世界のCNPから

くろるろぐ

「忘れらんねえよ」は笑いを織り込みながら「愛」を叫ぶ熱いバンドだからとりあえず聴いてみてくれ

星なんかより君のほうが全然可愛い、つらい。

 

頑張ろうとするけれど頑張りきれなくて、どうにかキメたいけれどどうにもダサくて、誰か俺を認めてくれ、誰か俺を愛してくれ、誰か俺に愛させてくれ、……なんて思いながら願いながら祈りながら、結局は俺なりにやっていく、俺は俺なりに生きていくんだよ、ってそういう感じのやつ。

忘れらんねえよ」。

 

新しく出たミニアルバム「あいつロングシュート決めてあの娘が歓声をあげてそのとき俺は家にいた」を即座に買って、ひさびさに恋愛っぽい歌を聴いた(最近の僕は歌詞のない曲ばかり聴いていた)。

あいつロングシュート決めてあの娘が歓声をあげてそのとき俺は家にいた(初回限定盤)(DVD付)

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あいつロングシュート決めてあの娘が歓声をあげてそのとき俺は家にいた(通常盤)

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とはいえ「忘れらんねえよ」の繰り出す恋愛系ソングは「愛を叫ぶことしかできないクソダセェ俺の叫びたくなるほどクソダセェ愛」って感じで、どちらかといえば歌というよりも慟哭だ。好きだという雄叫びだ。そして僕にはそういうタイプの声を聴きたくなるときというのがある。

 

ここのところ、「愛」のことを考えがちだ。

いつも様々な角度から考えているが、今夜は「忘れらんねえよ」の声を聴きながら特にいわゆる「恋愛」の「愛」について考えている。

 

どんな「恋愛」でも、それが始まるときには相手のことを少なからず好きなはずだと思う(僕はロマンチストなので、相手のことを全く好きでないのに始まる人間関係のことは「恋愛」でなく「謀略」と呼んで切り分けたい)。しかし時が経つにつれて色褪せてしまうタイプの「恋愛」というのも世の中にはある。

 

天秤なのだと思う。「好き」という感情と、「嫌な気持ちを引き起こすような何か」とが天秤にかかっているのだと思う。

最初の頃は「好き」という気持ちでもって接しはじめるうえ、「嫌な気持ちを引き起こすような何か」が起こっていないので、天秤は「好き」のほうに大きく傾いている。けれども付き合いが長くなれば当然いろいろな事件が起こる。その中で「嫌な気持ちを引き起こすような何か」が蓄積されていき、「好き」という感情よりも重くなった場合、高低が入れ替わる。逆に「好き」という感情が強まりつづけるようなら、「好き」側に傾いたままとなる。……とか。

 

あるいはパラメータの値として捉えてもいい。相手と共に時間を過ごしていく中で、「好きポイント」ないし「嫌ポイント」が溜まっていく。どちらがより多く溜まっているかによって、相手へ抱く最終的な感情が決定される。……とか。

 

いずれにせよ言えることは、「減らない」ということだ。天秤の皿の上に乗せた分銅であれ、パラメータの数値であれ、相手に抱く感情は相手と過ごした時間に応じて増えつづける。人と時を過ごすというのはそういう意味なんじゃないかと思う。

だから怖いんだ。

 

そして、「相手の言動に逐一苛立つようになった」とか「相手の失敗を赦してやれなくなった」とか「客観的に相手の言動や態度を理解してみようという気になれなくなった」とか、そういうのはまさに「嫌」側の感情が「好き」側の感情を凌駕したことによる変化なんじゃないだろうか。

相手のことを「好き」だという感情自体は消えてしまわないけれど、「嫌」という感情が強まりすぎると「好き」で覆いきれなくなってしまう……そんな感じだと思う。

 

で、その状態に陥ったとき考えるべきことは、「これから「好き」のほうを上げることはできるか」なのかもしれない。どうせ一旦「嫌」だと思ってしまった部分についてはどうしようもないのだから、今後その「嫌」を「好き」で覆いなおせるか? 受容できるか? というのを自問自答するしかないのだ。

これは恋愛以外の話でも同様に言えることなのではないか。

 

個人の感想です。

 

そういや片想い恋愛系ソングの主人公はその恋が叶ったあとどうなるんだろう、なんてことも考えた。

まあ、クソダセェとわかっていながら叫ばずにいられないほどの「愛」なら、かなり長いこと「嫌」って感情を負かしてしまえるかもしれない。天秤の片側が地面に沈むほど重く、パラメータの片側が天を貫くほど高いなら……。そして「好き」という感情を高めつづけ、ずっと「好き」側に傾けたままにしておくことも可能かもしれない。

 

しかし、それほどの「愛」を心から叫ぶには相応の覚悟も必要だ。叫ぶということは相手に聴かせるということだから、聴かされる側の感情についても考慮しなきゃならないのが道理だ。叫ぶ側の感情がどれほど「好き」に傾いていたとしても、相手側の感情は絶対に読み取れないわけで。相手に不快感や嫌悪感すなわち「嫌」な感情を与えてしまうかもしれないのだ。

叫びとは独りよがりなものだ。「忘れらんねえよ」の歌は、雄叫びは、その独りよがりを重々承知した上で「それでも叫ばずにいられない」という雄叫びなんだろうな。

 

僕は叫んでいいんかなぁ、とかね……。

 

かなり重い話になった感があるけれども、「忘れらんねえよ」は笑いを織り込みながら「愛」を叫ぶ熱いバンドだからとりあえず聴いてみてくれって僕は思うのでした。

 


忘れらんねえよ『君は乾杯のとき俺とだけグラスを合わせなかった』Music Video


忘れらんねえよ - 踊れ引きこもり【Music Video】