世界のCNPから

くろるろぐ

f:id:CNP:20200211092835j:image

#

 

「そういや僕のボールペンが見当たらないんだけど、置いてったかな」

「うちに忘れてったなら捨てたかもしれない」

「なんでそんなことを」

 

 

「まあ本当に捨てることは多分ないんだけどね。ほら、あったよ、これでしょ?」

「いや待て。今のは」

「探し物が見つかったんだからいいでしょ、寝るよ」

「ちょっと」

「何?」

「……なんでもない。寝ようか」

「ん」

 

#

 

あまり話したことがなかったと思うが、我が恋人氏には姉君がいた。つまり恋人家は、父母以下、姉・兄・恋人氏、という三人構成だった。

 

今回お話しするのは、きょうだいの話と、矜恃の話。偶然にも頭韻を踏んだ、まったく関係のない、よく絡みあった二つの話題だ。

 

恋人氏の兄君については何度も話題に出しているから、今更ご説明する必要もないように思う。

 

 

そんな兄君に、僕は大学時代、存在を知られた。要するに、“恋人氏の恋人”としての僕を知られた。そのときの兄君のツイートの一部から、僕が兄君にとってどんな存在だったか把握しうる一文を、ほぼ原文のまま引用しておく。

 

「俺のかわいいスイートリトルエンジェルの貞操を奪って捨てたドグサレヤリ○ン絶対許さない」

 

僕は苦笑した。

まあわかる、と思った。

僕だって僕のかわいい妹に30代間近の恋人がいると知ったとき、どこの馬の骨だろうと憤りにも似た感情を抱いたものだ。兄とは(あるいはもしかすると姉も)、見ず知らずの誰かと自分の弟妹とが交際していると知ったら、一瞬くらいはギクリとしてしまうものだと、僕は思う。それは嫉妬や敵意というよりも、「自分の弟妹が危険に晒されていないかどうか」という心配や不安であって、だから僕は、兄君のツイート上でどんどん悪魔の顔になっていく自分自身の姿を見ながら、むしろ恋人氏がいかに兄君から愛されているかを感じ、温かな感情を抱いたものだった。

 

ところで、兄君の認識には大きな誤解が含まれていた。僕は恋人氏の貞操を奪っていなかったし、恋人氏を捨ててもいなかった。どちらかといえば当時の僕は、高校卒業のタイミングで恋人氏から捨てられた側であったはずだった。しかもそのあと復縁したので、兄君が僕の存在に気付いた時点において「捨てた」要素はキャンセルされていたのだった。

 

妙な齟齬だな、と僕は思った。この点について、僕はしばらく考えた。そして憶測だけで辿り着けたのは、以下のような筋書きだ。

 

そもそも、兄君が僕の存在に気付くためには、僕の存在を兄君に知らせた人間が居なくてはならないはずだった。そしてそれは恋人氏自身であるはずがなかった。恋人氏は自分の家族に僕の存在を知られたくなくて、かなり慎重に動いていたからだ。

となると、ありうるのは高校時代の同級生くらいのものだった。僕や恋人氏とよくつるんでいた人間が何人か、兄君と同じ部活動へ参加していた。聞くことがあったとすればそのあたりからだっただろう。

 

そして高校時代の連中は、僕と恋人氏について、“高校卒業とともに離縁した”というところまでしか知らない。となれば、僕らが大学生になった時点において兄君に伝わる情報も、「あなたのスイートリトルエンジェルにはかつて悪い虫がついていたんですよ。けれどご安心ください、高校時代の終焉とともに別れたそうですよ」というようなものとなるに違いない。そして、それだけ聞いた兄君の中で、僕は確かに悪魔でしかなかったろう。

 

僕は、今さら犯人探しをしたいとも思わなかった。それより、兄君の価値観のことに興味が向いた。

 

「俺のかわいいスイートリトルエンジェルの貞操を奪って捨てたドグサレヤリ○ン絶対許さない」

 

かつて自分の家族と付き合っていた人間に対して、これだけの感情を抱ける男。……そして、そんな男を兄に持ち、強く慕う、恋人氏。

また、兄君は自分が童貞であることを、すなわち、三次元の女に穢されていない身であることを、誇りに思っているらしかった。……そして、そんな男を兄に持ち、酷く憧れる、恋人氏。

 

近しい者同士の価値観は、不思議なほどよく似通う。「類は友を呼ぶ」。友でさえ類を形成するのなら、血の繋がった家族の場合は?

 

#

 

「さむ……お布団と結婚する……」

「じゃあ僕があなたの布団になるよ」

「えー……嫌」

「ひどい」

「だって布団は発情したり騒いだりしないし」

「……発情なんかしてないが」

「してんでしょ」

「、」

「わたし、あなたよりお布団の方が好きだな」

 

#

 

恋人氏の、姉君の話をしよう。

といっても僕は、姉君の方にはほとんどお会いしたことがなかった。高校も別だったので顔を合わせる機会がなかったのだ。ただ、僕含む恋人氏の友人たちの間で、姉君はどういうわけかよく話題にのぼった。成績優秀。才色兼備。兄君が鬼畜凌辱同人誌の愛好家として有名だったせいか、その対比として、真面目で立派な姉君もまた有名だった。

 

高校時代、恋人氏は姉君の話をするにあたって、驚くほど誇らしげな顔をしたものだった。

 

「姉貴は (恋人氏は気を抜いていないかぎり、兄姉を「兄貴」「姉貴」と呼んだ)、東京理科大に現役で受かっててさ。紅一点だし、わたしが言うのも何だけど顔も悪くないし、わりとモテるらしいんだけど。「研究者になりたい、男には媚びない」っつって、ぜんぶ、跳ね除けてて。エロ同人に染まった兄貴とか、無能なわたしとかと、同じ家族とは思えない。家族のことあんまり褒めるのもアレだけど、かっこいいなって」

 

先ほど僕は、姉君に「ほとんど」お会いしたことがなかった、と述べた。すなわち、僕は一度だけ、姉君の姿を拝ませていただいたことがあった。あれは恋人氏がまだご実家にいたころだから、まず間違いなく高校時代のことだ。恋人氏のご実家の前で恋人氏を待っていると、道の向こうから女性が現れた。

 

目が合った途端、これが噂の姉君だ、と瞬時に理解した。

 

恋人氏にも兄君にも似ていない、それでいてどこか同じ色の、凛とした眼つき。スッと筋の通った細身の体。男物の服は体に合わせて作られたようによく似合って、「男には媚びない」という彼女の宣言をそのまま表したかのようだった。

確かに姉君は、かっこよかった。

 

そんな姉君に変化が訪れたのは、ここ数年のことだった。……姉君は婚活サイトに登録し、外国人の恋人を持つようになったという。休日にはスカートを履き、女の子らしい化粧をして出かけるようになった、と。

僕の記憶が正しければ姉君はそろそろ三十路近いはずで、世間一般から見れば、姉君の行動はそれほど間違ったことでもないような気がした。むしろ、冷静沈着で未来志向の姉君らしい布石だと思った。

しかし、恋人氏と兄君は、それを嫌悪した。

 

「姉貴がさ、「わたしに彼氏ができたって言ったらどうする?」ってメンヘラみたいなLINEをしてきたから、雑に返してそのままブロックしてさ。それからぜんぜん会ってないな。会って姉貴に話したいことも、ないし」

 

かつてあれほど科学分野に特化し、男には媚びないと豪語していた姉君の、変化。それは、恋人氏にとって“堕落”だった。恋人氏の「かっこよかった」姉君は、もはや、色恋沙汰に呑まれて自分の意思を曲げた敗北者でしかなかった。

 

「女には媚びない。女には相手されなくていい。頼光ママに甘えながら生きていければいい」――兄君。

「かつての価値観に別れを告げ、最終的には結婚という一般的幸福を目指した」――姉君。

 

恋人氏が羨望と憧憬を抱いたのは、あくまで兄君の方だった。

 

#

 

「よしよし。お仕事、頑張ってて偉いね。クロルくんは頑張り屋さんだね?」

「……僕のこと好き?」

「うん、好きだよ、クロル。好き」

「……今日はどうしたの」

「さぁねぇ」

 

#

 

恋人氏は昔から、相手に内容までは聞き取らせないギリギリの小声で“何か”を呟くのが趣味だった。こちらが「何か言った?」と聞き返しても、「何でもない」と言って絶対に教えてくれなかった。僕は苛立って、「聞かせたくないことは言うなよ、聞かせたいならはっきり言えよ」というような苦言を呈したこともあった。

この趣味は今でも続いていて、つい先日もそういうことがあって、僕は必死になって耳を傾けたのだが。聞き取れたのは、ほんの一語だった。

 

「……前に進みたいんだよね」

 

がつん。

死刑宣告だ、と思った。

 

あの兄君とあの姉君との間で価値観を育んできた恋人氏の、進みたい「前」が、どこだか僕にはわからなかった。否、あまりによくわかったから、わかりたくなかった。

 

本当は兄君のように、……色恋に堕ちず、自分の趣味を全うして、モテない芸で仲間たちと笑って、生きていきたかったのに、一心に尻尾を振ってくる駄犬つまり僕を振り払うことができず、どちらかといえば姉君に近いような態度で、今日までずるずると飼いつづけてしまった、……そんな恋人氏にとっての「前」とは、

 

#

 

「……愛してる」

「ふーん、それはありがたいな」

「ずっと一緒にいてほしい」

「そっかぁ。大変だね」

 

#

 

僕だって結婚にこだわっているわけじゃなかった。ただ大切な人を支えていたくて、大切な人にそばに置いてほしくて、それだけだった。「結婚」はそのためになかなか手っ取り早い手段だから提案したけれど、どうしても嫌ならば構わなかった。ただただ、一緒に生きていくこと、一緒に生きつづけることが、僕にとっての「前進」だった。

 

けれど恋人氏にとってはきっと、僕という枷を外して、自分自身は兄君のように自由に生きること、僕は僕で幸せになってもらうこと、……こそが、「前進」なのだろうと思った。恋人氏は、兄君のように誇り高く生きたかったのだろうと。

 

これまでの文脈を鑑みるに、恋人氏のまなざす「前進」というのが「結婚」を指していないことは明らかだった。しかし、てっきり僕は、恋人氏が現在の曖昧さを維持していくことを多少なりとも望んでいると思っていた。

なのに、恋人氏自身の口から「前に進む」なんて言葉を聞いてしまって、その「前」に、僕の姿がないことを察してしまって、僕は、

 

#

 

「あなた片付けが下手じゃない? 古いものに愛着が湧いちゃって処分できなくて溜め込んじゃうタイプ。

だから、わたしのことも捨てられないんでしょ?」

 

#

 

「前進」することを、やめる決意をした。

 

僕はもう何もしない。駒を進めれば終わってしまうなら、二度とサイコロを振りはしない。もう、ぜんぶ、どうでもいい。

仕事は頑張るつもりだ。人生を同じ場所にとどめておくにも金は要る。できるだけいい資格をとって、できるだけいい役職につきたい。そうして得た収入の全てで、「今」を固定しよう。楽しい時間を永遠に延ばしつづけよう。終わらせない。ぜんぶ、何もかも終わらせない。

 

僕はどこにも行かない。

 

#

 

「……前に進みたいんだよね」

「えっ?」

「何でもない」

「……「前」って」

「……」

「僕じゃ、だめなのか」

「……」

「何とか言ってくれよ」

「……ほら、酔っ払い。早く帰ろ」

「なぁ、」

 

#