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くろるろぐ

夜は短し

 今更ながら、森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」を読んでいる。読みながら恥ずかしくなってしまうような可愛い可愛い作品だったらどうしようかと思っていたけれど、杞憂だった。

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

そうだな。「立体道路が幾重にも重なっているのを、真上から見下ろしたらどう見えるか?」、そんな作品だと思った。自分の“真上”あるいは“真下”を走る道路に如何なる車が駆けているか、当人たちには気づきようもない、彼ら彼女らはあくまで自分の乗る車のヘッドライトが照らしうる範囲の物事を語っているにすぎない。しかしそれらを統合していくと立体道路の見取り図が眼前の紙面上に描き出されていって、彼らが道路上のとある地点で一堂に会していることに、あるいは別の地点で宿命的な擦れ違いを起こしていることに、はっと気づかされる。

 

下手な例えだ。ともかく連鎖的構造美である。

 

この作品を購入したのは先日、大学時代の旧友たちと会うことになった日だ。僕は早々と待ち合わせ場所についてしまい、とりあえず本屋へ入って、とりあえず目に付いた本をガサガサ買った。そのうちの一冊がこれだった。雑な出会いだった。

 

その旧友たちとの会合は例によって滅茶苦茶で、僕は大量の日本酒を飲み、幻想のセックスを語った。気心のおけない若人と喋る機会というのが分かりやすく減少してきている僕にとって、こういう会は危険である、喋りすぎてしまうので。それでも後輩からラブホテルの内装について細かく聞き取ることに成功したのは収穫だった。やはり、ラブホテルは性行為に使われるとき最も輝くのではないか?

 

しかし大学時代の旧友たちの悪いところは終電を逃すことを美徳だと信じているところである。僕は心地よく酔って眠くなり、もう充分でしょうと手足をひらひらさせていたのだが、彼らは僕を離してくれなかった。結局、僕らはカラオケで夜を明かした。旧友の歌う桑田はとてもよかった。また旧友のせいでアルバムを買うことになりそうだ。

 

なるほど、夜は短し歩けよ若人、か。

 

明け方のまだ暗い夜道を駅に向かって歩きながら、僕はほのぼのとそんなことを思った。朝が来れば解けてしまう魔法を、その最後の一滴まで味わい尽くそうとする悲壮。もしかすると旧友たちにもそういう気持ちがあって、ゆえに夜遊びに耽るのかもしれなかった。何しろ僕の旧友たちは(僕の旧友たちだけあって)拗らせた文学愛好者たちであるから、ただの馬鹿騒ぎと見せかけた宴にも一抹の仄暗さを見出さざるをえない。

ま、それでも明け方まで遊ぶなんてのは無理をしすぎだと思うわけだが。

 

僕は穢れている、ので、登美彦の描いた「乙女」の独り歩きのような、透明感ある放蕩を再現することはできまい。とはいえ僕にとっても夜は短い、泣けてくるほどに。ヘッドライトもテールランプも深夜の道路ではシャンデリアやらイルミネーションやらに化けるのであって、僕はそういうのを求めて夜を歩きたいわけで、ああ、大人の世界に憧れていられるのは子どもだけなのだ、などと。

 

あの道路を夜に走っていけたら、何処かで面白い何かと合流して並走して遠くへいけるかもしれない……あの路地を夜に歩いていけたら、何処かで欲しかったものを拾えるかもしれない。

 

されど夜は短し。