さて、どちらが「僕」なんだろう
①大きな事故に遭った「僕」。
顔も体もグチャグチャになり、元の容姿は見る影もなく、見た目の時点で完璧に別人となっている。
また事故をきっかけに記憶を失い、今まで学んできたことや得てきたこと、出会ってきた人々のことを全て忘れている。
さらに思想や哲学や価値観が一新され、元の「僕」とは全く違う考えを持つようになっている。
だが、紛うことなきオリジナルである。
②最新のクローン技術を駆使し、事故前の「僕」を完全再現した「僕」。
容姿は髪の一本一本から足の爪先に至るまで一分の隙もなく事故前の「僕」をコピーしてある。
それから「僕」が事故に遭う前の記憶を取り出してインストールしてあり、オリジナルが学んできたことや得てきたこと、出会ってきた人々のことを全て覚えている。
もちろん思想や哲学や価値観も事故前のオリジナルと完全に一致している。
だが、どうしようもなくコピーである。
さて、どちらが「僕」なんだろう。
……こんなことを考えだしたのは、僕の他者に対する考え方を掘り下げてみたからである。
僕にとって他者とは、ひとりひとりが唯一絶対の存在だ。僕は他者を「年齢」「性別」「国籍」とかいうようないわば〈カテゴリ〉によって区分けするのを好まないし、どれほど似た境遇や似たジャンルに生きている人同士であっても決して交換できないと思っている。少なくとも僕にとって、「その人」は「その人」だけだ。
……が。
それならば、僕は「その人」というのをどこで判断しているんだろう、と、まあそんな疑問を持ってしまったわけだ。
僕なりの考えだと、だいたいこんな感じ。
容姿が変わった程度なら、何の変化もないようなものだ。記憶を失ったとしても、「その人」自体はそのままそこに在るわけだから、その上にまた記憶を積み重ねていけばよいだけの話だ。主義主張や価値観は、そもそも(僕の考えによれば)生きていく中で揺らぎ変わっていくものであるから、変化も含めて「その人」であると思う。
そう考えてみると、僕は他者を「その人」という“概念”で捉えているような気がしてきた。何がどう変わろうと、僕にとって相手が「その人」であるかぎり相手は「その人」なのだ。
「その人」が今までと変わってしまって、悪いことをしたり酷いことをしたり、僕を嫌ったり傷つけたり、そういった場合でも僕は「その人」が「その人」であるかぎり「その人」として尊重したいのだ。
となると僕にとっての「その人」というのは、オリジナルの方になるのかもしれない。
けれど僕としては、クローンもクローンでクローンという別の“概念”になってしまうと思う。オリジナルと無関係の、完全に別の個人として。
他者というのは僕にとって“概念”だ。だから誰に似ていようと似せていようと、別の存在つまり別の“概念”になる。……と、思う。
つまり、ただよく似せただけの二人の人間が、二人分のそれぞれの“概念”が、世界に存在している……と捉えることになるだろう。あくまで僕の考えだが。
(しかし、今まで述べてきたのは「オリジナルが事故で変容しており、クローンが事故前の姿で生活している」という事実をこちらも知っているということが前提となっているオハナシである。
もしそこを知らなかったら、僕はクローンをオリジナルの「その人」として捉え、扱うことになってしまうわけで……それはオリジナルにもクローンにもひどく残酷なことだ、と思った。僕はそれぞれをそれぞれとして尊重したいのだ……。
まあこの記事はクローンの記事ではないわけだが、「本人の代理としてクローンが生活する」というのはそういう点で恐ろしいことだと思った。「その人」をすり替えてしまうからだ。
閑話休題。)
そして「逆に僕が「その人」側になって他者から見られるような状況に陥ったら、僕はどんな風に見られるのだろう」というのが冒頭の、二人の「僕」である。
他者からすると、僕は何をもって「僕」なんだろう。
①■■■■■■■■■■■■「僕」。
②■■■■■■■■■■■■「僕」。
さて、どちらが「僕」なんだろう。