世界のCNPから

くろるろぐ

「平成最後」の瞬間、僕は

「平成最後」の瞬間、僕は酒に酔った頭で恋人とふたり「トポロメモリー」というゲームをしていた。

トポロジーで遊ぶ?理系ボードゲーム制作プロジェクト! - FAAVO東京23区

 

トポロジーは、何らかの形(かたち。あるいは「空間」)を連続変形(伸ばしたり曲げたりすることはするが切ったり貼ったりはしないこと)しても保たれる性質(位相的性質(英語版)または位相不変量)に焦点を当てたものである[1]。

 

(参考: wikipedia:位相幾何学 )

 

二戦くらいしたあとでゲラゲラ笑いながらふと時計を見ると、23:59:25を指していた。わぁ、と思った。特に何をしようと思っていたわけでもないが、わぁ、と思った。

 

「おぅ、平成が終わっちゃうぞ」

「へぇ。……もう一戦する?」

 

嗚呼、恋人にはこういうところがあった。クリスマスやバレンタインデーには興味を示さない、僕の誕生日のみならず自分の誕生日ですら忘れかける。「記念日」とか「特別な日」とか「区切り」とかいうものに全く関心を持っていないようだった。

よって当然、あの子は「平成」が「令和」へと切り替わることについても特殊な意味を見出していなかったし、世に溢れ嫌でも目に入るはずの「平成最後」という響きに一瞥さえくれなかった。

 

恋人が「平成最後」という言葉を(もちろん皮肉として)使ったのは後にも先にも一回だけ、トポロメモリーで遊びだす直前に「平成最後」の晩餐を味わったときだけであった。

 

※ちなみにこのあと例によって泥酔した僕が引っ張り出した2万円を恋人は慎ましく僕の財布に押し戻し、自分の財布から全額を支払おうとした。自分が払うのお前には払わせないのといった壮絶な戦いを繰り広げたのち、確かワリカンになったんだったと思う。我が恋人が無銭で高級肉を貪るタイプの人間であるという誤解を招かないよう、念のため。

 

一方、僕は何となく「平成最後」という言葉について落ち着かない気持ちを抱いていた。

僕は平成■■年生まれなので、人生のうち全てを「平成」に包括されていた。そう、「包括されている」が「包括されていた」になってしまったのだ、2019年4月30日から2019年5月1日という「区切り」の瞬間をもって。それはそれなりに大きなことのような気がした。自分の時代が「過去」になったような感覚だった。

 

「平成」の中には僕の中学時代も高校時代も大学時代も含まれていたし、昨日までの全てが含まれていた。つまり、恋人と出会ってから今に至るまでの……必死こいて好きだと伝えて、半ば無理やり恋仲になって、さんざん傷つけて……といった過程の、全てが含まれていた。

時代が切り替わることでそれらが消えてしまうということはないのだけれども、何となく妙な……頼んでもいないのに「区切り」を用意されたような、何らかの何かを得なくてはならないと急かされるような、じわっとした不安を覚えた。

 

そんな不安に後押しされてしまったのだろう。僕は恋人に、「平成」の間じゅう何度も訊ねつづけたことをまたしても訊ねてしまった。

「僕のことは好き?」

 

そして恋人はあくまでも、「区切り」を気にしない人間だった。

「■■■■■」

「平成」の間ずっと示しつづけた答えを、恋人はまた繰り返した。

 

それから僕らは長いこと話した。そして僕は、恋人が僕のことを“単純に”嫌っているというわけじゃなさそうだということに気づいた。寡黙な恋人の漏らすちょっとした言葉を繋ぎ合わせて、僕自身の自己嫌悪的な自己中心的な感情をいったん抑え込んで、恋人自身の自己評価を紐解いて、……何だか、僕は糸口を掴んだような気がした。

しかしその糸は、今まで僕が摘み上げようとしていた糸よりもだいぶ細く脆く、僕個人の努力云々ではどうしようもないものかもしれなかった。僕が手出しすればするほどそれは僕の独りよがりになるらしかった。僕の存在自体が糸を切り落としかねないのだった。

 

令和、令和ねえ。

元号の変化が僕にも変化をもたらす、なんてことはないんだけれども、たまたま僕の変わるべき時期と元号の変わる時期とが重なったのかもしれない、とは思わなくもない。今までの僕が示してきた態度は、恋人の抱える苦悩と対応していなかった。となれば、僕はまだまだ頭を回すべきだ。もっと早く気づくべきだった……しかしそれは今更、である。

 

僕は僕自身の在りようを千変万化させてみつつ、「僕」そのものの性質と見つめ合ってみなくちゃならないらしい。やっていこう。人生トポロジー