謹賀新年(遅延)
謹賀新年(遅延)。
1月1日〜本日は寝ているうちに終わってしまったので、2019年一発目の記事はこちらとなる。
あけましておめでとうございます。
さて。
一昨日から今日にかけて……いわゆる「三が日」というめでたいはずの日々において、僕はちょっとした疲弊を感じさせられていた。
父親と祖母との口論を聞き、双方の主張をまろやかにしてそれぞれに伝えなおした。母親と妹との喧嘩を聞き、双方の問題点をそっと指摘した。恋人の「来たければ来ていいし、来たくなければ来なくていいよ」という究極の二択に対する回答をひねり出した。
トホホ〜もう「僕の一言が場面を展開させる」みたいなのはこりごりだよ〜!
「発言」とか「行動」とか「選択」とか、そういう「何かを変えてしまう責任重大な状況」というのがどうも僕に降りかかってきやすい三が日だった。
誰だって責任は負いたくない。責任というものは、ちょっとした規模でも労力を費やすものだ。
まず。
僕の家族は崩壊している。母親、父親、妹、母方祖母、父方祖母、それぞれに何らかの因縁があるため、人間関係系アニメ(造語)の相関図か? というくらいゴチャついたことになっている。
で、僕だけが唯一「橋渡し」としてギリギリ機能しうる立ち位置にいるため(好かれているわけではなく「憎悪のあまり話もしたくない」という輪から外れているらしいというだけ)、互いに何か伝えたいことがある場合は僕がいいように使われるのである。
今回もそういう「橋渡し」をやった。のみならず、いつもより“揉め”のレベルが激しく、やたら駆け回る羽目になった。
……「やめちゃえばいいのに」、ごもっともである。しかし僕が逃げないのはひとえに、僕がやめたら全てが粉々になる、という「責任」から逃れるためなのだ。いまこうして背負っている責任よりも、逃げることで負わされる責任・あるいは後悔・もしくは自責、の方が重いのである、僕にとっては。
……「家族がそういうのやめてくれればいいのに」、ごもっともである。僕の両親は50歳前後、祖母たちは80歳近い。24歳児である僕に気を遣わせるような動きをしないでくれ頼む、君ら大人だろ(懇願)
つぎに。
恋人氏は疲れているとき、「相手を思いやりたい/でも自分の疲れもしんどい」というギリギリの状態から頑張って発言するので、「どっちでもいいよ、あなたが決めて」という言葉を使いがちだ。
「発言」「行動」そして「選択」に伴う「責任」というのは、かなり人間を消耗させるものだと思う。疲れているときに何かを選ぶようなことはしたくない。全て誰かに任せておきたい。そういうものだと思う。
かつての僕なら、「どっちでもって何だよ! どうでもいいってことかよ!」となっていただろう。けれども僕は少しずつ、そういうのをやめようとしてきた……つもりだ。
僕が憤れば相手はますます疲れてしまう。というか、冷静になれば別に憤るようなことではない。「次に狩るモンスターはあなたが決めて」と同レベルの選択権譲渡に過ぎない。僕はそういうのに少しずつ気づこうとしてきた……わけだ。
……てなわけで、「明日のことは明日決めるよ」などと適当なことを言って、相手の「選択」も自分の「選択」も同時に先延ばしにした(ダメ人間)。
恋人氏はホッとしたような様子で「じゃあモンハンしよっか」と言い出した。
そんなこんなで、僕の三が日は過ぎていった。
2019年、今のところは大丈夫。ただ、時々突発的にふわっとつらくなるので気をつけたい、といったところ。
「責任」に疲れたときは、他愛ない「発言」・できる範囲の「行動」・なんとなくの「選択」、で許されるようなことだけやっておけばええんや、と自分に言い聞かせて、適当なことを言ったり、適当な場所に行ったり、適当な選択肢を選んでバッドエンドになったりしている(ゲームの話)、まあとりあえずそれでいいかなと思う、今のところは。まだ新しい年も始まったばかりだからな。
ひとまず、本年も何卒よろしくお願いいたします。