世界のCNPから

くろるろぐ

好きだ

友達が、好きだ。

 

これが生半可な“好き”ではないということを、どうしたら我がすべての友達に分かってもらえるだろう。

 

僕は自由な時間をいくらでも友達のために使いたい。僕は口座にある金をすべからく友達のために払いたい。僕は友達が「誰でもいいから人間をひとり貸してくれ」という状況に陥っていたらすぐに駆けつけたい。僕は友達を守って死んでもいい。

 

僕が贈り物をするとき僕は相手のためを心から想っている。僕が人と会うとき僕は必ず最も身だしなみの良い状態にしようとしている。僕が友達の愚痴や嗚咽を聞くとき僕は一緒になって憤り泣いている。

僕が愛していると言うとき僕は本気で相手を愛している。

 

僕は臆病で卑怯だから、相手が僕を認めてくれないかぎり相手を勝手に自分の“友達”だと呼んじゃいけないような気がして尻込みしてしまうのだけれど、許してもらえるならば僕は友達を友達と呼んで、僕の世界で最も大事な存在として崇め奉り侍りたいのだ。

 

僕はもともと、友達の多い方ではなかった。性格がこんななので、なかなか友達ができなかった。仲良くしてくれていると思っていた相手から陰で「何であいつは俺らのとこに寄ってくんの?」と言われていたのを聞いたこともあった。

 

しかしながら、それでも僕のそばにいてくれる人というのはいて、僕はそういう人たちに、こんな無価値な存在に構ってくれてありがとうという本心からの感謝を示したくて、もし可能なら僕に友達と呼ばせてくださいと頭を下げたいほどなのだ。

 

もしかして、世の中の人々は、友達をそんなに強く想わないものなんだろうか。世の中の人々は、恋人よりも友達を優先することなんてないんだろうか。世の中の人々は、友達という響きに大した意味を見出さないんだろうか。友達のことを愛しく思うあまり咽び泣いてしまう夜を、味わうことはないんだろうか。

 

僕は本気で友達を愛している。そのせいで恋人と仲違いすることもあった、実のところ、高校時代の終焉とともにいったん別れることとなった原因のひとつはそこにあった。僕があまりに友達を大事にするので、気が変わったと疑われたのだ。馬鹿馬鹿しい、と思った。僕は僕を認めてくれる全ての人間を愛するしかないだけなのだ。

 

本当はひとりの人間を愛する方が楽だ。守るものは少なければ少ないほどいい。そう思って一時期、僕も友達のすべてを忘れようとした。けれども、僕にはできなかった。自分を忘れずにいてくれる人が、自分を心配してくれる人が、僕のわずかな知り合いたちの中に確かにいて、そういう方々を蔑ろになんて僕には、とてもできなかった。

 

おそらく、僕の「好き」は赤ん坊なみに単純なのだと思う。僕にしてみれば、恋人のための「好き」も、友達のための「好き」も、差がないのだ。もっと大きな力、陳腐な言葉を使うなら“愛”、それが支配しているだけなので、恋人の方が大事だとか友達の方が優先だとかそういうことは議論する必要もないのだ。

 

これ以上、何をしたらいいだろう。僕の示す愛がまだ足りないというのなら、僕は何だってしたい。何だって、だよ。結婚しようか。僕は僕の友達全員と結婚して、みんなで家族になったらいいのかもしれない。それならさすがにわかるだろ。僕は本気でみんなを愛しているんだってことが。