世界のCNPから

くろるろぐ

なぜ彼女はフレンチトーストにタバスコをかけなければならなかったのか

果たしてこれは誰のための記事なのか? むろん僕のための記事だ。僕は観劇を趣味としている。脚本、演出、音響、照明、役者の演技、それぞれに“意味”を見出しては反芻する、そういうのを楽しんでいる。

それだけのことだ。

 

 

前日、僕はデスソースを買って、レトルトのカレーに追加して食っていた。だから翌日、たまたま演劇の中で女の子がフレンチトーストにタバスコをかけまくって実際に食っているのを観て、ちょっとしたシンパシーを感じた。

 

なぜ彼女はフレンチトーストにタバスコをかけなければならなかったのか? 僕はその点についていくつか考えていた……ので、その話をしたい。

僕はあのシーンを「不要」と切り捨てさせはしない。

 

以下ネタバレあり。

 

ぜろ、(僕なりの)あらすじ

「就活がうまくいかない主人公は、ある日たまたま立ち寄った公園で小学生時代の同級生と出会う。

「10年前にやったあの劇をもう一度やろうよ!」その言葉に引きずられるようにして、主人公は10年前の仲間たちを集めるため奔走する。

当初は就活に対する不安から乗り気でなかった主人公だったが、“過去の仲間たちと演劇をする”という思いつきの面白さにだんだんのめり込んでいく。

しかし、主人公の恋人はそんな主人公の有り様に心配と苛立ちとを募らせる。「現実を見ろよ!」 恋人の言葉に胸をつかれた主人公は、一度は演劇から離れようと心に決める。

……だが、それでも主人公は、元同級生たちとの絆がどれほど大事であったか思い出し、演劇を完成させようと決意を新たにする。

準備に奮闘し、練習に尽力し、恋人にもチラシを渡すことに成功し……あとは本番まで駆け抜けるだけ。そんなとき、彼らを悲劇が襲った……」

 

いち、コメディシーンとしての意義

この作品における「10年前の仲間たち」は、ドMバカ・熟女好き・ドS女、等々……「ふざけていればよかった楽しかった過去」を表すかのような、コミカルな人々だ。だからこそ彼らの小学生時代シーンにおいては、そうしたキャラクター性を活かすような「ふざけ」の馬鹿馬鹿しさが重要になってくる。

そして、そうした小学生時代の性格を現在まで引きずっているという「変わらなさ」が、「変わってしまった主人公」との対比として必要になる。結果、「10年前の仲間たち」の現在の姿も、どうしてもコメディタッチになる。

 

対するタバスコトーストの彼女(以下「A」)は、小学生時代を描かれないキャラクターだ。ゆえに、幼さ由来の「ふざけ」が描かれない。また「すでに内定をもらっている」・「遊び呆けている恋人を心配している」、という「真面目」な要素を与えられている。つまり「ふざけていればよかった楽しかった過去」との対比、「見据えなければならない現在」を示すかのような「真面目」なキャラクターなのだ。

 

そんなAがあまり「真面目」から外れてしまえば、対比としての意義は薄れてしまう。あくまで、「これから見据えていくべき現在」の姿であったほうがよい。

一方、あまりにAだけに「真面目」を貫かせると、「10年前の仲間たち」が楽しげであるがゆえに、Aばかりが世界観の中で“硬く”なりすぎてしまう。

と考えていくと、“Aを描く”というのはかなりバランス感覚を必要とする技だったんじゃないだろうか。

 

だからこそのタバスコだとしたら。

 

そのシーンでAは、店員さんに「フレンチトーストください、あとタバスコも」と注文する。そして主人公の進路について真剣に話をしながら、平然とフレンチトーストにタバスコをかけまくる。どばどば。主人公の切羽詰まった表情にも気付かずひたすらタバスコを振り続ける。だばだば。「前を見て頑張って」、そんな優しさのこもった言葉とともにAはフレンチトーストを頬張り……グホッ……いや何で!? 辛いの苦手なの!? 何でかけたの!?

 

という顛末である。

 

そう、このシーンの面白さは、真剣な会話をしているにもかかわらずいきなり自爆するという「え!?」感にあった。しかもAはわざとふざけたわけではなく、完全に天然でやらかしたわけで、元来の「真面目」さを損なわないまま空気を和ませてくるという高等テクニックを用いていたのである。

タバスコはAという「真面目」なキャラクターの意義を奪わず、それでいて硬さを和らげる、そういう演出だったのではないか。そう考えれば納得がいくのではないか……。

 

まあ以上を踏まえて、僕だったらAのキャラ付けにはもっと時間を割いただろうと思う。コメディ多めの作品の中で「ハッと笑いを抑え込まされるシーン」を用意するのなら、そこで緊迫感に呑まれた観客をふっと緩ませるような安心させるような描写には、もっと手数をかけてもいいんじゃないか。

例えばだが、「その後のデートでもAはミートソーススパゲティにメープルソースをかけて噎せたり、コーヒーに塩を入れて噴き出しそうになったりする」とかいうシーンが入っただけでもだいぶ可愛くなったと思う(ただしこの部分については他のパターンもありうるので、そこは「に、」の方で触れる)(ちなみにメシ系は役者への負担が激しいので実際に演るかどうかは別)。

 

 

に、精神的負荷の描写

「フレンチトーストにタバスコをかけて食って噎せる」という行為の全体を通してみると、「Aの味覚は一般的だ」ということが判明する(刺激物に舌と脳とを犯された酔狂ではないということだ)。

その上で、「一般的な味覚の持ち主であるAがなぜわざわざフレンチトーストと同時にタバスコを自ら頼み、自らかけたのか」というのが疑問として浮かび上がってくる。

 

「真面目」なAが……冷静沈着、現状を正しく把握できるだけの明晰な頭脳を持つAが、甘味にタバスコを振りかけまくっている……というのは、

 

①「いち、」で述べたように天然キャラとしてのAの特徴であり、いわば「いつものこと」である。

 

②どう見ても普通ではない、異常なことである。

 

このどちらに転んでもキャラクターとして矛盾しない、というのが僕の考えだ。

 

①は「いち、」の話なので割愛する。コメディ要素として扱っても個人的に違和感はないという話だ。

 

②の方で扱うとすると、「面白かったけど何だったんだ今のは……」という、ちょっと引っかかる感覚を残してくるシーンになると思う。すると、その後のAが主人公へ頻繁に電話をかけたり、主人公を面と向かって叱りつけたり、というシーンに連なるものの一部となりうるように思えてくる。主人公を必死で気にしているがゆえに発された、「笑えるようで笑えない」重要なシーンとして顔を出す……というわけだ。

 

これは作品外要素になってしまうが、ストレスによって辛いものを摂取するようになってしまうというのは往々にしてあるらしい。

※当社調べ。

 

当然だが、タバスコは辛いものである。「タバスコ」という響きに、「もしかしたら甘い食べ物かも!」という要素はない。辛いものである。つまり「Aがいきなりタバスコを注文した」という時点で「無意識下で辛いものを欲していた」と読み取ることができるのではないか。そしてそれは、主人公を気遣いつづけたために溜まっていた潜在的ストレスが引き起こした欲求だったのではないか。つまり、ただ笑えるだけのシーンではなかったのかもしれない……そんな解釈も可能なのではないか?

 

作品外要素で穿ちすぎてしまったが、そうでないにしろ、正常な状態のAならばフレンチトーストとタバスコとが「噎せる」組み合わせであることを認識できなかったはずはないだろう。Aはあのとき確かに判断力を欠き、自分が今から口に運ぶものの異常性を認識できていなかった。それはAの置かれた状況の深刻さを物語っているのではないか。

 

A自身についての描写は少なかった。しかし、主人公の進路について真剣に悩むAの姿を追えば追うほど、描かれなかったAの心労が想像されてくる。

恋人とはいえ、主人公はAにとって他者である。そしてA自身は内定を得ている。よって、主人公に対してそこまで深刻になる必要はない。それでも心を砕いてしまうAのひたむきな優しさ。

しかし、主人公は現在を恐れて過去に逃げてしまう。それは、「現在」的な存在であるAから逃れ、「過去」的な存在である「10年前の仲間たち」の元へ消えていく……という構図だともいえる。

 

そうしたAの抱えた精神的負荷を、ちょっとコミカルに、でもどこかブラックに、あのワンシーンで描いていたと読むことはできよう。

 

 

さん、過去・現在・未来

この作品において、主人公は「過去」と「現在」との間に揺れていた。

そして「10年前の仲間たち」が「過去」の象徴であったとするなら、Aは「現在」の象徴だったのではないか……というのは、すでに散々述べてきた。

そして、「過去」につく形容詞が「楽しかった」なら、「現在」につく形容詞はきっと「つらく厳しい」なのだ。ともすれば「過去」の仲間たちとの楽しい時間に目を奪われてしまいがちなこの作品の中において、「現在」の苦痛を味わっていたAの存在は、実はひどく大きなものである……両天秤の片側を担う重要なものである、と僕は思った。

 

タバスコはタバスコペッパーと岩塩とビネガー(酢)とでできている。まさに辛酸だ(?)

そのままにしておけば甘かったはずのフレンチトーストを、Aはタバスコ漬けにして口にした……象徴的すぎるかもしれないが、甘やかな過去を振り切って辛酸を舐めているような、そういう状況であると読めなくもない。就職を決め、現実を見据え、現在に生き、Aはすでに辛酸を味わっていたのではないか。

 

(そういう観点で観るなら、Aが就活に苦しんでいる様子とか、内定が決まって喜んで主人公に電話したら冷たくあしらわれて傷つく様子とか、そういう描写がもっと欲しくなってしまうが……

 

「お母さん、また面接で……そう、今回は大丈夫だと思ったんだけど。ごめんなさい……ごめんなさい、次は上手くやるから。そりゃ、嫌だけど……卒業まで時間がないし、現実を見ないと……」

 

「私の強みは前向きなところです、過去に甘えることなく常に前進する意欲があります……えっ資格? そんなにたくさん……すみません、今は持っていませんが、これから……あっ、待ってください、必ず卒業までには……」

 

「主人公くん、内定もらったよ! 本当によかった……! 真っ先に知らせたくて……あ、その、ごめん……そっか、「10年前」のみんなと会っているんだっけ。邪魔してごめん……頑張ってきてね」

 

みたいな)

 

ともかく、主人公の進路、つまり現在から未来、そういう話をする場においてAが食らうものとしてタバスコが登場したということ……それは、「辛い」(つらい/からい)現実を示唆してもいたということなのかもしれない。

 

主人公は最終的に、「過去」つまり「10年前の仲間たち」と演劇を完成させることとなる。

 

(10年前の自分たちと10年後の自分たちとが舞台上でくるくると入れ替わり立ち代わりしながら「演劇」を進行する展開はさすが、舞台を上手く使ってらっしゃると感じた。かつて観劇した同劇団の坂本龍馬の作品でも似た演出があったが、舞台上を多くの人間が入り乱れるため華やかでよかった。)

 

そのシーンで、Aは客席の端にそっと腰掛けている。そして主人公たちが完成させた演劇を静かに眺めている……という演出だった。

僕はたまたまかなりいい席に座っていたため、Aが隅の席でチラシを握りながら舞台を見つめているその横顔を確かめることができた。なるほど……なるほど……僕は泣いた。

 

泣いた。

 

とはいえ、それでジーンときたのは僕の席がたまたま特等席だったからかもしれない。Aと築き上げていく「現在」そして「未来」を、もっと観たかったような気もする。

 

例えばチラシを受け取るシーンあたりで、

 

「あなたは現実から目を逸らそうとして、逃げようとして演劇をやっているんだと思っていた。けれど、あなたは一生懸命だったんだね」

「昔のみんなとの絆、これからも大切にしてね。私は応援しているから」

 

からの、

 

「何を言っているんですか。僕にとって……いや、俺にとって、Aさんとの関係は「今の絆」だ。「絆」ってのは、切ってしまわないかぎりずっと結ばれたまま続いていくものなんだよ。俺は10年前の仲間たちにそれを教えてもらった……そして、Aさんとの絆も大事にしていきたいって思ったんだ」

 

とかね。

 

僕には脚本の経験がないので蛇足のような気もするが。

主人公にとって、「10年前の仲間たち」との関係も、今こうして自分を支えてくれるAという存在との関係も、どちらも「絆」と呼んでいいものだろうと、それが「未来」に繋がっていくんじゃなかろうかと、そんなことを思った。

 

以上。

 

 

まあ、こんな風に、ひとりのキャラクターのワンシーンを引っ張り出して無限に考えを広げてしまう妄想家も観劇に来ているのだということをご承知いただければと思う。

 

以上は全て舞台の上の話だ。そしてこれは僕のための記事だ。