今ごろ君はツイッターで「痴漢に遭いそうになった」とか呟いているんだろうな
帰りの電車、ぼんやり立っていた僕のそばに、ひとりの女性が乗り込んできた。
三十代くらいに見えた。落ち着いた服装、化粧っ気のない顔。それも見えたのは一瞬だけで、すぐ僕から見えない向きへ体を向けてしまった。
それだけだったなら、僕も別に気にしなかったのだ。けれども、その人は少しばかり目立っていた。
無限に鼻をすすっていたのだ。
静寂に包まれた電車の中で、彼女は何故だかひたすら「ズズ……ズル……ズズル……」とやっていた。僕はアダルトビデオにおける水音を愛好している方なのでさほど不快なわけでもなかったが、それでも延々と鼻をすすっている彼女のことが心配になってきた。
電車内にいるオッサンたちも、鼻水の音に苦言を呈するようなタイミングで交互に咳払いをしていた。「ズズ……」「ゲホッゴホンッ」「ズビビッ……ズジュ……」「ンッン……ゴフン」……僕はなんとなく落ち着かなくなってきた。
いや、なんでかまないんだよ……。
チラと見ると、彼女は右手でスマホを操作し、左手でボロボロになったティッシュらしきものを握りしめていた。ははあ、かみたくてもかめないんだな、と気づいた。
そんなとき、僕はふと思い出した。そういや僕、こないだ街頭でポケットティッシュをもらったな、と。試しに鞄の中を漁ってみると、「献血のお願い」と書かれたポケットティッシュが出てきた。封も切られておらず、清潔だった。
……やめとけ、と冷静な僕が止めた、僕はそれを聞かなかったことにした。
ときどき僕はこういう無謀なことを思いつく。だが僕は以前から、「解決策が判明していてあとは動くだけだというのに動かない自分」に耐えられないらしかった。あとになって、動かなかった自分に後悔して苦しむことになるのだ。
そこで今回も、やるだけやってみようと思った……思ってしまった。
「あの」
イヤホンをしてスマホをいじっている彼女は僕に気づかなかった。
「あ、あの……」
少し強引なほど声をかけてみた。今になって思えば、本当に痴漢と間違われかねない動きだった。
彼女は僕の方を見た。それから、
「なんですか」
僕は“ゴミを見るような目つき”という表現を、小説の中にしかないものだと思い込んでいた。
しかし世の中の女性は、痴漢かもしれない相手に対して“ゴミを見るような目つき”を向けることがある、ということを僕は知った。
そして声は想像していたよりも若かった。若いというより幼かった。おそらく高校生くらいだったろう。若々しい服にも華やかな化粧にも興味を持たないタイプの、教室の隅で仲のいい子たちとだけつるんでいるタイプの、一見すると地味でありながらふとしたときに見せる笑顔が可愛かったり眼鏡越しの真面目な目つきが涼しかったりするタイプの、そういう女子高生だったんだろう。
嗚呼…………。
僕はもうその時点で自分が「しくじった」ということを把握していた。けれど、声をかけるだけかけて何もしないのではますます痴漢めいてしまうので、腹を括って最初の目的を果たそうとした。
「もしよかったら使いますか?」
ティッシュを差し出す僕。
「いいです、大丈夫です」
鼻をすする彼女。ズビズビ。
絶対に大丈夫じゃなかった。けれども、僕はもうそれ以上のことなんてできなかった。「そうですか」、小さく呟いて僕はそっとポケットティッシュを自分のポケットにねじ込んだ。周りにいた誰かがゴホッと咳払いをしたのが聞こえた。笑いを堪えようとしたのかもしれなかった。
なぜ気づかなかったんだろう……なぜ思い至らなかったんだろう……自分の容姿が大嫌いだ、とあれほど豪語していながら僕は、自分の容姿が他人にどれほどの不快感を与えるかきちんと理解できていなかったのだ。
よくよく考えたら、女子高生から見て二十四歳はオッサンだ。しかも僕は低身長なわりに顔が老けている。たぶん体臭もきつい。「いきなり話しかけてほしくない人ランキング」みたいなのがあったら僕はいい位置につけるだろう。
そんな僕から話しかけられたのだから、あの反応は当然オブ当然だった。「なんか気持ち悪い人が急に話しかけてきてティッシュを差し出してきた」なんて、ひとりでいる女の子からしたら恐ろしいことだったに違いない。
それに、どうも様子を見たかぎり、彼女は泣いていたみたいだった。何か僕の知りえない嫌なことがあったんだろう。そんなときに見知らぬ人から話しかけられて、「これで鼻をかめ」なんて示されたのだ。不快にもほどがあっただろう。
僕は目頭を押さえて寝たふりをした。そのまま降りるべき駅で降りて、逃げるようにその場を去った。
もう二度とやらない。いくら善意から行動したとしても、相手がそれによって不快感を覚えたならそれは善行ではないのだ。
本当にごめんなさい。
ああ、今ごろ君はツイッターで「痴漢に遭いそうになった」とか呟いているんだろうな。