世界のCNPから

くろるろぐ

昔からハリー・ポッターのファンなので

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買った。

 

ラフォーレ原宿「ファンタスティック・ビースト」最新作公開記念、過去最大級ファッションイベント&展覧会」という期間限定イベント的なものに一瞬だけ突撃してきたという話。

詳しくはファッションプレスの記事をご覧いただきたい。

昔からハリー・ポッターのファンなので(好ましいと思う人物は“謎のプリンス”とジニー・ウィーズリー、苦手な魔法生物はレシフォールド、贔屓のクィディッチ・チームは「トヨハシ・テング」)、ぜひ服も欲しいと思って最終日に駆け込んできた。本当はミュージアムの方も見たかったけどそっちは機会を逸した。

 

などと偉そうに言っておきながら実は「ファンタスティック・ビースト」の方をまだ観ていないという致命的な状態なので、まあ近々ちゃんと観ておきたい。ニュート・スキャマンダー氏は魔法動物学に関して第一人者的存在であるから、その若かりし頃の姿を知っておくということには深い意義があることだろう。

 

「歓楽的雰囲気をかもし出す方法により客をもてなすこと」

昨夜は友人たちと酒を飲んだり矢を投げたりした。

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そもそも他者と……いや、正確には「同年代の気の置けない他者と」飯を食いに行く機会がマジでほぼなくなってきている人生なので、久々の食事会は素晴らしく楽しかった。まだ自分も若くあれるのだと思った。

ダーツボードのど真ん中に矢が刺さった歓びでコンタクトレンズをぶっ飛ばした人がいたり、僕の大連続小ボケ(そうでもない)を関西ノリでばんばん拾ってくれた人がいたり、美しすぎて帰り際にナンパされた人がいたり、なんというか、人というのはみんなそれぞれに面白さを持っているものなんだよなとしみじみ感じた夜だった。

 

まぁそんなこんなで、今期最高ともいうべき上機嫌で某邸へ帰った。

 

が、

某はいなかったのであった!

 

こないだ合鍵はもらったものの、「許可していないときは勝手に入らないでね」と念を押されていたので僕はLINEに既読がつくのを待った。しかし連絡は一向に返ってこなかった。酔いと寒さとで意識が遠のいてきた僕は自販機の隣で10分くらい仮眠を取ったのち、タクシーで帰った。

 

深夜二時、僕が自宅の風呂に浸かっているとき、某から返信が返ってきた。しかしその内容は僕を驚愕させしめるに充分だった。

某は、昭和23年7月10日法律第122号第2条にて定めるところの接待飲食等営業1号営業店、および「深夜における酒類提供飲食店営業」に該当する飲食店、を訪れたとのことだった……そして法令上のいわゆる「接待」行為(「歓楽的雰囲気をかもし出す方法により客をもてなすこと」)を享受してきたというのである!

わざとぼかしているのよ。察しなさいよ。

 

どうも婚期を逃して飢えた先輩に誘われてホイホイついていったらしい。僕は頭の中でその先輩をブルゾンちえみみたいな見た目に設定し、「彼氏ばっか相手にしてちゃ枯れちゃうわよ? オンナの寿命は短いの」と言わせ、某に「そうですね……」と答えさせてみた。なかなか想像しうる図だった。いやブルゾンちえみではないだろうけど……

 

某は昔からそういう性的歓楽みたいな空気が好きでなく、できるだけそういうタイプの異性と関わりたくないというタイプだった……と思っていた。けれども確かに最近はよく「○○(芸能人)の顔が好き」とか「顔のいい人と触れ合いたい」とか言うようになってきたので、昔より抵抗がなくなったのかもしれないという気はしていた。

また同時に、某は昔から親しい人間に誘われると断れないタイプでもあった。たとえば友人から酒を勧められると無限に飲んでしまう、とか(ちなみに僕に誘われた場合はちゃんと断れるんだよな)。

つまるところ、「自分から行くほどでもないけど興味はあったし、お世話になっている先輩のお誘いだし……」みたいな感じだったんじゃないかと思う。見よ、この見事な分析を……まあ他者理解なんて無理なので、こんなのだいぶズレていると思うけどね。

 

とはいえ、某は「イケメンと触れ合えるというからついていったのに高い金を払わされただけでブサイクばっかだったし金を返してほしい」「気に入らなかったら金を払わずに帰ってもいいシステムにすべき」というような激しい文句を垂れていた(一部事実を改変・誇張している部分がございます)。

……僕は、某が「接待」行為(「歓楽的雰囲気をかもし出す方法により客をもてなすこと」)を享受してきたことについては普通に面白がっていたのだが、従業員の悪口を聞かされるのは心苦しかった(僕に気を遣っているんだとは思うけれど)。

 

ああいうタイプの接客業は、接客業の中で最も難しい仕事だと思う。売るのは酒や時間や自分の「性」ばかりではない。なぜなら求められているのは究極の「接待」なのだから。

まず「「客を楽しませること」を考えなくてはならない」。次に、「客に「自分は従業員たちを楽しませているんだ」と思い込ませるために楽しんでいるふりをしなくてはならない」。いわば従業員たちは、「感情」そのものをラッピングして売り飛ばしているような状態なのだ、……と思う。働いたことがないので想像に過ぎないけれども。

そしてこれが残酷なところだが、「客を楽しませること」の中に、「できるだけ美しい容姿で」「できるだけ綺麗な声色で」「できるだけ上手い話し方で」というような、相当の金やら努力やらを積まないと得られない部分までも含まれているのだ。

僕は毎回、この部分を考えると暗澹たる気持ちになる。従業員たちはどれほどの努力をしているのだろう。そしてその努力は、どれだけの客から踏みにじられていることだろう。

 

僕は新宿歌舞伎町を散歩コースにしてきたから何となくわかるのだ。彼ら彼女らが道行く人々からどんな目で見られているか。客は品定めをするような目で見てくる……客でない人々は「なんて下品な仕事だろう」という目で見てくる……それでも働かねばならない、その苦しさ……物悲しさ……。

などと、僕みたいな一般人のブサイクが勝手な想像で同情してくる、その遣る瀬無さ、気持ち悪さ、怒り……。

などと考えると、気軽に「ブサイクばっかで金を無駄にした」なんてこと言わないでやってほしいなあと思ってしまうのだ。だってきっと彼らも相当、頑張っているはずだものな。

 

とかなんとか、とりあえず、金がすっからかんになったらしい某を慰めつつ(というかその先輩とやらは後輩である某をそんな風に引きずり回しておきながら奢ってやらなかったの? なかなかやってくれるじゃないか)、まぁたまには某だってそういう体験を味わってきた方がええんちゃうかな、などと思った。

何しろ僕が縛り付けてきたせいで、某は他の人間からチヤホヤされる機会を少なくとも8年間近く奪われてきたわけなのだから。

むろん金という対価を支払わねばならない上、あくまで仕事であるという一線を常に引かれているとはいえ、プロフェッショナルがお送りする究極の「接待」に触れながらチヤホヤされる歓びを楽しむ場が、あの子にはあってもいいんじゃないかなあ。

ただし金銭面には気をつけてほしい(小声)

 

 

しかし今更だが、「歓楽的雰囲気」って何だろうな。

かん らく

くわん-

[0][1] 【歓楽・懽▼楽】

▪️( 名 ) スル① 喜び楽しむこと。喜びと楽しみ。快楽。 「 -の巷(ちまた)」 「 -を尽くす」 「他人をして、喜悦-せしむるものなり/西国立志編 正直」

(参考: 歓楽(かんらく)の意味や定義 Weblio辞書 )

 

なるほど?

僕は、ちゃんと皆をもてなせていただろうか?

衝動買いはしないって星条旗に誓ったのに

間違って本屋へ立ち寄ってしまい、誤って本を買ってしまった。

 

堀辰雄集。泉鏡花集。大江健三郎自選短編集。以上3点、3000円ちょいである。

 

堀辰雄 (ちくま日本文学)

堀辰雄 (ちくま日本文学)

 
泉鏡花 (ちくま日本文学 11)

泉鏡花 (ちくま日本文学 11)

 
大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

大江健三郎自選短篇 (岩波文庫)

 

 

もうこういう衝動買いはしないって星条旗に誓ったのに……しかも僕はまだ小栗虫太郎集も江戸川乱歩集も読み終わっていないのである。何がしたいんだ。

突発的に文庫本を購入してしまう。本当は電子書籍の形で買って手軽に持ち運んだ方がいいんだろうけど、スマホの画面だとどうにも途中で頭が痛くなってしまって集中できないし、電子ペーパー的な電子書籍媒体は高価ゆえにまだ買えていないしで、結局こうして文庫本を買いあさっている。

文庫本を買う金で電子書籍媒体を買えるのでは? なんて、そういう野暮なことは言うべきじゃないのだ。実際その通りです。

まあでも、文庫本をひとつコートのポケットへ入れて出かけ、電車内で取り出して読む、みたいなやり方が好きなので、これはこれでいいかなと思うなどしている。

 

とりあえずせめて小栗虫太郎を読み終えるまでは新たな本を買わない方向性で行きたい。そのあとは……虫太郎を終えたあとの気分でどうするか決めよう。なんといっても本は人間と違って逃げていかないので気の向いたときにいつでも触れられるのが良いところだ。

結局のところ

仕事を終えた足でスーパーへ向かい、適当に肉と野菜とを買って、人の家へ上がりこんだ。米を炊いた。洗濯をして干した。消費期限の切れた食材を、まだ新鮮な食材と組み合わせながらおかずを作った。帰ってきた家主が飯を食い終わるのを見届けて、皿を洗ってから帰ってきた。

 

いまは一人反省会中である。

 

無洗米をいつもの癖で研いでしまったことを思い出した。洗濯を夜にするのはあまりよろしくないのに思いっきり洗濯してしまったこと、さらに外へ干した直後から雨が降り出したことを思い出した。ネギを焦がし肉を焦がし味噌汁を増やし、味も見栄えもパッとしない料理を生成してしまったことを思い出した。

家主は「ありがとう助かった」と口に出してはくれたものの、それがどこまで本心からの言葉であったかという点については家主のみぞ知るところである。

 

自己満足なのだ、結局のところ。

 

誰かを支えたいという思いは「誰か」の自立を妨げうる。誰かに尽くしたいという願いは「誰か」を雁字搦めに縛り付けうる。誰かを愛したいという祈りは「誰か」の心に害を与えうる。相手の気持ちを知ることはできない。「相手の立場に立って考えましょう」という幼子向けの教えは本当のところ、「相手の立場に立つことはできない」という真理に気づかせるための教えだったのだと思う。

 

とはいえ僕は「知ることができない」から「知ろうとすること自体が無駄なことだ」とは思っていない。他者理解の絶対不可能性を噛み締めた上で、それでも他者を理解しようと、他者の感情に少しでも近づこうと足掻き“つづける”こと……それ自体は、意味のあることだと思っている。

 

……しかしその「足掻き」は、意味のあることでありながら、同時に「誰か」を傷つけうるものでもある。がむしゃらに動かした手が「誰か」を叩いてしまうこともある。それでも足掻きつづけるのであれば同時に、他者を傷めつけてしまう可能性までも背負いつづけなくてはならない。

 

と、そんなふうに思うので僕は、単純に好きとか嫌いとかやっていられなくなってしまうのであった。

自分のやっていることは所詮、「誰か」を傷つけているだけの行為なのではないか……という恐怖と不安、それをこうして語ってしまう醜悪な欺瞞、予防線を張る自分への嫌悪感。押韻は完璧だね。そうじゃなくてな。

 

……自己嫌悪に陥っているつもりで自己陶酔に陥っているというパターンも往往にしてあるなというのが最近の気づきなので、自分については嫌悪でなく反省をしていきたいところである。自省内省猛省。

 

まあいずれにせよ、今日は僕が自分の“支えたい”“尽くしたい”というわがままを突き通してしまっただけという感じがするので、そのあたりまた考えなきゃなと思う次第。

 

とりあえず次はネギを焦がさないようにしたい。