歩けよ乙女
これは前半までの記事。
- 作者: 森見登美彦
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
- 発売日: 2008/12/25
- メディア: 文庫
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(感想を書いている途中で寝落ちてしまった。日常生活というやつはこれだから嫌だ。疲弊させないでほしい。)
芳醇ながらも嫌味のないすっきりとした甘さ、華やかでありつつも安心感のある後味、そんな作品だった。「そう来たか」というドンデン返しよりも、「そう重なるか」という不意打ちの妙。前記事でも述べたように、人間同士の重なったりすれ違ったりという運動を追っていく楽しみがあった。
そして何より読みやすかった。
……。
「透明少女」の話をしたい。
「透明少女」とは、僕の後輩によって提唱された“少女の概念”あるいは“概念上の少女”の呼称である。
詳しい解説を聞いていないので、彼が具体的にどのような概念を指して「透明少女」と呼んでいたのかは残念ながら知らない。けれど、「透明少女」、その言葉の響きだけで、もうだいたいのことは説明されているような気もした。というより、わざわざ説明してもらう必要はないのかもしれないと思った。
結局、僕は「透明少女」という言葉を勝手に借りてしまった。そして僕なりの「透明少女」を収集しつづけることにした。
雨上がりの空へ向けてシャボン玉を吹いた少女。濡れた植え込みに咲いていた花をそっと摘んだ少女。白いワンピースに麦わら帽子をかぶってヒマワリ畑の前で微笑んだ少女。
ひとしきり笑ったあと煙草をふかして俯いた少女。話の途切れた刹那ふと遠くを見つめ口を閉ざした少女。核心をつく一言を発する直前に悪戯めいた表情を浮かべた少女。
どれも実在の「少女」たちだが、彼女らに対する猥褻な感情は一切ない。また、「透明少女」を捉えた次の瞬間その人物がコトンと俗に還ってしまうこともある。
“ふとシャッターを切ったら奇跡の一枚が撮れた”、そんな一瞬の煌めき、それが僕なりの「透明少女」だ。
すべて幻想に過ぎないのかもしれない。世の中は残虐で下劣で、美しいものに手厳しい。よって「透明少女」と出会うこと自体、至難の技だ。それでも透き通った夢を追ってしまうのは、まあ悲しい性である。
ちなみに、「透明少女」の提唱者たる後輩は、自宅をジャズバーに仕立て上げて友人らを招き、洒落た音楽とともにオリジナルカクテルを振る舞っているらしい。天晴れ。ぜひとも、敬愛を込めて「透明青年」と呼びたい。
僕の価値観でいうと、それが虚構的・夢幻的・文学的な透明性を帯びているかぎり、それは「透明○○」である。美しきことは良きことかな。最近どうも疲れが溜まっているので、視野が自然と狭まり、そういう透明な存在を見落としがちになっているのかもしれない。良くないことである。
と、言いつつ。
僕を知る人たちには既にバレバレだと思うが、僕は何だかんだ言って混濁や汚濁も大好きだ。性欲と物欲と承認欲、不透明。どうせ世の中は俗悪なので、「透明」なものばかり追い回してもいられない。俗悪の中にも愉快痛快は転がっている。優れた文学は濁った暗がりの中からも生まれてくる。
……。
「夜は短し歩けよ乙女」は、「透明少女」(造語)と「灰色青年」(造語)と、それぞれの視点が切り替わりながら進むタイプの一人称小説だ。同じ地図の上を「透明」と「灰色」とが歩く。こんなにも色味が違うのか……そういう、世界の見え方の差も楽しめる。
そして、「歩けよ乙女」である。
「歩く乙女」ではない。語呂の問題だと言われてしまえばそれまでだが、僕は「歩けよ」という言い回しが選ばれたことに意味を見出したい。作中の「少女」は、「歩けよ」と誰かに呼びかけられて歩みを進める。誰に言われずとも歩きつづけるであろう「少女」なのだが、それでも彼女の周囲にはいつも「歩けよ」と声をかける何者かが姿を見せる。「少女」は透き通るほどの純粋な人格をもってそれらの声を受け止め、歩きつづけていく。
一方、もうひとりの視点人物である青年の方は、「歩けよ」と声をかけてもらうことがない。ひとりで勝手に奔走し、ひとりで勝手に落胆し、ひとりで勝手に歩いていく。彼は当初、自称する通り「路傍の石」でしかなかった。しかし彼は歩みを止めず、少しずつ少しずつ「少女」の歩く道に踏み込んでいく。「少女」の世界に食い込んでいく。
僕が前半の記事で述べた、「立体道路が幾重にも重なっているのを、真上から見下ろした」ような感覚はまさに、「少女」の世界に割り込もうとする青年の執念が生んだものだったのだろう。
僕は視点人物の多い一人称作品をあまり好まない方なのだが(と言いつつ何だかんだ理由をつけて許してしまうんだけれど、それは置いておくとして)、この作品において人々や物事の重なり合いを描くのにこれ以上の描写方法はなかっただろうと思った。
最後に文学部卒らしからぬ、陳腐なことを添えて台無しにしておこう。
「好奇心と執念と、そういうものに突き動かされて人は歩く、けれど時にそうした原動力を失ってしまうこともある、足が止まってしまうかもしれない、そんな場合、「「歩けよ」と声をかける何者か」がいれば少しは歩き出せるのだとしたら、僕がその「何者か」になってもいいな、と思った。」
歩けよ乙女。歩けよ人々。