世界のCNPから

くろるろぐ

四十五分間

夜道をひとりで歩くのが僕の趣味だった。本当は夜道でなくともいいのだが、都会に生きている僕にとって、程よい時間帯というと深夜から早朝くらいしかなかったのだ。

 

満ちるでもなく欠けるでもなく半端に膨らむ月はまるで僕みたいだった。満たされれば満たされるほど渇き、欠ければ欠けるほど餓える、欲望そのものを固体にしたような。悲しいのは、そんな月ですら都会の街灯に弱らされて、ともすれば人々の視界から外れてしまうことだった。

 

真っ暗な服を着た男女が信号を無視して歩き去った。笑い声が響いて消えた。きっと、夜道においては、それが正しいのだった。僕は律儀に信号を守ってきて、それで二十五年の歳月が過ぎた。

 

コンビニのドアを、自動ドアだと思い込んだ僕は暫く立ち止まった。こういうところが都会人なんだ僕は、とかなんとか、負け惜しみのように呟いた。本当は都会から連れ去られてみたかった。どこか、例えば暖かく湿った南国に、冷たく乾いた北国に、とつぜん振り落とされてみたかった。どんな知り合いも欲しくなかったし、どんな知り合いも欲しかった。大事にする自信があったし、無碍にする自信もあった。

 

上善如水。いつもより高い日本酒を、僕は躊躇いなく購入していた。ひとりになりたかった。酒は僕をよく、ひとりぼっちにしてくれた。目が覚めると、僕はだいたい社会の中にいて、起きて出勤しなきゃならなかった。その半端な感じがまた、よかった。

 

逃げられない。逃げちゃいけない。僕が選んだことだ。

 

とっくに閉まった不動産屋の前で、若い女が賃貸情報を眺めていた。女の手はコートのポケットに突っ込まれていて、女の顔はマスクで覆われていた。僕も、十年以上前に同じことをすべきだった。そうしたら今頃は、いまとぜんぜん違う人生に身を浸していたことだろう。

 

「おまえの疑いは尤もだ。疑念を抱かないほうが難しいだろう。すべてわかっている――だが答えることはできない。……すまない。それでも、

おまえたちを愛しているよ」

 

日付が変わっても家に帰り着けないような仕事を、一生続けるのは難しいだろうと思った。けれど、日付が変わっても家に帰り着かなくていいような仕事を、若いうちに愉しみたいような気もしていた。

若いままで、否、幼いままで、ありたかった。判断を他人に任せたかった。嘘も怠惰も許されたかった。愛していると、無根拠に囁かれたかった。

 

結婚は人生の墓場です! 結婚は、人生の、墓場です! つまりそれは、ともに埋められても構わない相手と出会えたという話なのだろう。君たちは、いま隣にいるそいつと、同じ墓に埋められる覚悟があるかい? 僕は、

 

……中学生のころ、遠足と称して、一日に三十キロメートルの距離を歩かされたことがあった。だから僕の通った中学における僕らの世代は、徒歩に、強い。僕もまたそういう恵まれた脚力の持ち主なので、無限に歩くことができた。ほら、もう家が見える。このくらいの距離なら余裕なのだ。

当時の僕はまだ恋人氏を知らなかった。あのころの僕は、とかく無垢であり、メンヘラではなかった。まあ、血の呪いによって、父親程度に癇癪を起こしやすい性格ではあったけれど。

 

明日も仕事だなあ、なんて思いながら飲む酒の、なんと不味いことか。

 

四十五分間。僕は終電が運んだ駅から自宅までの距離を踏破した。そういう夜が、あってもいい。誰のことも愛しながら誰のことも愛していない、ひとりぼっちの夜が。