「性欲」とを遠ざける大発想である。生殖という動物的義務から離れて快楽だけを享受する。性行為を人間関係の構築や愛情表現の手段に使う。文化的な生き物である人間だからこそ、こういう発想をカタチにしてきたわけなのだ。

 

で、「子どもは欲しくないけどセックスは好き」という人は、そうした「快楽だけを享受する」という人間文化の極致を愉しむ人なのだと思う。様々な芸術や文明が、この「快楽だけを享受する」ことに特化した「性欲」によって育まれてきた。僕が愛するのもこの、人間を人間たらしめる「性欲」なのだ。

 

すなわち、生殖という義務から遠ざかったがゆえに、「性欲」はより自由な形を取れるようになったのではないだろうか。

もちろん、性欲を感じるタイミングが本能的にベストなタイミングと重なっているだとか、そういう部分における性欲と生殖本能とのつながりは消えちゃいないのだろうが。

 

同性愛は非生産的? 莫迦め。かつて男女の性愛にこだわらなければならなかったのは、生殖との切り離しができていなかったからだ。性欲だけを、快楽だけを味わえるようになった今、いつまでも古めかしい性愛の在り方にばかり固執している方が非生産的だと思うけどな。とかね。

 

といったわけで、子どもを作ることにこだわらなくて済む、というのはひとつの“人間”らしさなのだと思うのである。子どもを作りたくない理由も作りたい理由も、セックスをする理由もしない理由も、生殖本能とは関係のない人間的価値観の中で各個人が考え抜いて出したそれぞれの理由なわけで、そういうところに“人間”を感じるのだ。

 

それを押し広げて考えてみれば、「性欲を感じない」人だって当然いるということに思い至るはずだ。「性欲の満足によって得られる快楽に興味があるかないか」、という話なのだ。

「タバコ欲の満足によって得られる快楽」、「ラーメン欲の満足によって得られる快楽」、「ねこ欲の満足によって得られる快楽」、これらはそれぞれ別物であるが、同様に「性欲の満足によって得られる快楽」というものがあって、それを満足させることが好きだという人もいれば、そうでもない人もいる、というだけのことだ。

「性欲」は、本能と離れて自由になったことで、その程度のものになった。だから「強く感じる人」や「まったく感じない人」を異常視することもまた非生産的で古典的なのだ。……と僕は思う。

 

一方、「セックスに対して嫌悪を感じる」という人も、先に挙げたタイプとは逆の意味で人間文化の中を生きる人間なのだと思う。「(自分の思い描く)文化的で理性的な“人間”」として生きていきたいがゆえに、動物的生殖本能と結びつきうる性欲のおどろおどろしさに恐怖するのではないか。そう、「性欲」は生殖本能から遠ざけられたとはいえ、完全に断絶されたわけではない。どうしたって動物性を孕むし、ときに獰猛である。そういうところを嫌悪する気持ちがあるのかもしれない。

あるいは、「「性欲」が「人間関係の構築」や「愛情表現の手段」に使ってしまえるようになった」という点そのものが苦手なのかもしれない。それは利点でもあり難点でもあるからだ。

僕はそういうおどろおどろしさやドロドロしさを愛好しているわけだが、もちろん怖いと感じる人もいるはずだ。だから少なくとも、怖がっている人々の気持ちを蔑ろにしないようにはしたい。

 

まとまりがなくなってきたけれど、とにかく僕は「性欲」というやつが好きで、好きで好きでやってきたので、「性欲」にまつわる話題にはどうしても食いついてしまうのだ、ということだ。「精子戦争」の筆者もきっとそういうところがあったんだろう、と勝手に仲間意識を抱いてしまう。

 

というか、

 

合計約百組のボランティアのカップルから、約千個の射精された精液を収集したのである。男性にはコンドームを渡してセックスやマスターベーションで出た精液を採取してもらい、女性には射精の後に膣から流れ出たフローバック(逆流)を大変な努力を強いてビーカーに集めてもらった。

 

こんなことまでしてしまうような学者を、この僕が尊敬しないわけがない。

 

 

精子戦争---性行動の謎を解く (河出文庫)

精子戦争---性行動の謎を解く (河出文庫)