世界のCNPから

くろるろぐ

結局、必要なのは“余裕”なのだ

僕は日常生活の中で「なんだかちょっとよくない」と感じたら、胸糞の悪くなる何らかの何かを読んでみることにしている。

普通に楽しめたら、セーフ。胃が苦しくなってダメになってしまったら、ちょっと休んだ方がいいと判断。極端に興奮してしまってハイになってきたら、それはそれでヤバそうだなと自分にブレーキをかける。

まあいわば、自分の感情をなるべく客観的な形で測るために「読書」という手段を使っているということだ。

 

「読書」という言い方をしたけれど、そういう場合に読む“胸糞の悪くなる何か”なんて別に高尚なものではない。例えば地獄みたいな(褒め言葉)NTR漫画とか、イキリオタクのイキリツイートとかでよい。

要は「平時なら興味をもって味わえるはずのものを受け付けることができない」「平常なら笑えるはずのものを笑えない」状態に自ら気付ければよいのだから。

 

で、思うに、「平時なら興味をもって味わえるはず」「平常なら笑えるはず」と理解していながらそれに耐えられないときというのは、一言でいうと「“余裕”のないとき」なんだろう。

貯金に余裕があれば金持ちの言葉に憤る道理はない。時間に余裕があれば暇人の生活を羨む必要はない。肉体に余裕があれば。精神に余裕があれば……。

 

金が欲しい。時間も欲しい。無限の自由を手に入れたい。けれども僕が手にしている金も時間も結局のところ僕ひとり分の人間的生活をギリギリ保ちうる程度のものでしかなく、“余裕”とは言いがたい。また僕は巨腹なわりに貧弱で、つまり体力がなく、よってこれも“余裕”という感じではない。精神? 安定剤に頼らないと大騒ぎになってしまう僕のどこに“余裕”があるっていうんだろう。

 

結局、必要なのは“余裕”なのだ、と僕は思う。いかなる状況においても冷静に、丁寧に、繊細に、……そういう落ち着きというのは、心に“余裕”がない限り用意できるものではない。

 

2018年が終わる。2019年が始まる。何かの終わり、何かの始まり、それは僕にとっていつも怖いもので、だからいつも“余裕”を失わされる。

時はどんどん過ぎていくのに、僕はいつまでも無能で未熟で無価値なままで、だから年末はそんな自分に気づかされる時間なのである。“余裕”、振りかざしていきたいのに切羽詰まってばかりだ。

 

振りかざしてえよ、“余裕”。

ドヤ顔で「長生きしてぇ〜」とか「絶対彼女を幸せにする卍」とか言いてえよ。自分に自信を持ちてえよ。何もかも自由にやりてえよ。

 

僕は刹那的な人間だ。“今”を生きたい人間だ。しかもプライドが高い人間だ。「有言を実行できなかった」という恥をかきたくない人間だ。だから「2019年の目標」なんて言ってやるもんか、と思う。けど、

「“余裕”のある人間になってみたい」、と、そんな……目標ではない、ただの願望を嘯いておきたい。

 

さあ、今宵も胸糞の悪くなる作品で自分の機嫌を試してもいいような気がするんだけど、まあ平成最後の年末だし、たまには気分よくいられるような作品でも読もう。“余裕”ってのは、虚栄であってもぶちかましといた方がいいもの、であるような気がするから。