世界のCNPから

くろるろぐ

誕生日なのが嬉しいんじゃなくて、はしゃぐ言い訳がほしいだけ

前略、

夜明けだ! と思った。二十五歳。僕が生まれて四半世紀が経った、らしいけれど、たぶんそんなことはないと思う。僕はまだ十四歳で、数学が苦手で、文学部を目指していて、AV鑑賞のほかに際立った趣味もなくて、放課後の黒板に落書きをしていて、恋愛とは性欲を美しく言い換えたものであるだなんて、わかったような顔で嘯いている。

 

夜明けだ、と思った。いつのまにか成人していた。人に成る、という言葉の重みは五年前にも分かっていなかったし、今も分かっていない。無為な時を、重ねただけの人間を、オトナと呼ぶのはやめてほしい。あるいは、オトナという呼称に、責任も期待も押し付けないでおいてほしい。僕は、何も背負えない。背負いきれなかった人々が、足元で溺れている。僕には何の意味もない。

 

「哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。」

梶井基次郎 Kの昇天 ――或はKの溺死

 

たとえば、影に連れ去られる。こんな美しい消え方が、ほかにあるだろうか。僕は今日、たまたま「死に方」ではなくて「消え方」を考えていた。そうしているうちに思い出したのがこの「Kの昇天」、「――或いはKの溺死」。

 

誰かに宛てた手紙の形式をとる作品を、小難しめの言葉で「書簡体」という。たぶん、いう。少なくとも僕らの間では、こういうのを「書簡体」といった。

書簡体の美しいところは、真相が見えないというところにある。特に、話題となる人物が死んでしまったあとであると、その色味は濃い。手紙を書けるのは生きた人間だけだから、必然、その手紙は生きた人間が死んだ人間を思って、弔って書くのである。それは手紙を書いている人間から見た世界の話になるわけで、僕はそれが好きだった。

 

僕のことを誰か、手紙に書いて、どこかの誰かに送りつけてほしい。僕のことを誰か、準客観視点から評してほしい。僕はそれを見なくて済むのだから、好きなように書いていい。僕は何枚もの舌を使い分けて、自分が分からなくなってしまった。誰かが僕を語ってくれるなら、語られた僕は浅ましいほどしっかりと紙面に命を張るだろう。

 

夜明けだ、と思った。二十五歳になった。嬉しくて、うれしくて、日付の変わる瞬間に跳びあがってみせた。誰も見ちゃいない。僕はただ、自分のために跳んでおきたかった。君は、僕がいなくても生きていけるね。僕は、君がいなくても死んでゆける。君の真っ直ぐな生き方を僕は、ずっと好きだった。

 

夜明けだ! と思った! 新たな夜が来るまでの間、僕はこれを夜明けだと思い込んでおくことができる! 空の色が眩しいほど真っ黒くて、まるで祝杯のようだった。二十五歳。僕が生まれて四半世紀は、まだ経っていない。

 

誕生日なのが嬉しいんじゃなくて、はしゃぐ言い訳がほしいだけ、何故なら僕はまだ十四歳で、明日は一時間目から数学で、仕方なく予習をして、国語だけなら有名大学にも受かれるのにと嘘をついては悦に浸っている。

 

もちろん、これも嘘だ、僕はここのところ、一度たりとも正直に話してなんかいないのだから、誰も僕のことを信じなくていい、メンヘラが暴れ出したと笑ってほしい、君の笑顔が僕の幸せだ、草々。