世界のCNPから

くろるろぐ

何せ眩しすぎるのだ

f:id:CNP:20190228194438j:image

 

いつもの時間いつもの駅、傘なんて久しく持ち歩いていない僕は雨に打たれながら帰路についていた。日本屈指の汚濁繁華街である新宿駅も、こうして濡れているときだけはその醜い輪郭を失うのだった。やはり光がだめなんだな、と僕は思った。何せ眩しすぎるのだ。

 

f:id:CNP:20190228210545j:image

 

疲れたな、そんな独り言が、口から勝手に零れ出た。あらゆる光が煩わしかった。目が重たかった。足が絡まり、腕が落ちた。だんまりを、許されたかった。

 

 

「期待しない」というのは、決して悪いことではないと思う。「期待」とはえてして、こちらの願望の押し付けであることが多い。「Aだったらいいのに」という言葉には、「どうしてAじゃないの」という非難が込められている、ように思う。

「期待」を押し付けられた相手はそれを押し返してきつつ、自分の方の「期待」をこちらへ押し込んでこようとする。互いの「期待」が互いを潰しあって息を詰まらせる。そうやって滅ぼされた人間関係というものもずいぶん見てきた。

 

まあ一方で、「期待」を全く持たないというのも、それはそれで虚しいものだ。「どうしてAじゃないの」という言葉には、「Aだったらいいのに」という希望が込められている、ように思う。何も望まない人生、何も求めない人生、「期待」をかけない人生、それはそれで寂しく切ない。

……と、思ってしまうから、何もかもが苦しくなっていくのだが。

 

「期待」、裏返って失望、わずかな光、「期待」、翻って絶望、かすかな光、「期待」。眩しい場所には光が満ちており、ゆえに甘い錯覚を与えてくれる、「ここなら期待できそうだ」。だから繁華街は大抵の場合において眩しいのではないか。

だが新宿駅をみるかぎり、繁華街の明かりというものはオススメできない、というのも、あの眠らない街には、蟻地獄が無数に口を開いているからだ。「期待」、ところ変わって変貌。

 

どうやら本来、光とは儚いものであるらしい。目の前でワッと煌めいているような場合は用心すべきなのだ。

つまり、何億光年も先からここまで届いてくるような、そういう小さくも力強い光をこそ摘みあげて「期待」すべきなのだ。

 

わかっちゃいる。

 

けれども人々は日々の暗さに耐えかねているので、とにかく目の前が燦然と明るむことだけを望んでしまう、それが叶わずに嘆いてしまう。そうやっているうちに尊ぶべき光を見逃しているに違いないということも自覚しながら、それでもなお「今、この瞬間」を隙間なく照らす光こそ至上のものだと思い込んでしまう。しかしそうした鮮烈な光などというものは滅多に差し込まない、差し込んだと思ったら地獄とつながっている、そんなありさまなので、結局、人々の周りは真っ暗なままだ。

 

ならばいっそ、「期待」のレベルを下げたほうがいい、というのが、最近の僕の姿勢となっている。小さな歓喜を極限まで大げさに捉えてみる、小さな成功を限界まで大ごととして扱う、というような、部屋中を明るくしなくてもいいから、手元だけ見えるくらいにしようというような、そういう。

だってどうせ満足のいくほど輝きにあふれる時代など訪れやしないのだから。

 

 

雨音が聞こえていた。止まない雨はない、らしいが、降っているあいだ、打たれているあいだ、それを信じることはかなり難しいのだった。