世界のCNPから

くろるろぐ

書きかけの記事をそのままにして寝落ちてしまう

昨日の話だ。

 

いつものように仕事を終えて、いつもの電車で家路に着いた、その道中でのことである。

何の気なしに掴まった吊り革の正面にあたる席で、二人の人間が眠りこけていた。ちらと目にしただけであるから詳しいところはわからないけれども、年のころ二十歳そこそこの男女と思われた。互いに互いの頭を枕だか柱だかに見立てて寄っ掛かりあっているものだから顔もわからなかった。固く握られた双方の手指には揃いの指輪が嵌められていた。

 

あまりじろじろ見るのも悪いので(もはや手遅れのような気もしたが)そこまでで目を逸らして、ふと考えた。この今の自分の立場から、眼前の二人を恋人同士だと断定することはできるか? そして自答した、むろん否だと。

 

「頭をくっつけあっていた」「手を繋いでいた」「揃いの指輪をしていた」というのはそれぞれ、ただの事実に過ぎない。「肌を触れあわせているということはよほど仲がいいということだ、指輪までしている、しかも“男女”だ、カップルに違いない」という理屈は、考え直してみると、目の前の事実を自分の経験や知識に照らし合わせて練り上げた推測だ。

よって第三者の立場から彼らの関係を断言することなどできないだろう、そんなまとめを得て、電車を降りた。

 

「常識とは十八歳までに身につけた偏見の集積だ」、なんと見事な言葉だろうか、一生ついていくよアルベルト。とはいえこの各個人が身につけてきた「常識」ないし「偏見」というのはつまり物事を考えるときのベースにもなりうるものなので、決して悪いものでもないと思う。言い換えれば、経験と知識とに裏打ちされた想像力の軸のようなものだ。

「あの子は疲れているだろうから今日はそっとしておいてやろう」とか「こんなことを言われたら傷つくだろうから言わないようにしよう」とか、そういう(いわゆる)“思いやり”も自分の経験や知識を基にした想像・推測でしかないわけで、一種の偏見であるといえよう。しかしそういう想像力・推測力を持たずして他者と穏便に接することはできないわけだ。

 

まあだから、「常識」やら「偏見」やらは上手く飼いならすべきものなのだと思う。「こうかもしれない」というのを考えると同時に「でもそうじゃないかもしれない」というのも想像し推測することで、他者と多角的に向き合えるようになるんだろうと思う。

 

ま、向き合わなくてもいいんだけどサ。

 

 

僕だって、書きかけの記事をそのままにして寝落ちてしまう程度の向き合い方しかしていない。できていない。あーあ。

まあ、僕は他者と向き合いたいというより、他者を知りたいだけなんだよな。

 

以上。