世界のCNPから

くろるろぐ

こんにちは新しき現実よ

 

結婚しよう、と、あの子は言った。

わかった、と、僕はゆっくり答えた。

それですべてが決壊した。

 

さよなら古き夢よ - 世界のCNPから

 

恋人氏は、本当はずっとすべてを「はっきり」させたかったのだと言った。

ゆるやかな好意。生ぬるい時間。どこにも辿り着かない関係。そういったものに、恋人氏は懊悩と罪悪感とを抱いていたらしい。

縛り付けたくはない。けれど失いたくもない。現状に甘えて、状況を維持して、そうして結局、あなたを動けなくしていた。だから本当は、はっきりとした形……別離か、婚姻か……に、決めてしまいたかった。

それが恋人氏の主張だった。

 

「でも、僕は何をどうしたらいい?」

「住む家を考えて、いろいろと決まってから、具体的に……入籍、としたい」

「そっか。……予め、言っておきたいんだけど」

「……」

 

「あなたに結婚だけはしたくないと言われてから僕は、あなたに縋ることなく……なるべく一人で生きられるようにしてきた。職場での立場も確立できてきたし、資格も取ったし、趣味も増やした。後回しにできない、大事な友達もたくさん作った。ここんとこは文学研究会の連中とつるんで、小説の執筆やら映画の鑑賞やら、憧れていた“文化”っぽいこともできている。

 

はっきり言って、……うまくやったんだ。あなたと結婚して家庭を築くという夢を、永久に捨てるよう宣告されてから。だいぶ頑張って、そこそこうまくやってきた……うまくなってきたんだ。

 

それで、たぶん僕は、それらを捨てられない。そういう生き方を、やめられない。僕は一度、人生を終わらせた。そしてほんの昨日まで、「余生」としての今を生きてきた。なるべくはっちゃけて、暴れて、ふざけて。泥酔して、散財して、いつ死んでもいいように。

 

ずっとちまちま貯金してきた人間が、いきなり、あなたの余命はあと三ヶ月だと伝えられたとするよ。そしたら、後悔のないようになるべく使い果たしちゃおうとするじゃないか。これからも生き延びようとするときと、もう死ぬのだというときとでは、貯金の切り崩し方が違う……って、伝わるかな。

 

今の僕は、「あなたの余命ですが、実はまだまだ長かったみたいです」って伝えられた患者みたいな状態なんだ。これからまだ生きていくんだというつもりでいなかったから、もう貯金をだいぶ使ってしまって、いまさら途方に暮れているわけなんだ。……当然、ここからもういちど立て直す以外に道はないわけだけれど、少し、なんだか、立ち直るまでに時間が要るかもしれない。

 

……嬉しくないわけじゃないんだ。まだ生きていられると知って、「ここから」をやっていけるとわかって、すごく嬉しい。ほんとに、嬉しい。……けど、どうしていいか、……どうしていいか、も何もないんだけどね。どうにかするんだけどね。ともかく……これから、よろしくお願いします」

 

恋人氏は、どう見ても手放しで喜んでいるようには見えない僕の様子に、かなり当惑しているようだった。だが実のところ、もっと当惑しているのは僕の方だった。

僕自身、ようやく夢が叶ったと、手放しで踊り回るくらいの気分になると思っていた。

 

「……ごめんなさい」

「あなたが悪いんじゃないよ」

「いや、これは私が悪かった。半端なまま、あなたを追い詰めてしまって」

「……」

「その、よほど倫理に反していなければ、あなたの生き方を否定することはしないよ」

「ありがとう。でも、その「倫理」の価値観が、僕とあなたとでだいぶ違うって話じゃなかった?」

「そうかもね……そこは追々、話し合ってやっていこうってことで」

 

恋人氏は、「結婚にこだわっているだろう僕がいつでも自分から離れていけるように」というつもりで、今まで「遠慮」してきたのだと言っていた。けれどそれには嘘が混じっていたらしい。要するに恋人氏もまた、立ち回りに迷っていたようだった。

 

あの子の自己肯定感はあまりに低かった。自分のようなクズに僕を付き合わせたくないという感情が、あの子の言動を本音と嘘との間に揺らがせてしまっていた。……ということ、らしい。

 

十二年間。あまりに長い旅だった。

やっと――と、爆発的歓喜に満たされている僕と、どうしよう――と、茫然自失している僕とがいる。……これはどうしようもなく本音だ。不思議なものだね。本当に……不思議なものだ。

 

僕には何も見えていなかったのだということが、ここへきてよくわかった。

 

「今度こそ、僕の人生はここで一区切りとなった。あとは、今あるものを磨いたり汚したりしながら生き長らえればいい。」

僕は磨きすぎた、あるいは汚しすぎた。急激な気温変化に精神が風邪を引いている。ああ……僕は嬉しい。けれど物事はそう簡単じゃない。

 

こんにちは新しき現実よ。これから直視すべき世界よ。