パーン
死にてえ! いや死にたくはねえ。
何もかもをパーンとやってしまいたいときというのがある。けれども僕は勇気のない人間なのでほぼ全ての「パーンとやってしまいたいとき」を踏みとどまって見逃してきた。
奈須きのこ「空の境界」の橙子さんあたりに聞いてみたらきっと僕の起源は「惰性」って言われるんじゃないかと思う。すなわち、一度始めたことを続けるのが上手いのだ……なぜなら辞めるための活力を湧かせられないから。
ここのところ僕は仕事をこなすだけの機械と化している。筆に水だけつけて紙の上を滑らせているような、いくら必死になっても絵が完成しないような、そういう骨折り損の生活をやっていっている。仕事をサボって海へ行きたい。
と、言いつつ、絶対にやらないのが僕である。大学時代もそうだった、サボりに適した快晴の日でも授業にはぜんぶ出席していた。頭の出来が悪いうえ友達もいなかったので成績はよくなかったが、ひとりぼっちの皆勤賞をこっそり誇っていたものだ。
サボれない、休めない、投げ出せない、捨てられない。続けるつらさよりも辞めるつらさの方が僕にとっては重い。何事についても、「よーし辞めるぞ」の一歩が難しい。「よーし死ぬぞ」も失敗している。
という話をしたら、恋人から「じゃあ私のことも捨てられないから捨てないだけなんだね」と微笑まれたことがある。反射的に「違う」と返したものの、さて否定するための材料は証拠は権利はいずこに? 僕は「惰性」で恋人を束縛しているのかもしれない。
そういうことなら、僕は恋人との関係も「パーン」した方が本当はいいんだろうな、ってこれはもう数年前から悩んでいることである。けれど僕は相変わらず恋人のことを好きで、……いや、少なくとも主観的には好きだと思っていて、意識と無意識と、自己認識と実情と、もうわけわかんないのだが、結局のところ事実としてもう8年間も「惰性」的に縛り付けているわけで、
パーン。
梶井基次郎「檸檬」( 梶井基次郎 檸檬 )における一節が頭をよぎる。「黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。」梶井自身も実際に神経衰弱だったらしいが、それはさておくにしても、この「檸檬」における“爽やかな果物”と“爆弾”とのコラボレーションは実に梶井的で鮮やかだと思う。
まあこの一節を引いて「文豪ストレイドッグス」で梶井基次郎が「爆弾魔」になっていたのは最高に面白かった。あの作品、なかなかギャグセンスが高い。太宰は川上からドンブラコ〜ドンブラコ〜と流れてくるし、泉鏡花は実物がおっさんなのに美女になっているし。まあ信長も美女になってエロ同人を描かれる時代、肉体的性別なんてどうでもいいよねという話なんだろうな。
閑話休題。
辞めるとか逃げるとか消すとか爆発させるとか、そういう「パーン」的な幕引きを決意するのにも勇気は必要だと思う。そして僕にはそれが決定的に欠けている。辞めるべきときに辞められるのも、逃げるべきときに逃げられるのも、才能だよ。
こないだ尊敬する知り合いから、「現状維持も「選択肢」だ」、という言葉をもらった。つまり、今の状態をそのままにしておくことを選ぶのもアリだけれど、それが失敗だとわかってきたら別の選択肢を選ぶのもアリだということなのだ。「現状維持」は特殊な場所にあるものではなく、いくつかある選択肢のうちのひとつなのだ。こいつはダメだと思ったら捨てていいものなのだ。
もちろん勇気は要るけれど。
何かに対する僕なりの抵抗として、いまウイスキーを飲みながら記事を書いた。パーン。なかなか爆発力のある一説になったんじゃないかと思う。嫌なことなんて考えなくていい。より良い結果を目指して自分なりにやればいい。爆発したっていい。
パーン。
死にてえ! いや死にたくはねえ。
本当は生きたいよね、できれば誰よりも幸せに。