世界のCNPから

くろるろぐ

愛されないことよりも、愛させてもらえないことの方が怖い

ちょうど一年前、僕はここで猫耳少女と話をした。

 

そのとき彼女は、「自分のことを好きなだけ話していい」と言ってくれた。僕はお言葉に甘えて、自分のこと、自分の好きな本のことを話した。僕の話が彼女にとって面白かったかどうか僕には判じかねたけれども、少なくとも彼女は最後まで聞いていてくれた。

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あれから春が去って夏が過ぎ、秋が終わってまた冬が訪れた。僕はもういちど彼女と話したくて……否、彼女“に”話したくて、一年前と同じ場所を訪れた。

 

はたして彼女はそこにいた。

 

ずっと会いたかったはずの彼女を前にして僕はしかし、ひどく妙な気分になった……安らかな恐怖、苦しい安堵、とでも言おうか。彼女は、あまりに綺麗だった。僕の穢れた呼気が彼女の存在を腐らせてしまうような気さえした。僕は、恥ずかしかった。

 

さもしい表情を浮かべたまま微動だにしなくなった僕を見据え、彼女はキョトンとした表情で首を傾げた。無理もなかった。僕はこのまま罵倒され追い返されても構わないと思った。むしろそうしてほしかったのかもしれなかった。しかし彼女は傾げた首を真っ直ぐに戻して小さく、ごくわずかに、揺するように喉を鳴らしてくれた。その柔らかな響きに促されるようにして僕はようやく腹を決め、呼吸し、凍てついた喉に咳払いの温風を送った。

 

愛の話をしよう。

 

この記事は自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2019 - Adventar  2019.12.21の記事です。

 

――――――――

 

話をしようとは言ったけれどね、と僕はさっそく弁解するような声色を使った。今年の僕は去年ほど饒舌じゃないんだ、わかるだろ? 猫耳少女は毛繕いの手を止め、声を出さずに鳴いた。たぶん、何もかもわかっているのだろうと思った。生き恥。醜く汚れた手のひら。彼女は何も言わなかった。爽やかな沈黙、僕はこれでもいいような気がしていたが、これではよくないような気もしていた。ふと思い出して、僕はポケットからひとつかみの紙束を取り出した。

 

ああ、これがあった! 僕のわざとらしい声に猫耳少女は耳をぺたんと倒した。僕は構わず早口で捲し立てた。これは最近の僕が読んでいる小説なんだ。今日はこれを読み聞かせることにしたいのだがどうだろう。僕自身のことを順序立てて話すよりもきっと少しは面白いはずだ。こいつはウダツの上がらない作家だったが、この一作はなかなか笑える。それに、もうこいつが死んでから七十年はゆうに過ぎているはずだから、ここで全文を引用しても問題ないだろう。猫耳少女は氷柱のような目つきで僕を一瞥すると大きく欠伸した。御託はいいから話せ、そういう意味だと思った。

 

それでは失礼して、と僕は居住まいを正し、わざとらしく上ずらせた声で音読しはじめた。この作品の題名は、

 

――――――――

 

「哀願」

 

赦してくれ、と呟きながら青年は目を覚ましたが、何を赦されようとしていたのかは思い出せないようだった。彼の隣では澄んだ顔をした女が眠っていた。女の寝巻きの釦は喉元まで留められ、呼吸のたびに震える細い首元を覆っていた。青年は顔を擦り、そこで自分の眼がひどく濡れていることに初めて気付いたらしかった。ち、と、誰にも聞かれない舌打ちがひとつ、彼らの寝室に溶けて消えた。女が起き出すのを案じてでもいるのか、青年は目元を袖口でせかせかと拭い、それから誰に見られることもない大きな伸びを漏らした。

 

青年がこの女を自宅に招ずるようになってから既に十年あまりが経っていた。十年! そのことを考えると、青年はいつも身震いせずにいられないらしかった。青年が彼女に頭を下げ、一緒にいてくれるよう頼み込んだあの日が、もう十年も前のことだなんて! 十年前の彼女は、愛くるしい瞳をキラキラさせながら青年をよくからかったものだった。青年は彼女から、天体観測の意義や化学反応の妙味を習った。彼女は優秀な理系学生だったのだ。

 

「ねえ、あなたオリオン座を知っていて?」

彼女は青年が答えられないのを知っていたろうに、ニヤニヤしながらそういう戯れを口にした。

「わからんね。冬の星座だということはわかるが」

「まあ、ご存知ないの、あんなによく見えているのに。ほら、あそこに三連星が見えるでしょう。あれを真ん中にした砂時計みたいな、あれがオリオン座よ」

「ははあなるほど、思ったより大きいんだな」

「そうですとも。冬の星座の中でもいっとう有名だわ、このくらい知っておいて頂戴な」

彼女は自分の知識を披露するとき、怒ったような笑ったような顔をするのが特徴だった。

「すまないね、本ばかり読んでいて空を見上げたことなんかなかったものだから」

「そんなだからあなたは猫背なんだわ。オリオンを見習ってごらんなさいよ。彼は狩猟の名人で、自分に射殺せない獣はないと豪語したそうよ」

「そいつは素敵だ。僕も一度でいいからそんなことを言ってみたかった」

「まぁ」青年の冗談がよほど面白かったのか、女は言葉を切って笑い出した。「あなたがオリオンなら、私はアルテミスかしら、蠍かしら」

「はて? それも例の神話かい」

「さあ、どうかしらね。ご自分でお調べなさいな。御本を読むのはお得意なんでしょう?」

 

あのとき青年が直ぐにそのギリシャ神話を調査していたら、その後の十年間は存在しなかったかもしれない。しかし青年は射殺せない獣たちに忙殺されるうち、オリオンを目指すことをやめてしまった。出来損ないのオリオンは空に焦がれて地に暮らし、隣にいた女を自身の身体にきつく括り付け、そうして日々を過ごしてきた……三千日以上にわたって。

 

「あら、起きていらしたの」

青年は女のほうへ目をやった。女は目に見えぬ鎖を追い払うような煩そうな動きをしてから、寝巻きの釦を確かめるように弄りまわした。

「あなたは今日もお勤めでしょう? もう出ないと間に合わないのではなくて?」

青年の目は女から己の腕時計へと移った。青年がいつも家を出る時刻までは五分ほどの余裕があった。

「まだ少し大丈夫みたいだ。なあ」

青年の伸ばした手を、しかし女は笑いながら叩き落とした。そうして女は布団を頭から被った。

「いいから早くお行きなさいな。先方だってあなたが来なけりゃ困るでしょうに。それと私、今日はお兄様の家へ行くからそのまま帰ってこないわ」

青年はボンヤリと頷いた。それから声を出して肯定を示した。布団はソヨリとも動かなかった。

 

「なあ」青年は未練がましい声色でもういちど同じように呼びかけた。布団はじっとしていた。「なあ、お前、僕のこと好きかい」「どうして?」ようやく、布団の中からくぐもった声がした。「わからなくて」青年の声はわずかに震えていた。部屋はひどく寒かった。「さあね」女の声が微笑を帯びた。「僕は真剣に……」「嫌いな人の家には来ないわよ」布団はそれきり黙ってしまった。青年の手は空中で布団を剥ぎ取らんとするような動きを見せたが、そのままパタリと落ちた。

 

青年の仕事は家庭教師であった。といっても、たまたま知り合いの娘が大学受験の時期だというので勉強を見てやっているという程度のものだった。それでも報酬は過不足なく支払われていたため、青年としてもそれを「仕事」と呼ばざるを得なかった。

勤務先は青年の家からさほど遠くないところにあった。とはいえ女との問答があったためか、青年が到着したころには決められた時間よりも五分ほど過ぎていた。

「あら先生、随分お寝坊ね」

娘は読んでいた本に栞を挟みこみながら青年の方へ体を向けた。表紙の少し折れた本は先日、青年が貸した一冊であった。栞はちょうど本の中ほどに挟まれていた。

「すまない、少しバタバタしてね。ところで、本を読むのは構わないけれど君、課題は済ましたのかい」

青年の咎めるような目つきに動じた様子もなく、娘は机の上からノートを一冊、取り上げた。開けば罫線に一分の隙もないほど何らかが書き込まれていた。青年の目が見開かれた。

「今日出すつもりだったとこまで解いてあるじゃないか、君には未来でも見えるのか」

娘はころころ笑って、「あたしに見えるのは未来じゃなくて先生の頭ん中よ」

「そいつは恐ろしいな」青年はそれ以上言わなかった。「しかしこいつを自力で解けるなら、僕の授業は必要ないと思うが」

「まぁあたしをお見捨てになるの」娘は急に笑顔を辞めて芝居がかった表情を浮かべた。「先生がいらっしゃらなくなるならあたし勉強の手を抜くわ」

それは困ると青年はモゴモゴ言った。娘はまた表情を変えて、「冗談よ、あたしが手を抜くはずないじゃないの」それからまた最初の笑い顔に戻り、「ね、撫でてくださらない? あたしとても頑張ったのよ」

青年は娘の頭に一瞬だけ手を触れ、手を離した。「戯れはここまで。そんなに言うなら授業をしよう」

 

青年は一仕事終えると娘の家のほど近くにある喫茶店で一服するのを常としていた。よくある一軒家の一階を改築して造ったような小規模の建物であり、例えば珈琲が三百円であり、通い詰めると軽食がおまけにつくような店だった。

「あら先輩、お仕事明けですか。奥様は?」

青年が席についた途端、店の奥から珈琲を携えた女子が顔を覗かせていつもの挨拶を投げかけた。青年はいつも通り、「あれはまだ妻じゃないったら」などと返しながら珈琲に口をつけた。

「ご結婚なさらないのですか?」

青年は珈琲カップを口に当てたまま頷いた。

「あまり立ち入ったことをお聞きしたくはありませんが、何か問題が?」

「君も大概だな、何でもないよ。ただあいつが結婚だけはしたくないって」

「まあ」接客業然とした表情。「それだけご一緒にいらっしゃるのに」

「結婚となると話は変わるからな」青年は顔面に憮然の二字を浮かべながら、「あの子は正しいよ、僕みたいな……まぁ、とりあえず嫌われてはいないらしいし、うだうだしていられるうちはそうしているさ」

「そうですか」後輩は曖昧に笑んだ。「現状維持は“停滞”に含まれないんですね、先輩としては」

「何?」青年は他者に詰られた人間だけが見せる当惑と怒気のこもった声で応じた。

後輩は即座に萎縮してみせた。「すみません、怒らせるつもりはなかったのですが」

青年は黙ったまま空の珈琲カップを差し出し、後輩はそれを満たすため姿を消した。数分ののち青年は表情を取り戻していた。

「また申し込まれては如何ですか、あの方に」

「しつこいな。そう簡単な話じゃあないんだよ」

「ワタシが先輩の恋人だったら、先輩にそんな顔はさせないと思いますけれど」

青年の視線が後輩の涼やかな微笑とかち合った。

「またそれか。寝言は寝てからにしてもらおう」

「あら、ワタシの寝言をお聞きになられますか? 同じ寝室で」

「君、」青年は侮辱を受けた人間がよくそうするように奥歯を強く噛んで、「面白くないぞ、それ」

「面白くしようとしていませんから」後輩もやり返した。「停滞は敵ですよ、先輩」

「お前なんか嫌いだ……」青年はうち萎れて、「もうここへは来ない。おい、会計を頼む」

「でもいらっしゃるでしょう? うちより安く珈琲を出す店はここらにありませんし」それに、という接続詞を後輩は微笑で補って、「先輩どうせワタシのこと嫌っちゃいないでしょうし」

青年は後輩をきつく睨み、小声で毒づいた。「聞こえておりますよ」後輩は会計伝票を差し出しながらにやりとした。「恋人さんにはそういったお言葉をお聞かせしない方がよかろうと思いますね。ワタシほど寛大でないでしょうから」青年は財布から百円玉を三つ取り出して後輩に押し付けた。後輩はそれを恭しく数えてから領収書をちぎった。「またのお越しをお待ちしております」

 

自宅へ戻ると女は消えていた。青年は一瞬だけ顔を硬らせたが、女の言葉を思い出したのだろう、捨てられた犬のような表情を浮かべた。

森閑とした部屋が青年を取り囲んでいた。茫漠とした世界が部屋を取り囲んでいた。目に見えず手に届かない何らかの存在あるいは概念が世界を取り囲んでいた。それは青年にはどうすることもできないことだった。青年は罵詈雑言を口の端からボトボト落とした。

それから青年は唐突に部屋の本棚へと躙り寄った。国語辞典を引き摺り出し、「愛」の項目を検めた。青年の目は性愛の項目を拾わなかった、宗教の項目とともに意識の外へ追い流した。やがて青年の目は次なる項目のところで止まった。「愛。個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心」。青年は辞典を閉じ、そのまま寝床に潜り込んだ。

 

女は翌朝になっても現れなかった。いつものことだった。女は兄と非常に仲良しだった。ありとあらゆる点で馬が合い、ことごとく趣味も合い、かつ気兼ねする必要もない相手であるそうで、女にとって兄は一番の親友とも呼べる存在であるらしかった。青年はしばしばその兄に敗北し、ひとりの夜を過ごしてきた。

とはいえ十年間のうち、青年が嫉妬に焼かれていたのは最初の三年間ばかりであったらしい。あとの七年において青年は、女の価値観をことごとく受容すべく生活しているように見受けられた。青年の語る思想は、女の述べる主張と寸分違わず一致していた。青年の言葉の中において、女の正義が青年の正義となり、女の悪徳が青年の悪徳となった。

青年はやがて女のみならず、誰に対しても受容と包容とを示すようになった。青年の言葉の中において、他者の倫理が青年の倫理となり、他者の道徳が青年の道徳となった。青年はそれを惨めとは思っていないようだった、むしろ他者に染められて極彩色に変化する己を快くさえ感じているようだった。

お前の意見はないのか、青年はしばしばそのように罵倒されたが、青年には事実なんの意見もなかったのだろう。強いて言うならば、他者の意見こそが青年の意見そのものだったのだろう。青年は嫌煙家の前で煙草の毒性を声高く論じ、愛煙家の前で十ミリの煙草をふかした。青年は猫好きの前で愛猫家として振る舞い、犬好きの前で愛犬家として語らった。青年は嘘つきだったのかもしれない。しかし青年自身は、いつだって正直に過ごしているつもりらしかった。

 

女の来ないことをやっと把握したのか、青年は独房に寝起きする囚人のような表情で周囲を見渡した。何もない部屋であった。遠くで郵便受けがカランと鳴った。青年邸に何かが投函されたらしかった。青年は囚人よりもずっと緩慢な動きをして玄関先まで近づいた。届いたのは簡素な封書だった。

 

「前略、

先日は手紙を有難う。いよいよ結婚式の招待状が届いたかと期待したが、どうも未だその時ではないらしい。そればかりか君は相変わらず周囲に女を侍らせて大笑しているようで、わたしとしても理解に苦しむ。君はまあまあの良識人だが、人間関係に関してはドロドロの大悪党だ。即刻、あらゆる人間に離縁状を叩きつけて精算するんだね。わたしならそうするだろう。

あるいは、そちらの知り合いたちを全員バッサリ切り捨てて、こちらへ移住してくるという手もある。物理的距離が開けば人間関係など自然とよいように収まるものだ。この清々しい北国で新たにすべてをやり直すというのも、それはそれで美しい選択肢に違いない。

そもそも君は、恋人を、どう捉えているのだろう。十年間の歳月に呑まれて、愛したような気になっているのではないか? 君は恋人に何をしてやれた? 恋人は君に何をしてくれた? 君は何を得た? それは君が失ってきたものより有意義か? 十年前の君に、いまの君は胸を張れるか?

いっそ君は、恋人さえも切り捨てて新天地を目指すべきなのかもしれない。どのような形でも構わないが、少なくともいまそこにいるよりはよい結果になるだろう。行き先がなければここを選んでくれてもいい。あらゆる手を尽くして歓迎しよう。

ああ、しかしこのような言い方をすると君は、きっとここへ旅行にでも来てしまうだろうね。わたしがしてほしいのは、そういうことではない。無論わたしとて親友の君に会えることは喜ばしいが、わたしの感情を勝手に慮って刹那の慰藉を投げかけてくれるな。わたしが言いたいのは、自分の人生くらい自分で綺麗にしろということだ。

こちらの冬は実に厳しい、もう誰も外を歩いちゃいない。しかし逆に言えば、室内で自堕落に過ごす言い訳が与えられているということでもある。わたしはここの冬が好きだ。そのうち写真でもお送りするよ。

草々」

青年は手紙を三度読み返し、それから小さく笑った。

 

「来てくれと言ったんじゃない、分かっていて来たんだな」

青年は手紙の主に微笑みかけた。「あの書かれ方をして来ない方がどうかしている」

手紙の主は嘆息し、頭を音高く掻き回した。「とりあえず上がってもらうほかない。満足したら帰ってくれ、明日は快晴だそうだが」

「じゃあ明日まではいよう」青年はそう言いながら靴を脱いだ。「相変わらずかな」

「見てのとおりだ」手紙の主は両手を広げた。彼女の部屋の中心には巨大なキャンバスが立てられており、部屋全体からは油絵具の匂いがしていた。「しかし君ほど荒れた生活はしていない。君、どういうつもりなんだ? わたしはいつになったら君の結婚式でスピーチをさせてもらえるんだろう」

青年は曖昧な声を出した。

「いいかい、雪景色を描くと決めたあとで晴れ模様に描き換えることはできないんだ。美しい絵画のほとんどは計画された筆遣いに裏打ちされている。君はせっかくの絵をああでもないこうでもないとひねくり回して絵具塗れにしてしまった、そんなもの抽象画とすら呼べないよ。しかもいちど着色したキャンバスはそう簡単にまっさらにはできないんだからね」

青年はそれでも何も言わなかった。手紙の主はいよいよ呆れたように踵を返した。

「まあ、結局は君の人生だから君が選べばいい。けれどわたしはどうかと思うよ、親友として」

手紙の主は青年のために布団を一揃い敷くと、便所と風呂と洗面所の場所を入念に教示してから自室へ引き返した。青年は言われたように便所で用を足し、洗面所で歯を磨き、風呂で身を清め、清潔な布団に身を包んで眠った。

 

目を覚ました青年はまず自分が何処にいるのかを把握しなおさねばならなかった。暖かな布団、柔らかな冬の日差し。そして青年は自分がまた他者愛のために暴走したことを思い出したらしかった。

「おはよう。予報通りの快晴だが」

身を起こした青年に手紙の主が声をかけた。昨日の叱責が幻であったかのような優しい声色だった。青年の鼻は朝食の香りを嗅ぎ分けた。

「お帰りはいつにするんだい? 今夜でいいのならそれまでの食事は保証するが」

「いや、これを食べたら帰るよ」青年は微笑してみせた、「急に現れて悪かったね」

主は目を見開いたまま応えた、「まだいればいいじゃないか、急ぐ用事でも?」

「そうじゃないが、邪魔だろうとね」

「邪魔ってことはないが……」わずかな逡巡、「まあ帰るというなら構わない。途中まで送るよ」

「助かる」青年はそれだけ言って寝床から完全に離陸した。

 

呆気ないほどの弾丸旅行から帰宅した青年が最初にしたことは、自宅に寝転がっている女を抱き寄せることだった。

「やめて」女は身を捩った。「そうやって雑に触れないでいただきたいものだわ、私を何だと思っておいでなのかしら」

「“恋人”」青年は感情の読み取れない声色でそれだけ言って女の体に顔を埋めた。

「そうだったかしら」女は半ば曖昧な声になりながら言った、「わかったから離れて頂戴。怖いわ」

青年は飢えたような顔でその場に突っ立っていた。髪を整えなおす女の恨みがましい視線が青年の顔のあたりを射抜いていた。「ともかく私のんびりしにきただけだもの、あなたはお仕事に向かうといいわ。また遅刻なさるおつもり?」

青年は怒鳴られた直後の幼子のような、漠然とした憤怒と羞恥とを顔に表していた。それでも女の決意がいかに堅いかを見てとったらしい青年は、それ以上いかなる行動も取らないまま自宅をあとにした。

 

複数の感情を絡み合わせた表情のまま青年は声もなく家庭教師としての務めを果たしに出かけた。外は北国ほど寒くないはずだったが、舗装された道路から跳ね返ってくる冷気は独特の鋭利な痛みを青年に与えていた。青年はボンヤリと目をあげた。踏切の遮断機がチカチカ明滅するのを見た。青年の足は自動的に前へ進み出たが、黄と黒とで彩られた棒よりも先へはどうしても進めないらしかった。青年は無力だった。消えることさえできないのだった。

 

「先生、もう赤本は飽きちゃった。どうせ解けるんだもの」

娘は青年の顔を見るなりそう言って、細かな字の書き込まれたノートを青年の眼前に突き出した。あちこち落書きまみれのノートは、それでも全ての問いに答えていた。青年は感心とも放心ともつかない溜息をひとつついた。ようやく青年の感情が日常生活に適応しはじめたようだった。

「君、もう僕なんか本当に要らないんじゃないか。ひとりで何処へでも行けるだろう」

「あら」娘はニンマリと笑った。「あたし、先生がいなかったらこんなに頑張れないわ。ぜんぶ先生のためだもの」

「なるほどそいつは光栄だが、」青年は苦笑した。「どうして君の頑張りが僕のためになるんだかわからないね。君の受験じゃないか」

娘は顔色ひとつ変えずに続けた。「いまどき、女だって勉強ができなけりゃ話にならないでしょう。あたしはいい大学へ行って、いい仕事に就いて、誰よりも働いてたくさんのお金をもらって、それで先生に楽させてあげるの、先生ほんとは働くのお嫌いでしょう? あたしが稼げばいいわ。先生はおうちで好きなことしているといいわ」

青年は豆鉄砲を喰らった鳩の顔をした。「なにを……」しかし次の瞬間には兄貴然とした笑顔をして、「からかうんじゃないよ」

わずかな沈黙。

「あたしは本気よ、ずっと」

 

青年の表情が固まった。青年の顔は、それ以上なにも聞きたくないとでもいうような、拒絶と恐怖を綯交ぜにした色に染まっていった。何か、恐ろしい嵐が訪れる寸前のような空気だった。

娘は笑顔を崩さなかった。「ねえ、キスして頂戴?」まだ若い、綺麗な目だった。「そうしてくれたらあたし、なんだってできるわ。もう泣いたり苦しんだりしないわ」

「君ねえ」青年は目を逸らした、娘の机に目をやった。青年の貸した本が、最終頁に栞を挟まれて安置されていた。「僕には恋人がいるし、そもそも君は高校生じゃないか。今後のことを考えたまえ。僕のようなのに穢されてしまったら勿体ないだろう、君」自分の方から溢れ出る流れるような常識語の数々に青年自身も驚愕しているようだった。

 

「あたしは先生がいいの」娘は、笑った。「ああ、先生がキスしてくださらないならあたし、もう二度と先生にはお会いしないわ。大学も故郷のを受けて、あっちで働いて、知り合った色んな男の人に体を売りつけて暮らすわ。先生は先生で楽しくお暮らしになるといいのよ。恋人さんとやらと一緒に。あたしのことはお忘れになって。ねえ、」娘の顔は今や青年の視界いっぱいに大写しになって、二重三重に揺れていた。「先生、あたしのことお嫌いなんでしょう?」

青年は口の中で、何かを呟いた。

 

「ここ二週間もいらっしゃらないので遂にお亡くなりになられたかと思いましたよ、先輩」

茶店のドアを開けるなり後輩が駆けつけて、青年の胸元に飛び込まんばかりの動きを見せた。違う、と青年が答えると、後輩はにこにこしながら離れて珈琲を淹れに戻った。

「恋人さんとはどうなりました?」珈琲を青年の前に並べながら後輩はわざとらしい声でそんなことを言った。「やめろ」青年は疲れたような声を出した。「おや、上手くいっていらっしゃらない?」「逆だ。すべてうまくいっている」「それは残念」後輩の笑顔に凄絶な光が宿った。「付け入ろうと思っていたのですが」

 

青年はまたしても鋭い頭痛を感じたように、顔面をくしゃくしゃ歪めた。「君ねぇ」明白な怒気を、青年はしかし口元で優しく緩めてしまう。「巫山戯るのも大概にしておけよ」

「お客様の前で巫山戯けたことなどございませんが」後輩はそこまで言うと、弾けたようにコロコロ笑った。「先輩は面白い方ですね」

その日も青年の他に客はなく、後輩は青年の席を自分の担当箇所と定めているようだった。青年は片手で頭を抱え込んだまま片手で珈琲を平らげた。

「もうやめてくれ。君くらいは平静でいてくれ」青年は柔らかく整えたあとの苦情を口から漏らした。「ワタシは平静です。激動なさっているのは先輩の方ですよ」後輩は意に介していないようだった。「まあ、ワタシのために激していただけるというなら光栄ですが。お帰りですか? またいらしてくださいますね」後輩は領収書を青年のジャケットの胸に押し込んでまたにやりとした。

 

「前略、

こないだは訪問ありがとう。わたしも一夜の夢を見ることができた。君は自覚していないだろうが、何だかんだわたしは救われたよ。楽しかった。

気付かれたことと思うが、北国は実に君向けだ。寒さは堪えるものの時間の流れが遅く、何かを急かしてくるような何事もない。もし気が向いたら、君もこちらで暮らしてみるといい。無論、そうするには片付けるべき問題が山とあるだろうがね。

わたしは君に対して、もう余計なことは言うまい。君が選ぶすべてを受け入れよう。だからこそ、君には最善の答えを見つけてほしい。

わたしなら君のキャンバスを一旦まっさらに返すこともできる。君が望むなら、という意味だが。それもひとつの答えだ。また遊びに来てくれるね。

草々」

 

「おかえりなさい、お邪魔してるわよ」

青年が自宅に戻ると、寝室は女の匂いで満ちていた。女が湯浴みをしたばかりだったようだ。青年は声もなくベッドに倒れ込んだ。

「どうなすったの、そんなにお疲れになるようなことがあって? 少しお休みになるといいわ」

女は青年の頭を抱いて、手元に雑誌を引き寄せた。薄っぺらい紙の数秒おきにめくれる音がしはじめた。

「ごめん」青年はポツリと、まるで呻き声のように、他者に聞かせる気がないかのように呟いた。「よほどお疲れのようね」女は労わるような声をした。「お食事はもう作っておきました。今日はあなた、ごろごろしていて構わなくてよ。好きに甘えなさいな」女は青年の額に口づけを落とした。青年は、混乱と困惑とで構成された沼に片足を沈めつつあった。「どうしたね、君」「さぁ?」女の妖艶な笑顔が青年に向けられた。女は何か知っているのだろうか、青年は恐怖に囚われたが、そんなはずはないのだった。女はあくまで気まぐれに青年を愛していた。

「すまない、なんだか頭が痛い」「まあ」女は微笑んで、「それなら薬があるわ、飲ませてさしあげましょう」女は青年の頭を膝に載せたまま戸棚から薬箱を取り出し、手際良く頭痛薬を取り出した。「そら、口をお開けなさいな」青年が言うとおりにすると、頭痛薬を口に咥えた女の顔が青年を捉えた。数秒ののち青年は薬を流し込まれていた。「すぐには効かないわよ、しばらく眠っているといいわ」女はそう言って己の唇を舐めまわしていた。

 

青年邸。女は帰っていった。青年はホッと溜息をつき、それから誰にも見られることのない伸びをして、誰にも聞かれることのない舌打ちをして、台所から包丁をスラリと持ち出した。冷えた金属が青年の瞳に映し出された。青年はそのまましばらく突っ立っていたが、やがて徐に包丁の切っ先を自らの首に押し当てた。冷えた金属が青年の首に細い傷を残した。しかしそれは血すら流れないような傷だった。

死なせてくれ、と青年は喚いた。赦してくれ、と青年は叫んだ。それらは、誰にも届かない絶叫で済んだ。包丁が青年の手を離れて床を傷つけた。青年の首にできた傷痕よりもずっと深い痕だった。青年は呻きながら床を転げ回った。髪を引き千切らんばかりに掻き毟った。それから哄笑し、泣いた。青年はただ、全人類の幸せを祈っただけだった。オリオン座が空高く上がっていた。地上で這いずる偽物を、嘲笑っているようだった。

 

山岳よりも高く溟渤よりも深い友情を、“愛”と呼んだのは間違いだったろうか。他者の幸せを願うあまり、自己のすべてを喜捨したのは間違いだったろうか。青年の慟哭を聞く者はどこにもなかった。青年は、他者からの愛を求めてなど、いなかったようだった。青年はもはや、愛されたいなどと、思わなくなっていたようだった。ただ、青年なりの愛を、受け取ってもらいたかったらしかった。しかし青年の落ち度は、他者にも人の心があり、他者なりの愛があるということに、気づかなかったことだった。「個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心」。嗚呼、青年にしてみれば、愛されないことよりも、愛させてもらえないことの方が怖いのだった。

 

――――――――

 

僕は小説を閉じると猫耳少女を振り返った。猫耳少女は、どこか硬い表情をしたまま僕の方を見返した。どうしたね、と僕は声をかけた。なかなか笑えただろう? 七十年前の人間に、こうした発想があったとは驚きだよな。どうせあいつら、手を出せる女には片端から手を出していたんじゃないかと思っていたが、そうでもない童貞もいたらしいな。猫耳少女を前にすっかり口のほぐれた僕は少し饒舌になった。猫耳少女は声を出さずに鳴いた。僕は少女をにこりと見据えて、君のことも愛していると告げた。猫耳少女は、フンと鼻を鳴らした。それで充分だった。

 

僕は紙束をポケットに戻した。猫耳少女は猫らしく背骨をぐいぐい伸ばして立ち上がった。僕らはそういう間柄で、僕にはそれがとても愛おしかった。また話を聞いてくれると嬉しい、僕はそんなことを未練がましく口にした。猫耳少女はニャアと鳴いて、綺麗な赤髪を風に揺らした。オリオン座が僕らの頭上に煌めいていた。

 

あい【愛】
1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」
2 (性愛の対象として)特定の人をいとしいと思う心。互いに相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する愛」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への愛」

(参考: 愛(あい)とは - コトバンク )

 

自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2019 - Adventar

Thanks for @Syarlathotep.