世界のCNPから

くろるろぐ

東京国立博物館

先日、大学時代の知り合いたちと連れ立って上野の東京国立博物館( 東京国立博物館 - トーハク )を訪れた。

 

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特別展は 「 両陛下と文化交流―日本美を伝える―  」 ・ 「 国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅  」の二本立て。せっかくなので両方とも見てきた。

 

それぞれに突き刺された。

 

「両陛下」の方は、お二人の幼少期から現在までを文化財とお写真とで紹介していく形式だった。

それにしても皇室というのは「伝統」をひどく重んじておいでだ。「香炉と伏籠を使って着物に香を焚き染める」とか「重要な儀式の際には黄櫨染御袍や唐衣裳をお召しになる」とか、高校古典の授業でしか目にしたことのない風雅なる世界が解説されていた。賛否両論あるだろうが、僕としては伝統文化の妙味というのを堪能できて楽しかった。

 

中でもちょっと面白かった展示として「ボンボニエール」というのがあった。

 

明治20年代から,饗宴の折の引出物のひとつとして,ボンボニエールと呼ばれる小さな菓子器が採り入れられました。慶びの場にふさわしいデザインによる,手のひらに載るほどの大きさの愛らしい菓子器は,今日まで皇室の御慶事を記念する品として引き継がれています。

( 参考: 展覧会概要/第77回 皇室とボンボニエール―その歴史をたどる - 宮内庁 )

 

つまり菓子を入れておくための入れ物なのだが、これが皇室向けにかなり凝った作りをしているのだ。僕は皇室の方々がこういうものを使ってらっしゃるということ自体まったく知らなかったのでホホウとなった。

 

そしてその中のひとつ、「両陛下ご結婚記念」のボンボニエールを見て僕はちょっとばかり泣きそうになってしまった。

 

それは静かな池の上を二羽の鳥が連れ添って泳いでいるという立体的な作品だった。僕は息を呑み、そのまましばらく立ち尽くした。

 

人と人との関係なんてものは不安定で不条理だ、こと僕は「結婚」という言葉のもたらす鈍痛に日々呻吟しているわけであるが、……その二羽の鳥の凛と寄り添う姿を目にして、僕は「清廉」の二字を思い浮かべた。

夫と妻。

 

むろん「天皇陛下」であるからには「理想」である必要があるのだ、だから隅々まで「理想」を造形しているのだ、それは「象徴」としての宿命に過ぎないのかもしれない、……ということを汲んだ上でなお、僕はその「理想」の冴え冴えとした銀光を目に焼き付けておきたいと思った。綺麗事でいいのだと思った、どうせガラスケースの向こうに飾られているものなのだから。

 

 

さて。

 

「東寺」の方は、真言宗総本山である仏教寺院・東寺(またの名を教王護国寺)、および真言宗自体がテーマとなっていた。

 

真言宗の開祖である空海真言密教の教えをわかりやすく広めるため、手の組み方を図解したり(「蘇悉地儀軌契印図」)、唐から曼荼羅(真言密教の世界観を表現したウワーって感じの絵) を持ってきたり、何かと尽力した人物である。展示ではそういった空海の努力を示す品々を確認することができた。

 

その中でも特に今回は「仏像曼荼羅」……つまり密教の世界観を仏像によって表した立体曼荼羅とでもいうべき展示に力が入っていた。

仏像にもいろいろあって、その種類についても解説してくれていた。館内の写真を撮ることはできないので記憶頼みだが、まず仏界のヒエラルキーってのはだいたいこんな感じらしい。

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これが確かに仏像たちの姿に現れていた。僕は展示されていた仏像を見ながら「これは「菩薩」! ヨッシャ」「これは「天」! アァ「明王」の方だったか〜」などと見分けて遊んだ。

 

ちなみに僕の大学時代の知り合いたちは(僕も含め)文学館や博物館や美術館や水族館に行くとそれぞれ自分勝手なペースで好きな場所を見て回るため、基本的に「はぐれる」。僕は仏像選別ゲームに1時間ほど費やしてから現れたせいで、とっくに見終わっていた知り合いたちから苦笑されながら殴られた。

 

しかし。

僕は宗教に耽溺しているわけじゃないが、「あまねく人々を救済する」という如来の在り方には惹かれるところがあった。あの超然とした表情の内奥に、数多の人間を救いうる力があるのかと思うと憧れた。

 

僕は自分のことで精一杯だ、僕は仏教的に禁じられている種類の欲にまみれている、僕は他者を救うどころか片端から痛めつけている。

ひとりを救おうとすれば重さで沈めてしまうし、複数を救おうとすれば各々を傷つけてしまう。誰かの役に立つこともできない。あんなに苦しんでいる人がいるのに僕は何もしてやれていない。5億円を手に入れたら譲りたいのに、体が複数あったら代わりに働きたいのに、あまねく人々を救いたいのに、僕は誰のことも救えない。

 

そういう意味で、僕は仏像のことも「理想」としてノンビリ眺めた。「あまねく人々を救済する」、そんな不可能の偶像を真下から見上げた。

むろん宗教上の信仰対象だからこそ「理想」である必要があるのだ、だから隅々まで「理想」を再現しているのだ、それは「象徴」としての役割に過ぎないのかもしれない、……ということを汲んだ上でなお、僕はその「理想」の晴れ晴れとした後光を目に焼き付けておきたいと思った。綺麗事でいいのだと思った、どうせ見上げることしかできないのだから。

 

 

 

……宮沢賢治の「雨ニモマケズ」( 宮澤賢治 〔雨ニモマケズ〕 )は有名だから、ご存知の方も多いだろうと思う。僕はこの作品において刮目すべき箇所を、次の部分だと主張したい。

 

「サウイフモノニ / ワタシハナリタイ」。

 

そういうものに、私はなりたい。

「ならなくちゃ」「絶対なってやる」ではないのだ。「なりたい」。なれないから、「なりたい」。

「なりたい」を詠むというのは恐ろしいことだ。自らの理想を描くことは、それが成し遂げられぬまま空費されていく現実を描くことに他ならない。しかし一方、反実仮想は芸術との相性がいい。美術・演劇・音楽・映像・そして文学・あるいは人生における「なりたい」の描写は、それが憧憬であれ悲願であれ諦念の影の未練であれ、芸術たりうるものであると思うのだ。

 

僕は鳥になりたいのでも如来になりたいのでもなさそうだが、彼らから連想される“何かしら”に「なりたい」……とかなんとか言うと数行前に自分で書いた文章に脳天を貫かれてしまうのだけれども。「空費」という言葉を繰り返すのは自傷行為でしかないので、自分は芸術をやっていこうとしているだけだと言っておきたいわけだが。

 

しかし人生を芸術に見立てて愉しまんとするなら、何だかんだやっていけると思えるくらいの安定的余裕か、あるいは自分の吐いた血反吐に筆を浸して原稿用紙に立ち向かうような血みどろ死にかけの気魄か、少なくともどっちかくらいは欲しいわけで、嗚呼この辺りまで考えが至ると惨めになる。

 

何者にもなれないまま終わりたくはない、何者かに「なりたい」。