世界のCNPから

くろるろぐ

自分のメンタルと向き合う人の独言⑩選

 

「当日見かけたものを題材に」と宣言したので、見かけたツイートを題材に、ひとつ。

 

今朝こんなツイートを目にした。

 

 

『メンタルが安定している人の特徴⑩選』。

堂々たる主題である。
こういう話に対し、揶揄と反感の目をもって皮肉を書き綴ることは簡単だ。
しかし僕は平和主義者なので、もう喧嘩めいたことはしたくない。
だから僕は、こうして「特徴⑩選」をまとめてくださったことに感謝を示しつつ、自分の「メンタルが安定している」かどうか、ひとつひとつ見つめ直してみようと思う。

この記事は自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2021 - Adventar 2021.12.09の記事です。

 

 

 

 ①プライドはゴミ箱へ

→自尊心と自己愛とが強いのでプライドを捨てられない。

kotobank.jp

 

プライド。「自分の才能や個性、また、業績などに自信を持ち、他の人によって、自分の優越性・能力が正当に評価されることを求める気持」。


僕は、僕の書いた文章に賞賛の言葉がかけられるたび安堵する。
大学の同期や後輩が、僕の小説を面白がって読んでくれた、僕は久しぶりに心から満足した。
職場で「君の文章からは言いたいことが伝わってこない」「ビジネスメールの書き方を勉強した方がいい」と手酷くやられたときは、大袈裟でなく、破滅的に落胆した。

僕は僕自身に何らかの価値があるとは思っていないし、何らの価値をも認めてもらいたくない。僕自身はゴミ箱に捨てられて構わない存在だ。
けれどもおそらく僕は、僕の手によって生まれた"作品"には、何らかの価値を持ってほしい。
"作品"と読んでいるが、ここには僕の小説だけでなく、文章、メール、書類、絵、料理、その他いろいろな、僕の手によって生まれたものたちが含まれている。
僕の作品は、ゴミ箱に捨てられてほしくない。
そういう意味で、僕は「プライドを捨てる」ということができていない。

僕は自分の作品のことが大好きで、つまり自分のことが大好きなのだ。
僕の作品群が賞賛されれば嬉しい、軽蔑されれば悲しい。
そういう感情の揺れは荒波に揉まれゆく難破船の如く激烈なもので、確かにそれは「メンタルの安定」という状態からは離れているといっていい。
きっと僕はもっと、自分の生み出したものへの偏愛・執着を捨てるべきなのだろう。捨てられやしないのだけれど。

 

 ②疲れたらやめる

→疲れないのでやめられない。

自慢ではないが、僕は持久型だ。
「ゆるやかに、ただしなるべく持続的に」という状態を求められた場合の僕は、ほぼ永久的にそれを続けることができるといっていい。
これを日本語では怠惰という。やめる勇気がないのである。

僕は"のんびりやっている場合に限り"、いつまでもだらだらと続けてしまえる人間らしい。
「本気で体力が尽きて倒れる」ということを、僕は経験したことがない。
どうも基礎体力が半端に固まってしまっているようで、「つらいのでぶっ倒れる」ということにならない。
一見便利なようだが、これには問題がある。精神的体力とのバランスが取れていないのだ。

こころがつらくても、からだが動いてしまう。
からだが動いてしまうので、休んでいるということができない。
動けるのに動かないというのもそれはそれで僕の精神を傷つける。すなわち、動けるということは休めないということになる。
疲れない。だからやめられない。
これはメンタルが安定しなくなるというよりも、すり減っていくという方に近いのだろう。
だからどうすればいいか、というのは僕にもわからない。

 

 ③居場所は複数

→そもそも"居場所"って何。

僕には"居場所"なんてあるんだろうか、と、真っ先に思った。

家族。会社のチームメンバー。高校時代の友人。
大学時代の研究会仲間。Twitterで知り合ったフォロワー各位。
恋人氏。

「大切な人」という主題で脳内に人々を思い浮かべると、僕はいつも泣きそうになる。
優しくしてもらえた記憶と、それに何も報いていない自分とに、感情をやられる。
一方的な想いであることは百も承知だが、僕は自分に優しくしてくれた人を大事に思っている。
どうにかして幸せになってほしい。僕に力があれば、その力をどうとでも使いたい。
ただ。いや、だからこそ。

"居場所"というのは、この僕がいていい場所のことだ。
であれば、僕には"居場所"などないんじゃないだろうかと思う。
僕の脳裏に浮かぶ、あまりに親切であまりに素敵な人々を指して、"居場所"だなどと言えるだろうか?
彼らはきっと、ここにいていいんだと僕に温かい言葉をかけてくれるだろう。そういう人たちだからだ。
けれど僕はそれに甘んじて、他者を"居場所"と捉えていいのだろうか?
"複数の居場所のひとつ"として?

 

④寝たら忘れる

→悪い記憶は翌朝を迎えても、20年経っても忘れられない。

眠りは記憶を整理すると言われている。
言われているが、僕はそれを実感できた試しがない。
僕は過眠症を患っているので、おそらく一般的な眠りよりも深く長い眠りを貪っているのではないかと思う。
よく眠っているぶん記憶もリセットされやすそうなものだが、そんなことはない。ただ寝ているだけである。
寝ることで記憶を整理し、頭を切り替えることができる……というのは、一種の才能なのではないだろうか?
「寝て忘れよう」と期待して眠り、起きたとき本当に忘れることができている、というのであれば、間違いなく体質上の勝ち組であると考えざるを得ない。

僕の場合を考えてみよう。例えば何か嫌なことがあって、もうだめだ寝てしまおうと判断したとする。
まず眠りにつくまでその記憶を反芻しつづけてしまう。
飲み込もうとしては吐き出し、吐き出したものを嫌々ながらも噛み締め、飲み込み、また吐き戻し……そうやって眠りにつく。
過眠症のありがたいところは、眠りに落ちるまではさほどかからないことが多いということだ。
そして悪夢を見るか、あるいはまったく夢を見ないかして目を覚ます。いつもより早い時間。そして最初に思い浮かべるのは、昨晩の悪い記憶なのである。
逆に楽しいことがあって眠ったとする。この場合、確かに目を覚ますと「昨日は楽しかったな」という気分がぼんやりと残っていてしばらくは元気を保つことができるが、そんな気分はいずれ泡のように消え、新たな悪い記憶の原因とぶつかることになる。

「20年前から消えていない悪い記憶」の例を挙げようとして、やめた。
文章にするのもおぞましいような記憶ばかりが蘇って、とてもではないがお見せできない。
僕が言いたいことは、あれから幾晩も幾晩も寝たり起きたりしているのに、忘れることなどできていないということだけだ。

 

⑤駄目でもともと

→それはそう。

駄目でもともと。それはそう。ここへ来て、これには同意した。

僕には何の才能も、価値もない。何をやっても他者に劣り、他者を傷つけ、他者に迷惑をかける。
自分の能力が低いあまり、僕は自分を信用していない。
自分の業務能力が頼りないので、仕事には時間をかけるようにしている。しかしそれでも失敗を繰り返すので、僕は「時間がかかるわりに精度の低い人」として定着している。
自分の対人能力がまるでないことを理解しているので、交友関係は最小限にしている。それでも関わった人々には嫌な思いをさせてばかりだ。

……と、ネチネチと気にしているあたり、僕は「駄目でもともと」の領域に達することができていないわけである。
まあ仕方ないよね、といってカラリと明るく笑えるのが、たぶん理想なのだろう。
駄目でもともと、こんなもんだ、……と言いながら、完全に諦めるということもできていないのが、僕の醜いところなのだと思う。

 

⑥60点で十分

→そうはいかないじゃありませんか。

僕の"作品"に対するこだわりは①で語ったので、ここでは簡単にいこうと思う。
僕は自分の作品を60点で赦すことはできないし、一方、60点以上を叩き出したこともない。
作品についていえば、僕は一生60点を越えられない自分に苦しみつづけることになるだろう。十分、という気持ちにはどうしてもなれない。
まあこんなもんだよね、というところで止める方が僕にとっては負担だ。この感覚はメンタルが不安定になるというより、圧迫されつづけるというイメージだろうか。

僕自身についていうと。
僕自身が自分を60点程度で赦しても、世界はそれを赦さない。……というのが僕の実感、本音である。
ある程度できていればヨシ、というのは、他者が僕に対して赦すことであって、僕が僕自身に赦すことではない。そして他者は、僕に60点程度でいることを赦していない。
むろん僕はここでも60点以上を獲ることができない。いや、それどころか、採点可能な段階にも達していない。今のままでは誰にも赦されないのに、赦される水準にはいつまでも届かない。

僕はたぶん他者を恐れている。点数をつけるのは自分ではなく、他者だと思っている。
でも実はそんな他者などどこにもいない、ということにも気づいている。すなわちこれは仮想他者の採点に怯えているという話で、ひどく道化的でもある。

 

⑦期待しすぎない

→自分への期待に苦しめられている。

そう、僕は自分に対して、きっと何か為せるはずだと思いたがっている。
いつか、いずれ、何かしら為せると思っていたい。
年齢を重ね、つまらない人生がくるくると進んでいき、焦燥が沸騰しても、僕はまだ期待している。
僕はまだ何か面白いことをやれる、面白いものを作れる、面白いものに出会えるんじゃないかと。

何事もない。なんにも。

夢を見るには歳を重ねすぎた。何かしらの「輝かしさ」は僕からずっと遠いところで瞬いていて、こちらの方には降りてこない。僕は何も得られなかった。僕には何もない。
諦めさえすればいいのである。もうこれで人生はおしまいだと、これ以上はもうないのだと、諦めきってしまえばいいだけのことなのである。
僕はいつまでも何を待っているのだろう? 白状するしかない、僕は確かに、僕自身の人生に期待しすぎている。

 

⑧1人の時間も大切に

→「も」とは。

僕は他者と関わるのが下手なので、ひとりの時間を大切にしている。
読書は呼吸のようなものなので今さら挙げるには及ばないにしても、最近は小説を書いたり、3Dモデルを作ったり、手芸をしたり、虚空を見つめたりして、ひとりで過ごしている。
ひとりのいいところは、他者へ影響を与えずに済むところである。僕のようなゴミはなるべくひとりで過ごしておいた方がいい。

昨今はコロナウイルスの影響で、ひとりで過ごす機会が多い。これは僕だけでなく、世間的にもそうだろうと思う。
そういう時期にあって僕が驚いたことは、「人と会えないことに耐えられない」「誰とも会えなくて寂しい」という人が少なからずいたことである。
僕も確かに会えない人々の安否を案じてはいたけれど、人と直接会えなくなったことについての不満などなかった。ひとりの時間が多いのはもとからであるし、より多くなったことで充実すらしていた。
しかし、それは意外と一般的なことではなかったのかもしれない。
「人恋しさ」という感情の恐ろしさについては語ることが豊富にあるので後日に回すが、人間は他者との交流を本能的に望むものなのかもしれないという感じを抱いたということだけ申し述べておきたい。
だからこそ、あえて「メンタルを安定させるために1人の時間"も"大切に」と挙げることになるのだろう。

 

⑨まだいける! は危険

→「もういけない!」を教えて。

「②疲れたらやめる」でも述べたが、僕は自分の疲れをいまいち把握できない。
いや、疲れたなと思うことはあっても、「もういけない」という判断をいつ下していいのかよくわからない。

僕の上司に、そこそこの頻度で18時間連続勤務を為している人がいる。
その人は確かに疲れた顔をしているものの、無理矢理「まだいける」と自分に言い聞かせているようではなく、自分の「いける」範囲でやっているようだ。
そんな人間を前にして、ちょっとやそっと疲れたかも程度の段階で「もういけない」と判断してしまっていいものか? というのが僕の悩みとなっている。

他者と比べずに、自分が「もういけない」と感じたらそこでやめていい、……というご意見もあることと思う。
しかし今度は、自分でその「もういけない」の感覚がわからないという問題にぶち当たる。
気力は、そんなに長持ちしない。けれど体力は驚くほど長持ちしてしまう。
体力が切れてくれさえすれば、それをきっかけに気づくこともできるだろう。しかし気力のほうは、単に気まぐれな気怠さが襲ってきているだけなのか、「もういけない」ところに来ているのか、全然わからないのだ。
結局、わからないということは大して疲れてもいないのだろう、と判断するしかない。

まるで崖っぷちから海を見下ろして、どこまで歩を進めると落ちるのかを確かめようとしているかのようだ。
どこで落ちるのかわかるころには、きっともう落ちているのだろう。

 

⑩嫌いな人は即サヨナラ

→嫌いな人がいない。

なるほど世人の苦しみには「嫌いな人の存在」というのが関わってくるのだな、としみじみ思った。

綺麗事ではなく、僕には「嫌いな人」がいない。どんな人も僕より優れていて、好ましく、素敵だ。僕にとっては尊敬の対象でこそあれ、嫌悪の対象になどなりえない。
だからこの項目について、僕はむしろ幸運を感じた。人と縁を切るというのは簡単なことではなく、僕にその力があるようには思えなかったからだ。

⑧で述べたように僕はもともとひとりでいることの多い人間だから、好きだろうが嫌いだろうが関係なさそうに思えるかもしれないが、意外とこれがそうでもなく、好きな人々の近況を知っては思いを馳せたりなどしている。
僕自身はどんどんゴミクズになっていくので、僕の好きな人々が幸せになれるよう願うばかりだ。

……実を言うと、逆に「嫌いな人」というものがいたほうがいいのではないかと、思うこともある。他者に負の感情を抱くということを、時には思い出すべきなのではないかと。
しかし最近の僕は、どうしても自分自身ばかりを恨んでしまう。うまくできないことのすべてが自分のせいだからだ。
自分にもっと才能があれば。自分がもっと努力できれば。そんなことばかり考えて、自分のことばかりが嫌いになっていく。
それに比べて他者の、なんと輝かしく見えることか。冗談でも社交辞令でもない。ゆえに僕は他者を嫌おうとしても嫌うことができず、羨望と敬愛とをもってまなざすことしかできないのである。

 

おわりに

果たして、僕のメンタルは安定しているのだろうか?
確かに、ここのところ燃えるような荒れ方は……さほど、していない。喚いたり叫んだり物を壊したりといった破壊的行為は……ほとんどしていないといっていい。少なくとも以前よりは減少したといえるだろう。
けれども……最近はどうも、妙だ。無気力、という言葉では言い表しきれない、何かぼうっとした感じが自分の中を占めている。
不満とか、不完全燃焼とかいうものにも近いような気がするし、どこか自棄になっているような雰囲気もある。
ある種、荒れ狂っていないので「安定」ではあるのだろうか? それともこのぼんやりとした感覚をもって、「不安定」と呼ぶべきなのだろうか?

 

猫耳を生やした美少女が、僕の視線に応えるように微笑んだ、気がした。
今年も聞いてくれてありがとう。

自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2021 - Adventar
Thanks for @Syarlathotep.