世界のCNPから

くろるろぐ

僕もバレンタインの話をした方がいい?

今日はハッピーバレンタインである。

 

某兄貴がバレンタインのお話をお聞かせくださった。そして仲間になりたそうにこちらを見てらっしゃる。

僕もバレンタインの話をした方がいい?

 

はい

そうでもない ←

 

そう……では関係のない話をしよう。

 

皆様は「印堂」というツボをご存知だろうか。

印堂
眉間の部分のこと。命宮とも呼ばれる。印堂は、人相学において「決定の場所」とされ、吉凶・願望・快・不快などのことが、すべて表される大切な場所とされている。

( 参考: 印堂(いんどう)とは - コトバンク )

 

コトバンクに占い用語集の記述しかなかったが、つまり眉間のことである。

このツボはストレス解消に役立つらしい。

眉間にある「印堂」のツボは、背骨に沿っている督脈(とくみゃく)という重要な経絡につながっています。ここを中指で押すと、ストレスで緊張した気持ちがリラックスします。

(参考: 肩こり、疲れ目、ストレスなどの不調を改善!すぐ押せる「顔ツボ」10選!|元気通信|養命酒製造株式会社 )

この養命酒のページ、分かりやすい。

 

こういうのがどのくらい効くのかさっぱり分からないが、頼れるものには何にでも頼っておきたい。と思って、最近たまに押してみている。効いている……のだろうか? まあ、気持ちよく押せるので悪いものではないんだろうと思う。あとはこめかみや耳の下なんかも押すと爽やかな気分になるのでよい。

そもそもツボというのは……

 

 

もういい?

 

まあ大人しくバレンタインの話をしよう。

ご期待通り起源も引用しちゃう。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
バレンタインデー
ばれんたいんでー
St. Valentine's Day


2月14日。後顧の憂いを絶つため遠征する兵士の結婚を禁じたローマ皇帝クラウディウスに反対したバレンタイン(ウァレンティノス)司祭が処刑された270年2月14日の記念日と、この季節に木々が芽吹き小鳥が発情することとが結合した風習といわれる。初めは親子が愛の教訓と感謝を書き記したカードを交換する習慣だったが、20世紀になって、男女が愛を告白して贈り物をしたり、とくに女性が男性に愛を告白する唯一の日とされるようになった。日本では1936年(昭和11)と52年(昭和27)ころに、神戸の「モロゾフ」がチョコレートを贈る風習の移入を計画したが発展せず、一方関東で1958年、東京の洋菓子商「メリーチョコレートカムパニー」により、女性が男性にチョコレートを贈る風習が始められ、年ごとに盛んになった。[佐藤農人]

(参考: バレンタインデーとは - コトバンク )

 

まあこれだけ知っておけば充分バレンタイン蘊蓄おじさんを名乗れるだろう。

しかしこうして起源を遡ってみると、風習を作るのは企業なのだということをヒシヒシと感じる。司祭の命日が愛を告白する日になるなんて不思議なものだ。僕が死んだら僕の命日も何らかの記念日になってほしい。

 

 

さて、僕自身のバレンタインの話をしよう。

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これが某からもらったチョコである。

もちろん嘘である。

 

これは東京タワー。2/11(祝)に遊びに行ってきた。バレンタイン的やりとりはそのときに済ませた。

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せっかくのトイカメラを忘れたのがかなり手痛い。

 

しかもチョコの写真を撮り忘れるという痛恨のミスを犯したので、昼に食った麻辣モスバーガーの写真を貼っておく。

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(参考: モスバーガー/麻辣モスバーガー | モスバーガー公式サイト )

なかなか美味かった。

 

 

僕が某と出会ってから迎えたバレンタインデーはこれで恐らく9回目になる。とはいっても、揉めたり何だりしてバレンタインどころじゃなかった年もあるし、季節系イベントにほとんど興味を示さない某が完全に忘れていた年もあるし、「9回」の全てをキラキラ飾ってきたわけではない。

今年だって当日の今日は特に何もしていない。某は近所のカレーうどん屋に行っているらしい。僕は家でブログを書いている。何の変哲もない平日だった。

 

しかし、こうして某とLINEで会話できていること自体がそれなりに奇跡なんだよな、というようなことを思う。今日という日を「何の変哲もない平日」と言えることそのものが有難いことなんだよなあ、などと思った、そんなバレンタインデーだった。

 

「例えば僕の人生がチョコレートなら、“過去”は後悔という名の火焔に、“未来”は不安という名の煮湯に、それぞれ熱されて溶けてしまっているから、ギリギリ冷え固まって生チョコ程度の柔らかさを保っているこの“現在”だけが僕の居場所なのだ。ときおり降り注ぐ火花と飛沫とに耐え、自らの体温さえも恨み、そうやって“現在”を冷やそう冷やそうとする、過去からも未来からも目を背けようとする、それが僕という人間の人生チョコレートだった。」

 

どうだろう。ポエム評論家の皆様に採点してもらいたい。

 

 

まあいずれにせよチョコレートはいいものだ、久々に食ったが美味かった。

眉間の皺も緩むってもんだ。

先輩も上司もインフルエンザに罹患して休んだので、僕はひとり作業を続けていた。終業のチャイムが鳴って、それでも作業していた。まもなく20時になります、それでも帰らなかった。まもなく22時です、22時以降は深夜残業になります、そんなアナウンスを耳にしてやっと帰路に着いた。

 

なんでこんなことしたんだろう。

 

僕のいるところは良心的な会社なので、繁忙期以外はとっとと帰ることを許されている。むしろ社員に残業ばかりされると会社の予算が逼迫するので(中小企業の悲しいところだ)、できるだけ定時に上がることを推奨されている。加えて僕は新人でもあるから、普段は誰よりも早く帰らされている。

 

そんな僕が、先輩のいなくなった隙をついて長々と残業したのは一体どういうつもりだったのか。

 

ついさっきまで僕は泣きそうになっていた、残業代は出るものの何だか時間を無駄にしたような気がしたので。けれどこうして文章を書きはじめたら落ち着いた、ガラガラを与えられた赤ん坊みたいに。

 

落ち着いたついでに考えてみるのは、僕が時折やってしまうこうした衝動的な無茶のことで、いくつか答えらしきものを掴んだり離したりしつつ未だこれという解答を得ていない自問自答のことなのだが。

 

いくつか。

 

1.キリの悪さに耐えられない

もうちょっとやれば片付く、というのをそのままにして帰るのがいつもストレスになっていたので今日はそういうのをチマチマやっていた。本当は何もかも完成させて提出して僕が明日いきなり消えてもどうにかなるようにするのが好きだ。まあ、何も完成させていなくても僕がいなくなったところで回らなくなることはないんだけれども。

 

2.相変わらずキレやすいだけ

薬で抑えていなかったころの僕はキレると周りが見えなくなって暴れたり叫んだりしていた(イキリじゃないんだよ)(でも改めて文章として見てみるとすごくイキリっぽい状態だ)(DQNを殴り倒して血まみれにしたことがないのが惜しいところ)。そういう衝動が建設的(?)な方……まあ少なくとも給料になる方へ向いた結果、こうしてガンガン働いてしまうのかもしれない。怒気とよく似た衝動。周りが見えない、すなわち時計も進捗も、自分の体力の限界さえも見えない。

 

3.働くのが好き

そんなわけないだろ、と言おうとしたが思いなおした。僕は「楽しいことをして人の役に立ってその結果としてカネをもらう」という形式がわりと好きな方だ、というのは前にも話したように思う。だから僕は労働の全てを忌み嫌ってはいないのだ。と言いつつ、僕は今の自分に与えられている作業をあまり楽しんでいないので、やっぱり今日の僕は変なスイッチが入ってしまったのだと言うしかない。

まあ楽しんではいないが、賞賛と昇給を欲してはいるので、すなわち「変なスイッチ」を入れるに足るキッカケはある。しかし僕は他の同期より努力していないかもしれない、そういう慢心を見抜かれているかもしれない、だから望むほどの報酬は得られないかもしれない、……と、そこまで認識していながらそれでも「変なスイッチ」を入れられるというのは不思議なものだ、僕は期待を捨てられていないんだろう。

 

4.何もしていない瞬間が怖い

時間を無駄にすること・「やらなかった後悔」・この時間で何かできるはずなのにという空隙、僕はそういうのの扱いが時たま極端に下手になるので、それが仕事のタイミングで襲いかかってくるとこうして残業の形で出てくるし、休日のタイミングで湧き起こってくるといきなり海へ出かけてしまうんじゃないだろうか。何かに打ち込んでいる間は怖いことを思い出さなくてすむ、そうやって目を逸らしたいのではないだろうか。

ここのところ昔以上にじっとしていることができなくなった。何かに責められているようで落ち着かない。「何か」は自分自身であることもあれば家族であることもあるし、僕の妄想が作り上げた「他者」であることもある。

 

どれもこれも模範解答であるように思えるし、あっちもそっちも大外れであるような気がする。ただ感覚としてはっきりわかるのは、今の僕は「働き者の偉い人」ではないってことだ。なんかがおかしい、うまく言えないけれども、なんかがおかしい。何か重大なことを忘れているような気がする、或いは、何か強大なものから逃げているような気がする。メロスは何のために走ったのか?

 

ふう。

 

少し頭冷やそうか。

ところで僕の知り合いたちは僕が「ふう」って言うと大抵「いきなり射精をするな」と返してくる。そういうテンポの良さというのは会話において大事なものだと思う。

 

 

閑話休題

 

僕は帰らなかったんじゃなくて帰れなかったのかもしれない。帰り方が分からなかった。僕はたまに呼吸の仕方すら忘れてしまうことがあるので(「吸ったあとに吐く」という感覚が上手く取り戻せなくなってしばらく意識的に深呼吸してしまうんだけど、意識的に呼吸すればするほど自然な呼吸のやり方を思い出せなくなる、過呼吸の一種なんだろうか)、「家への帰り方」という記憶がいきなりスコンと抜けてしまうことだってありうる。記憶というよりは感覚か。

RPGで「たたかう にげる アイテム」と並んでいるのが見えているのに、「にげる」を選ぶ方法が分からない、十字キーでカーソルを移動させてからAボタンを押さなきゃいけないのにそれが感覚として蘇ってこないせいで馬鹿みたいにAボタンを連打してしまっていて、ああもうヤバイって分かってんのにどうすりゃいいんだこれ……というような感じなんだ。適当を、言っている。

 

1時間ちょい、これで2000字、こうやって言葉が纏まらずに奔流となって暴れるのも何だか嫌な感じだ。いや、いい感じなんだけどね。何も出ないよりは。文系としては。

 

僕はインフルエンザにはかからなかったけど何か違うものをもらってきたのかもしれない。リレンザみたいなやつはないんですか?

 

ちゃんと帰れたよ。

僕に勝てる奴なんか普通にたくさん居た

「俺の彼女マジ可愛くていい子なんだけど寝ながら屁ぇこくのだけは勘弁してほしいわ」

 

……みたいなのを聞くのが、好きだ。

 

 

まず僕は惚気話とか幸福自慢とかを聞くのが純粋に好きだ。他者が幸せであればあるほど嬉しい。

紳士ぶっているわけではない。ただ幸せに浸っている他者を見守るのが楽しいというだけなのだ、むしろ悪質な態度だといえるやもしれない。

 

そして、自慢話の陰から顔を覗かせる「別の他者」の姿を見るのも好きだ。

今日はこっちが本題かな。

 

僕がこの眼で捉えた他者αの姿と、他者βがその眼で捉えた他者αの姿は、似ているようで似ておらず、重なるようで重ならず、同一人物であるという以外に共通点のない二つの姿として立ち現れる。

 

さらに僕は他者βと意識を同一化させて他者αに触れるわけではなく、他者βの“言葉”を通して他者αに近づくことになるわけだから、つまり他者αの姿を他者βのフィルタ越しに覗くわけだから、当然そこに見える他者αの姿は僕の捉えうる他者αの姿と違っている。他者βの色味を纏っている。

 

画像加工みたいなものだ。

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ちなみにこれ江ノ島

 

他者βは他者αとどういう関係なのか、他者βが他者αをどう捉えているか、他者βと他者αとの親密度はいかほどなのか。そういった要素に応じて、他者βが他者αに対してかけるフィルタの色味は変化する。

そして僕自身が他者βの立場に立つことはできないので、僕は他者βの言葉を聞きながら、フィルタをかけられた他者αの姿を思い描くのだ。

 

ほー、あの子、寝ながら屁ぇこくのか。

 

きっとその子は僕の前じゃ屁どころか欠伸すらしないだろう。澄ました顔で過ごすだろう。

初めまして、いつもβがお世話になっております。いえいえこちらこそ。

確かに可愛い子だな、礼儀正しいし、身のこなしも綺麗だ。

でも、この子、寝ながら屁ぇこくんだよな。

いいな。

 

自分では見ることのできない世界を、知ることのできない範囲を、他者のかけたフィルタ越しに眺めるというのも楽しいものだ。自分自身の眼で見て自分のフィルタを自覚する作業も、もちろん楽しいんだけれども。

 

「色眼鏡」というとよくないイメージで語られやすい。けれど僕は、「なぜこの人はそういう色眼鏡をかけることになったんだろう」「どうしてそういうシコウ(思考/嗜好/志向)になったんだろう」というのを考えて、なるほどねぇってなるのも嫌いじゃない。

 

なるほどねぇってなるだけだけどね。

 

 

 

ちなみに何故いきなりこんな話をしたかというと、高校時代、僕の知り合いのひとりが恋人氏のお兄さんに僕を紹介した際、まさにこういうフィルタをかけたんだよなというのを唐突に思い出したからだ。

 

 

(知人^o^)<「クロルはヤバいっすよ、エロ漫画エロアニメに関してこいつに勝てる奴はそういないっす」

 

 

人は世界を認識するとき必ずその眼にフィルタをかける、そして世界に対し何らかの色味をつけてしまう。それは本能的なものであって、どうやっても逃れられないものだ。そも、各個人によって色付けられて初めて各個人にとっての〈世界〉が確立するのだとすれば、世界固有の「本当の色」を求めて必死になっても仕方がなさそうだと思う。それならば僕は、より多くのフィルタ越しに世界を眺めてみたい、より多くの価値観を知りたい、そして自分自身の眼を覆うフィルタに自覚的でありたい。

 

 

ちなみに僕に勝てる奴なんか普通にたくさん居たからね。

書きかけの記事をそのままにして寝落ちてしまう

昨日の話だ。

 

いつものように仕事を終えて、いつもの電車で家路に着いた、その道中でのことである。

何の気なしに掴まった吊り革の正面にあたる席で、二人の人間が眠りこけていた。ちらと目にしただけであるから詳しいところはわからないけれども、年のころ二十歳そこそこの男女と思われた。互いに互いの頭を枕だか柱だかに見立てて寄っ掛かりあっているものだから顔もわからなかった。固く握られた双方の手指には揃いの指輪が嵌められていた。

 

あまりじろじろ見るのも悪いので(もはや手遅れのような気もしたが)そこまでで目を逸らして、ふと考えた。この今の自分の立場から、眼前の二人を恋人同士だと断定することはできるか? そして自答した、むろん否だと。

 

「頭をくっつけあっていた」「手を繋いでいた」「揃いの指輪をしていた」というのはそれぞれ、ただの事実に過ぎない。「肌を触れあわせているということはよほど仲がいいということだ、指輪までしている、しかも“男女”だ、カップルに違いない」という理屈は、考え直してみると、目の前の事実を自分の経験や知識に照らし合わせて練り上げた推測だ。

よって第三者の立場から彼らの関係を断言することなどできないだろう、そんなまとめを得て、電車を降りた。

 

「常識とは十八歳までに身につけた偏見の集積だ」、なんと見事な言葉だろうか、一生ついていくよアルベルト。とはいえこの各個人が身につけてきた「常識」ないし「偏見」というのはつまり物事を考えるときのベースにもなりうるものなので、決して悪いものでもないと思う。言い換えれば、経験と知識とに裏打ちされた想像力の軸のようなものだ。

「あの子は疲れているだろうから今日はそっとしておいてやろう」とか「こんなことを言われたら傷つくだろうから言わないようにしよう」とか、そういう(いわゆる)“思いやり”も自分の経験や知識を基にした想像・推測でしかないわけで、一種の偏見であるといえよう。しかしそういう想像力・推測力を持たずして他者と穏便に接することはできないわけだ。

 

まあだから、「常識」やら「偏見」やらは上手く飼いならすべきものなのだと思う。「こうかもしれない」というのを考えると同時に「でもそうじゃないかもしれない」というのも想像し推測することで、他者と多角的に向き合えるようになるんだろうと思う。

 

ま、向き合わなくてもいいんだけどサ。

 

 

僕だって、書きかけの記事をそのままにして寝落ちてしまう程度の向き合い方しかしていない。できていない。あーあ。

まあ、僕は他者と向き合いたいというより、他者を知りたいだけなんだよな。

 

以上。

テーレッテレー!

何もうまくいかなかった日は好きなものを食べるに限る、そんな言説はよく聞くけれども。

 

ねるねるねるねを買ってきた。

 

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ウマイ! \テーレッテレー!/

 

なんだか妙に楽しかった。

 

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ここのところ感受性が高まってしんどい思いをしている。■■と■■と■■と■■とが混ざったような黒っぽい気分だ。

言いたい、ことが、たくさんある、けど、言えない、言わない、そういうタイプのフラストレーションが健康に悪影響を与えているような気がする。

 

今も2000字近く書いた記事を一旦下書きに仕舞ったところだ。なんだか、言葉が「発信してもよい形」に収束していかない。何も考えなくていいのなら言葉自体は出てくるように思うのだが、選別して濾過して純化して……というようなことを考えているうちに何ひとつ言えなくなっている自分を見出す。

 

そんな時こそ ねるねるねるね なんですよ。

 

袋を切って、粉と水とを混ぜて、完成した物体に砕いた飴をまぶして食べる……ちょっとした作業でありながら、なんとなく達成感を味わえる。しかも、

 

ウマイ! \テーレッテレー!/

 

さすが魔女の食べ物。

急に童心にかえろうとする自分を客観視するとそこはかとなく薄暗い気持ちになってこないこともないが、主観の僕は小学生になりきって遊んだから別にいい。

うまくやるしかないんだよな。

 

寝る寝る寝るね。