それじゃあ少し聞いてもらおう
ある冬の日のこと、猫の耳を頭に生やした可憐な少女が僕の前に現れて、にゃにゃっと優しい笑みを浮かべた。自分のことを好きなだけ話していいと彼女は言った。僕は少し考えて、それじゃあ少し聞いてもらおうと応えた。猫耳少女は満足そうに喉を鳴らすと、僕の近くへしゃがんで話を聞いてくれた。
この記事は自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2018 - Adventar 2018.12.22の記事です。
一、僕と文学とについて
自分で言うと気恥ずかしいけれども、僕はいわゆる〈文学青年〉というやつの端くれ、端っこ、切れっ端だと思う。
知り合いにもっと〈文学青年〉っぽい奴がいるので、これを僕が自称するというのはどうにも嫌なのだが、他にどう言いようもないので分かりやすく借りておく。
僕の記憶が正しければ、僕の本好きは三、四歳あたりの頃から始まっていた。
幼稚園児だった僕は、お外で遊ぶべき時間に絵本を読んで過ごしていた。幼稚園の先生はそれを止めようとしないで、そっとしておいてくださった。そうやって絵本を読みつづけたためか僕は、年中さんのときに年長さんの卒園式の「贈る言葉」係に抜擢されたり、お遊戯会の長台詞を任されたりした。
そして、これは信じていただけるか分からないけれども、その時点で僕はすでに、大学へ行くなら文学部に進むと決めていたのだった。
きっかけは単純なことで、父に「そんなに本を読みたいなら文学部へ行くといい、本を読むのが仕事みたいなところだから」というようなことを言われたからだった。僕は本を読みつづけたかったので、何の迷いもなく文学を志し、文系を選び、文学を学び、文学と戯れた。
そして、それまでの僕の「読書」がいかに甘かったかを思い知った。
文学部なんて遊んでいるだけだろう、と世間の人は言う。確かに、目に見える数値的成果を出せるような学問ではないし、曖昧模糊たる論文を書いてちゃっちゃと卒業できてしまうような印象を拭いきれていないし、甘ったれて見えるのかもしれない。
「文系はクソ」「どうせ文系だろ」「読書感想文を書けば卒業できるんでしょ?」「予算の無駄」などと毎回さんざんな言われようだ。知り合いからさえも「毎日遊んでいられて楽しそう」とよく言われたものだった。
しかし僕はだんだんどうでもよくなった。というのも、文学という芸術の幅広さが、文学という世界の奥深さが、僕を捉えて離さなくなり、やがて僕を呑んでしまったからだった。
自分の「読書」が、時を経るごとに深く重くなっていく快楽。
特に僕は良い教授と良い友人とに恵まれたので、爛れた性生活や乱れた堕落生活に落ち込むことなく、かなりの点において正当な文学部生としての有意義な時を過ごしえたのだ。そうして文学に耽溺していくうちに、世間からの評価も世論からの嘲笑も聞こえなくなっていった。
別に、斜に構えることで自分の身を守ろうというような態度であるつもりはない。そもそも僕は世間に対して、敵意も憤怒も感じていない。彼らは彼らであり、僕は僕である、というのを自然と受け入れているにすぎない。
僕は「自分が豊かになっていく」というこの感覚が好きなのであって、そういう場合、他者の干渉は意味を成さないのである。
……とはいえ僕だって、「数学ができないから文系に逃げたんだろう」なんて言われるとさすがにちょっと傷つく。僕は最初から文学をやりたくて生きてきたので、数学ができないのは事実だけれども、「逃げ」てきたつもりはないのだから。
さて。
そんな僕の専門は国文学・近現代文学だった。人に説明するときは「芥川とか、漱石とか、太宰とか」などという言い方をしている。最近だと「文豪ストレイドッグス」なんかで有名になっているようないわゆる「文豪」の作品群である(早く大江健三郎あたりも二次元美青年化されてほしい、僕は文ストをよく知らないけれども戦闘モノだと聞いている、ぜひ必殺技は「死者の奢り」でいってほしい)。
と、まあだいたいその辺りから、実は村上春樹も吉本ばななも研究対象として扱ったことがある。そこそこ幅広い。
とはいえ僕が自分の専門分野を「近代」でも「現代」でも「近代・現代」でもなく「近現代」と呼んでいるのは、あくまでも“対「近代」の手法で「現代」にもニョキッと手を伸ばしているにすぎない”からである。より正確に書くなら、「近(現)代文学」といったところか。
そんな大学の4年間を通して、僕は「文学」について何やかんやと考えることができた。今回はそういう何やかんやのことをいくらでも話そうと思う。
傍にいる猫耳の少女は苦笑して、聞くよと念を押してくれた。
二、「作者の気持ち」について
「文系は作者の気持ちでも考えてろw」という煽り文句がある。
しかし実をいうと、文学部という究極の文系を卒業した僕は物語を読みながら「作者の気持ち」なんて考えていない。というか、そもそも「作者」というものに対する姿勢がちょっと違っている。
おそらく人々のおっしゃる「作者」というのは、ある物語を書いた実在の人間自体のことを指しているのだと思う。しかし僕はいつも、ある物語を読み解いただけでその「作者」の「気持ち」に至れるわけがないじゃないか……という感想を抱く。
無論、「作者」のそのときそのときの状況や感情、周囲の人間や環境が、作品に反映されることはままあるだろう。けれども、「作者の気持ち」とやらを作品“だけ”から読み取ろうとするってのは、無理だ。
だって僕は今、「最近は貧乳モノの漫画が少なくなっていてつらい」という気持ちを抱きながらこの記事を書いているんだけれども、そんなの誰にもわからないだろう。あるいは、例えば僕が今から小説を書いたとして、その小説“だけ”から僕の抱いている悩みだの痛みだの苦しみだのに至れる人がいたら、僕は怖くて一生インターネットを辞めざるをえない。
もちろん「書かれた作品を通して作者の真の姿に至ろうとする」というような研究もあるけれど、それが全てなわけじゃないし、僕がやってきたのはどちらかというとそっちじゃなかった。
少なくとも僕が「物語」において目を向けてきたのは、「作者」ではなく「〈語り手〉」だ。
〈語り手〉というのは、とりあえず“物語を語る概念的存在”のことだと捉えていただければよい。〈語り手〉の姿は、ハッキリしていることもあれば曖昧であることもある。けれども、語られないかぎり「物語」は生まれえないので、語られている時点でそれを語る“存在”が在る……というのをボヤッと察しておいてほしい。
例えば、
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
と、こうあったら、メロスを「メロス」と呼ぶ第三者としての〈語り手〉がいるわけだ。これが例えば「私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した」という文だったとすると、その意味が変わってくる……というのは感覚的に分かっていただけるだろうか。
つまり、第三者の視点から語る「激怒」と、本人の視点から語る「激怒」とは、きっと別物だろう……というようなところに着目するのである。そして、どう別物になるのか? なぜ別物になるのか? というのを深掘りしていく……という感じだ。
また、この〈語り手〉は、物語を語る存在であるがゆえに、物語を誘導する力を手にしている。
また例え話になってしまうが、例えば、
「その男は布団圧縮袋へ女性を詰め込むことに性的興奮を覚える男だった。“そんなことはない”と男は幾度も主張していたが、それはどう見ても嘘であった。嘘を隠そうとする者だけが見せるあの動揺しきった目つきを、その男も見せていた。」
……という「物語」を語る〈語り手〉がいたとしよう。この〈語り手〉は、「男」が「布団圧縮袋へ女性を詰め込むことに性的興奮を覚える男」であると信じているがために(あるいはそう思い込ませたいがために、かもしれない、とにかく何らかの理由のために)、こういう語りを行い、こういう「物語」を紡いでいる、ということになる。
簡単にそれっぽくまとめると、「「男」の言葉を「どう見ても嘘」と一蹴することで「男」を布団圧縮袋愛好家という枠組みに抑え込もうとする〈語り手〉の意図が読み取れる」……と、こういう感じだ。
そういう目つきで見ると、「走れメロス」も同じような話だというのがわかる。メロスを「勇者」「韋駄天」と呼び、ディオニスを「邪智暴虐」「暴君」と呼ぶ〈語り手〉は、メロスを〈英雄〉に仕立て上げようとしている……こういうのがすなわち〈語り手〉の誘導なんじゃないだろうか? ……とか。
(※だが、ここでさらに気にしておきたいのは、“「これは〈語り手〉の誘導なんじゃないか」と気付かせるような要素が物語から排除されていない、という矛盾”である。
メロスをただ〈英雄〉にしたいなら、村でグータラ生活していたシーンも、疲れ果てて倒れたシーンも、別に必要ない。それを敢えて残しているというのは、むしろそうしたメロスの人間性に気付かせるための誘導なのでは? …………等々…………
「走れメロス」は単純なようでありながら、実はかなり扱いにくい作品なのだ。)
と、これだけ見てくればお分かりいただけると思う。作者の太宰治が誘導しているわけではない。〈語り手〉が、語り方によって誘導しているのだ。
「その男は布団圧縮袋へ女性を詰め込むことに性的興奮を覚える男だという評判だった。しかし男は“そんなことはない”と強く主張していた。事実を伝えようとする者だけが出しうる、あまりにも苦しげな声で、その男は嘆いていた。」
……と、こう語れば、さっきと同じシーンだというのに全く違う印象になるわけで。
「グータラな若者が勝手にキレて妹の結婚式のことも忘れて勝手に走り出して捕まって、親友をいきなり生贄に差し出して走り回っただけの話じゃん」
……と、こう語れば、「走れメロス」も平坦な話になるわけで。
それを敢えて“そのように語った”あるいは“そのように語らなかった”〈語り手〉の意図や意思、“そう語られた”ことによって生まれた意味や意義、とはいかなるものか? みたいなのを探っていくというのが、結局「文学」っぽい手法ということになるのかなーと僕は思っている。
だからまあ僕としては、「作者の気持ちでも考えてろw」と言われても、あ……そっすね……って感じなのだった。内心、考えることなら他にも色々あるから大丈夫だよと思うのだった。
……以上は僕個人の考え方であるうえ、なんだかあんまり上手く伝えられなかったので、もっと上手く説明できる方がいらしたらお声をお掛けください。僕は文学の話をしたい。
三、ライトノベルについて
世の中には「ライトノベル」と呼ばれる作品群があり、本屋の棚を埋め尽くすほど盛り上がっている。僕が中学生の頃なんかは教室でラノベを読んでいると一瞬でオタク認定され嘲笑の的にされたものだったが(僕の中学だけか?)、今やすっかり市民権を得ている。
そんな「ライトノベル」の定義は、コトバンク先生によると以下のような感じだ。
小説の分類の一つ。SFやホラー、ミステリー、ファンタジー、恋愛などの要素を、軽い文体でわかりやすく書いた若者向けの娯楽小説をいうが、明確な定義はない。
( 参考: ライトノベル(らいとのべる)とは - コトバンク )
定義していなかったな。
というわけで、コトバンク先生でさえ「ライトノベルというのはこういう種類のノベルだ」と断言できないのだから、僕に断言できるはずはない。
だからここからお話しするのはあくまで僕個人の感想・感覚になるのだが、……僕の考える「ライトノベル」と「お堅い小説」との違いというとだいたい以下のような雰囲気だ。
「ライトノベル」においては、“個性豊かなキャラクターたちと、それらが活かされる舞台装置”というのが重要となりうる、と思う。キャッチーなキャラクターたちをいかに魅力的に描き出すかというところを重視している。そういう点で、「ライトノベル」は「文章で書かれた漫画」のような姿をしているのだと思う。
ここで重要なのは「文章で書かれた」という部分だ。どれほど漫画化やアニメ化を期待して書かれた作品であっても、「文章」という表現方法を選んだ時点で、その作品は「文章でしか表せない何か」を孕むことになる。漫画には漫画にしかできないことが、アニメにはアニメにしかできないことがある……同様に、ラノベにはラノベにしかできないことがあるのだ。漫画のように視覚的な、アニメのように躍動的な、そういう世界を敢えて「文章」という形式で織りなす……それが「ライトノベル」という分野の面白さだと思う。
一方の「お堅い小説」は、人物それぞれの個性を強調するような書かれ方をしない。いや、そりゃ人間なので登場人物ごとに特徴はあるのだけれども、そうした「個々人の魅力そのもの」を描こうという狙いはないのだと思う。
じゃあ逆に何を書いているのかというと、「○○とは何か?」というような、深層……概念……とでもいうべきものだろうか。人間とは何か、自分は何者なのか? なぜ生きるのか? というような、いわば“奥底”を書きたいのだと思う。
そうして、そういった“奥底”を描こうというとき、(絵画だとか彫刻だとか音楽だとか様々な形式があるけれども、)こちらも「文章」という形式を選ぶことによって「文章でしか表せない何か」を示そうとしている。あるいは、「文章でしか表せない何か」に迫ろうとしている。歴代の文豪たちは各々の万年筆で各々の「何か」を捉えようと書きつづけてきたわけなのだ。たぶん。
つまり、同じ「小説」でありながら描こうとするものの種類が違うからこそ別ジャンルのように扱われているのだし、描こうとするものが違うにもかかわらずいずれも「文章」という形式にこだわっているからこそどちらも「小説」と呼ばれているのである。
とはいえ、何がしかの“奥底”に迫ろうとする「ライトノベル」もあるし、キャッチーな人物を登場させる「お堅い小説」もある。だから「ライトノベル」と「お堅い小説」との境目ってやつはかなり曖昧だ。
言ってしまえば「ライトノベル」も「お堅い小説」も結局のところ「文学」に包括されるわけで、区別する意味などないとすら言える。まして、“どちらがより良いか”なんて問いはナンセンスすぎて頭が扇子になりそうだ。「文章」という形式、「文学」という芸術、それ自体をもっと幅広く奥深く味わわないと勿体ないぜと僕は思うのである。
もっとライトな項目にするはずだったのにマジメな文章がどうにも抜けない……。
次で軽さをアピールするぞ。
四、好きな登場人物について
ちょっと好きな人物の話とかしてもいい?
先に述べたように、「お堅い小説」……つまり僕が研究対象としてきたような作品群は、「個々人の魅力」よりも「人間そのもの」を描こうとするような作品群である。だからか、登場人物に名前さえ付いていないことすらある。
けれども、そういう人物の人間性にこそ惹かれてしまうことだってあるのだ……(垂涎)
何人かお気に入りの子たちを紹介させていただく。
堀辰雄「水族館」より 「彼女」
彼女はその異樣な建物の前にぢつと佇んでゐた。私はやがて、彼女が身をこごめて、彼女の足もとにある一つの石を拾ひ上げるのを見た。それから彼女は狙ひをつけ、まだ一つだけ割れずに殘つてゐた硝子に向つて、その石を、滿身の力でもつて投げつけたのであつた。私ははげしく硝子の割れる音を聞いた。それからその破片がバラバラと下へ落ちてくるのを見た。そして彼女はと見ると、彼女はひた走りに走りながら、もうそこからだいぶ離れたところに達してゐた。
ンン〜……
荒れる美少女は良いものだ……
これは実際に本文をぜんぶ読んでいただきたい。この子が荒れた理由も含めて、とてもよい。
というか堀辰雄の文章は、うまく言えないが甘やかで爽やかですごく心に優しいのでつらいときにもオススメ。
( 青空文庫 : 夢野久作 ドグラ・マグラ )
「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。妾です。お兄様の許嫁だった……貴方の未来の妻でした妾……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして……聞かして頂戴……聞かして……聞かしてエ――ッ……お兄様お兄様お兄様お兄様……おにいさまア――ッ……」
はーーーー(感嘆)。
まあ彼女は言うなれば「ヤンデレ妹」に近い雰囲気かもしれないが、もっと闇深い存在である。絶世の美女でありながらこの、この狂気。「ドグラ・マグラ」の世界観が一気に不気味なものとなる、その要因のひとつは間違いなくこのモヨちゃんだろう。久作の書く女の子は大体ゾッとさせられる何かしらを抱えているのだが、モヨちゃんはその中でも異彩を放っているといえよう。
太宰治「秋風記」より 「K」
ことしの晩秋、私は、格子縞の鳥打帽をまぶかにかぶって、Kを訪れた。口笛を三度すると、Kは、裏木戸をそっとあけて、出て来る。
「いくら?」
「お金じゃない。」
Kは、私の顔を覗きこむ。
「死にたくなった?」
「うん。」
Kは、かるく下唇を噛む。
「いまごろになると、毎年きまって、いけなくなるらしいのね。寒さが、こたえるのかしら。羽織ないの? おや、おや、素足で。」
「こういうのが、粋なんだそうだ。」
「誰が、そう教えたの?」
私は溜息をついて、「誰も教えやしない。」
Kも小さい溜息をつく。
「誰か、いいひとがないものかねえ。」
私は、微笑する。
「Kとふたりで、旅行したいのだけれど。」
Kは、まじめに、うなずく。
絶 妙 。
あまりにも好き。太宰の書いた女の中ではダントツのよさだと思う。大した長さではないうえ、心が苦しい人にとってなかなかいい作品だと思うので、是非お読みいただきたい。
とまぁこんな感じで、「あ、このひとすき」ってなるような人物が「お堅い小説」にもチラホラ出てくるものである。小説を読む際、文学〜などといって堅っ苦しく考えず、好きな人物を探すために読むってのも大いにアリだと思う。
どんな読み方をしたっていいのだ。
五、文学と僕とについて
いやあ語り出したら止まらないなあ、と思いながら記事を書き進め、気がつけば投稿予定日が迫ってきていた(実はこの記事はここ一週間ほど毎日少しずつ書き溜めて書いた大作なのだった)。
僕は本当に文学の世界でやっていきたくてやってきたので、そういう純粋な「好き」って気持ちが皆様に伝わったなら幸いである。駄文で恐縮だけれども。
そして、願わくば皆様にも是非いろんな本を読んでいただいて、僕のダメダメな意見に反論していただきたい。僕は大学のとき思い知ったのだが、自分の考えをまとめようというときには他者の意見も取り入れた方がいいらしいのだ。
それから、かつて僕は好きな作品をバーっと紹介する記事を書いたことがある。今回ちらっと紹介した作品と一部が被っているような気もするが、是非こんなのも参考にしていただけたら嬉しい。
「本を読む」というのは習慣づけていないとなかなか難しいことだと思うが、逆に習慣づけてしまえば最高の暇つぶしになる。心が苦しいときの逃げ場にもなる。心からオススメしたい。
どうぞよしなに。
……僕はふと口を閉ざして、隣で耳をぴこぴこ揺らす猫耳少女の顔を覗き込んだ。猫耳少女は「ん?」というような表情で僕を見た。これだけ長くて面倒くさい話を君は本当に最後まで聞いてくれたんだな……ごめんよ、ありがとう……僕がそう伝えると、猫耳少女はキョトンと首を傾げた。自分のことを好きなだけ話していいって言ったでしょ、とでも言いたげに。
猫耳少女は人の話を聞くのがうまかった。ゆえに、まだまだ他の誰かの話を聞いて回る予定があるみたいだった。明日もどこかへ出かけるのだろう。僕は彼女の綺麗な瞳に向けて、もう一度ぐっと頭を下げた。
【 自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2018 - Adventar 】
Thanks for @Syarlathotep.