世界のCNPから

くろるろぐ

ちなみにだけど、「永遠と続く」は誤記だよ。「延々と続く」が正解だ。

いつも使っている駅のホームでふと目を上げたらラブホのネオンサインが見えた。僕がすべきだったのはポエムを書くことじゃなくてセックスをすることだったのかもしれない。

 

僕の知り合いに文学青年がいた。数年前に会ったきり、もう全く会っていない。顔すら忘れた。最後に会ったとき、彼は家賃2万円の連れ込み宿を持っていて、たまに女の子を連れ込んでいると言っていた。感銘を受けた。僕のイメージでいうと、堀辰雄系の文学者であれば不要だが、太宰治系の文学者をやっていくなら確かに連れ込み宿は必要だと思った。

 

太宰治」は罪深い存在だ。彼の本名は津島修治という。しかし文学研究の場以外において、iPhoneが一発変換してくれないくらいには無名らしい。「太宰治」といえば大抵の人には一発で通じるっていうのに。そのくらい、津島修治は「太宰治」を作り上げるのが上手かった。津島修治という語り手が、「太宰治」という存在そのものを作品として語りあげたのだ。そして「太宰治」は、誕生日の6日前に入水自殺を成功させ、誕生日当日に愛人とともに引き上げられた。なんと美しい幕引きだろうか。「太宰治」とはそういう存在で、だからこそ文学者たちに目をつけられているんじゃないかと思う。存在そのものが作品だからだ。

 

で、そんな「太宰治」は、女性関係において(芭蕉風の言い方をすれば)一種の「軽み」を持っていた。不倫だとか心中未遂だとか、自棄的な、されど自己愛的な、オタクに好かれそうな態度を示していた。「文豪ストレイドッグス」や「文豪とアルケミスト」のような昨今のゲームにおける太宰の扱われ方を見ても、「太宰治」がいかにオタク好みの人生を歩んできたかというのがわかる。イケメンのメンヘラはモテる、それは1948年なんかでも現代と変わらないことだった。そういうキャラクター性を確立し、それを維持し、生誕から自殺に至るまで描き上げたというのは本当に寒気のするようなことだ。

 

そんな「太宰治」の雰囲気を現代で纏うならば、やはり連れ込み宿は必要だ。しかもできれば様々な好みの女の子を連れ込むべきだし、そのうちの誰にも執着すべきでない。そして自分自身のそういう生活をひっそり愛さなければならない。女に対する同情など抱えなくていい。自己愛、自己探求、そういうのの中に、寂寞、そして性行為、そんな感じであっていい。

 

先に述べた文学青年の言葉として、印象に残っているものを引用したい。「セックスは楽しい、けれどセックスは下らない」。一度でいいからそういう言葉を発してみたいものだった。彼は、本物だった。

彼は自分の肉体がそれなりに引き締まった健康的な男性であることを誇りに思っていたから、僕のようなブヨブヨした存在のことは実のところかなり見下していたようだったが、僕はそれでも一方的にすごいもんだと思っていた。

 

じゃあ僕は堀辰雄系の文学者になれるのかというと、それはそれで不可能な話なのだ。堀辰雄といえば「風立ちぬ」が有名だが、あれを全編とおして読んでいただければわかるように、セックスだの何だのといった水っぽい話は出てこない。堀辰雄も性は描くんだけれど、空気が違う。あの透き通った、フランス文学の「ロマンス」の系譜を引く、美しい「愛」の物語は、僕のように半端に汚れたメンヘラには真似できない。僕は汚い。堀くんのようにはなれそうもない。

 

堀辰雄が小説を書いていた時代は言論統制が激しく、政治的な内容を扱う小説が許されなかった。ゆえに、多くの作家たちが投獄されていた。しかし堀辰雄はそもそもそういう小説を書かなかった上、周りの作家たちから可愛がられていたので、上手いこと匿われて一度も投獄されなかった。誰も堀辰雄を告発しなかったのだ。そういう愛され気質というのも堀辰雄特有のものであって、僕には再現できそうもない。

 

何の話をしたかったんだっけ。ネオンサインの話か。ネオンサインとはいうものの、ネオンじゃなくてLEDだろうな。太宰治堀辰雄もとっくに死んだ。平成も終わろうとしている。時代が変われば文学者の姿も変わるということで、僕も何かしらひとつのスタイルを打っ立ててしまえばいいんだよ。とかいって、またセックスの代わりにポエムをやっちまった僕はたぶん延々とこんなままだろう。ちなみにだけど、「永遠と続く」は誤記だよ。「延々と続く」が正解だ。まあ、こういうのも時代とともに変わるんだろうけれど。