世界のCNPから

くろるろぐ

村岡花子訳「赤毛のアン」では「X氏を恋い慕っている人」のことを「X氏の崇拝者」と訳していた

ここのところ可もなく不可もなく、いや正確にはやや不可寄りの、ちょっと気を引き締めていないと崖から落ちてしまいかねないところを歩いている。時々ガクンと足を踏み外しかけるたびに、自分の体が必死になって生きようとするのを感じる。情けないことである。

 

僕は宗教に耽溺するような人間ではないようだが、例えばぐらぐら揺れる足元を何かに支えておいてほしくて、例えば味気ない毎日を誰かに見守ってもらいたくて、より大きな存在をよすがにせんとする……そういうことなら、身に覚えがないとはいえない。

 

まあもちろん、自分を破滅させたり、他人に迷惑をかけたり、犯罪に走ったり、人道を忘れたり、そういう種類の「宗教」は危険性が高いと思うけれども。

今回の話はそういう話ではなくて単に、人は拠り所を求めずにいられないんだなあというような意味の話だ。

 

とはいえ、宗教における「信仰」あるいは「信心」とは、ただ頼り縋り甘える態度のことではない。形式や程度の差こそあれ、そこには信仰対象に対する“奉仕の精神”が漂っているように思う。

自らを捧げ、尽くす。自分という存在を、信仰対象に対して恥じないものへと高めていく。そういうわけだから、宗教をやっていくというのは意外と体力の要ることなのかもしれない。

 

 

なぜ急に宗教の話をしはじめたか? それは先日、自室という名の都会適応型現代風洞窟を探検および掘削した際、幼いころ祖母から与えられた「赤毛のアン」を発掘したからなのだった。

 

赤毛のアン 赤毛のアン・シリーズ 1 (新潮文庫)

赤毛のアン 赤毛のアン・シリーズ 1 (新潮文庫)

 

 

まさにこれ。

本ばかり読む僕に祖母が「私は目が悪くなってきて読むのがつらいから、もしあんたが読みたいなら読めば」と言って寄越したもので、僕は確か全巻に渡って読破した。

 

汚れた部屋の中でこの表紙を見た途端、この村岡花子訳「赤毛のアン」では「X氏を恋い慕っている人」のことを「X氏の崇拝者」と訳していた……ということを唐突に思い出し、一気に懐かしさを感じた。

 

僕はてっきり村岡花子氏が粋な訳を当てたものとばかり思っていた。しかし版権の切れた洋書を扱っているという「Project Gutenberg」( Gutenberg )なる場所に“Anne of Avonlea”(邦題「アンの青春」) ( Anne of Avonlea by L. M. Montgomery - Free Ebook )が保管されていたので確認してみると、原文の時点で「worshippers」すなわち「崇拝者」であったということがわかった。

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(こういう原書を自力で読めるようになりたいと思っていたんだったな。今からでも遅くないかな。)

 

 

さて。

そんなこんなで結局のところ愛の話である。

「恋い慕っている」という気持ちを「崇拝」と表現する美麗な感性が何となく僕の中でしっくりはまってしまい、今日はずっとそのことを考えていた。

 

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
崇拝
すうはい
worship
一般には尊敬し,あがめることをいい,宗教において思考,言葉,行為などで,神聖なるものに自己の全的依存を告白すること。

精選版 日本国語大辞典の解説
すう‐はい【崇拝】
〘名〙

① あこがれの気持で、ある人を心から敬うこと。


② 宗教的対象の前に立ち、自己の有限性、依存性、卑小性、無力性を自覚したり、あるいは自己の罪業の深さとその自力による救済不能を自覚したりすることから、宗教的対象に自己の救済一切をまかせ願求する心をもって、対象を敬いあがめること。

(参考: 崇拝(すうはい)とは - コトバンク )

 

僕の恋愛観は、いや下手をすると人間関係観さえも、この「崇拝」の精神に則っている……あるいは則ろうとしているのではないか。

僕は有限で依存的で卑小であり、無力だ。故に自らを捧げたい、尽くしたい。自分という存在を、信仰対象に対して恥じないものにしたい。

これも宗教なんじゃないだろうか。

 

世の人々からすれば異常なことだろう。自分を大切にしなよ、だとか、卑屈になって恥ずかしくないの、だとか、そういうふうに思われる方も多いだろう。

ここのところインターネッツでも、「こういう男はクソ」「こういう女とは付き合いたくない」というような情報が随分と流れてくる。普通は、そうだ。恋愛という場において……もしくは人間関係の場において、互いに互いを理解し歩み寄ることは何よりも重要であって、自分は他者を思いやり、他者は自分を思いやってくれる、その相互関係を期待するのは当然のことだ。

 

けれども僕はもはや、僕が相手を思いやり、相手が幸せそうにしている、それで充分だというような領域に達しつつある。僕に与えられるのはほんのひとしずくの慈悲で構わない、くらいのことを思えるようになってきた。

 

……とはいえ、ひとしずくであれ慈悲を欲してしまうあたり聖人君子には程遠い。

それに、そうやって奴隷根性を剥き出しにする僕のありようは、きっと恋人や友人たちを想っているが故のものではないのだ。僕は崖から落ちるのを恐れて、誰かを崇め喜ばせることによって僕自身の足元を固めようとしているだけだ。

 

その証拠に、僕は全く「歩み寄り」というやつをできていない。ただ自分勝手に「相手を思いやっている」つもりになっている。何が奉仕の精神だ。何もかもが自己満足のエゴイズムにすぎない。

 

ぐらぐら揺れる足元を、味気ない毎日を、何かに仕えることで、誰かに求められることで、どうにか堅固かつ鮮明なものにしようとしている……そしてより大きな存在に自らを捧げたがっているだけなんだと思う。

 

「献身」ごっこ。醜いことである。