世界のCNPから

くろるろぐ

九年前のあの夏の日

「水鉄砲で遊ばない?」

 

夏場は家から出ない、と宣言していたあの子がそんなことを言いだしたのは、今から九年前の八月のことだった。ちょうど今と同じように、ミンミンゼミが求愛活動に励んでおり、目にしみるほどの青空が千切れた白雲を抱いており、湿度を重く含んだ空気がじわじわと肌を焼いており、夏、だった。ただし僕らは互いに高校の制服を着ていて、それだけが今と違う点だろう。

 

僕はあの子の口からそんな言葉が出ると思っていなかったから、かなり仰天したのを覚えている。僕は僕らの間にそういう健康的で活動的な〈夏〉などありえまいと思っていた。遊園地は面倒臭い、花火は合法的にできる場所がない、夏祭りは暑い、海は遠い、……何だかんだと言って冷房の効いた場所から動きたがらないあの子に、半ば呆れつつも惚れ込んでいた僕は、いつのまにかインドアな人生に慣れはじめてすらいた。そんな矢先に「水鉄砲」である、当然ながら僕は二つ返事で了承した。

 

さて後日、僕らは高校から程近い大きな公園を戦場と定め、制服姿のまま数メートル離れて互いに黙礼し、それぞれの得物を相手へ向かって構えた。

 

……僕が引き抜いたのは、当時の僕が涼むのに活用していた霧吹きと、子ども向けのオモチャ屋さんで購入できるようなハンドガンサイズの水鉄砲。

……あの子が鞄から取り出したのは、タンク容量二〇〇〇ccのエアー圧縮式ウォーターガン。

 

え?

 

僕が呆気に取られているなか、あの子は悠々と空気を圧縮して銃口を僕へと向け、開戦直後の間合いから一歩も動くことなく僕の肩を射抜いた。僕の手から霧吹きが転がり落ち、情けなく乾いた音を立てた。

 

僕が我を取り戻したとき、あの子は片頬だけをニタリとあげながら既に二発目を用意していた。来る、と察した僕はハンドガン片手に決死の覚悟で間合いを詰めた、……だが飛距離十メートルを超えるエアー圧縮式に古びた引金式が敵うはずもなかった。

僕の発射する水がやっとあの子に届くようになったころ、僕の制服は既に池にでも落ちたのではないかというほどビショビショのドロドロで、ワイシャツの下に着ていた(三枚千円の)アンダーシャツまで浸水していた。

 

「卑怯者……!」

「“勝てる得物”で来ない方が悪い」

 

あの子の足元へ泥まみれとなって伏した僕の脳天に、あの子はゼロ距離で温い水を撃ち込んだ。

 

――決着。

 

 

その後、僕らは公園の木陰でアイスでも舐めながらビシャビシャの制服を乾かしたんだったと思う。僕が最期の力を振り絞って放った一撃でわずかに濡れたワイシャツを纏い、キラキラ変形しつづける木漏れ日に照らされていたあの子は、僕が今までに見たどんなあの子よりも綺麗で、淫靡ですらあり、……僕は苦しくなって目を逸らした。

夏の日差しは悔しいほど力強く、僕らの体を瞬く間に乾かした。そればかりか、お節介にも僕のアタマまで沸騰させようとしたのかもしれなかった。

 

 

…………。

 

あれから九年の月日が流れ、八度の夏が訪れた。

僕の過ごしてきた夏のすべてが上述したような思い出を孕んでいるのかと問われれば、答えはノーである。むしろ僕にとって夏は、暗澹と陰鬱の季節だ。

……僕の癇癪があの子を傷つけたのも夏だった、僕の依存があの子を苦しめたのも夏だった、……「しばらく会いたくない」と言われ、距離を置くこととなった悪夢のような日々の、始まりの季節も夏だった。

 

だから僕は本当のところ夏を忌み嫌っている、はずなのだが。

 

……僕には二種類の「過去の思い出し方」がある。ひとつは自分の失敗や後悔を思い出し、悲しませてしまった他者を思い出し、自分の存在価値が自分で信じるほど高くないということを再認識する「思い出し方」である。日頃の「思い出し」は圧倒的にこちらが多く、日常生活の中でフラッシュバックするのも、僕が酒に溺れている夜のお供となるのも、こういう「思い出し」である。

 

もうひとつは、過去の自分を完全に棚に上げ、うまくやれた場面の自分だけを抽出して、「僕は幸せだった」と思い込む自慰的な「思い出し方」だ。そういう思い出はそもそも数が少なく、掌編にも満たないごく小さな物語であり、しかも僕という僕に都合のよい語り手の言葉を通すことで嘘や欺瞞や記憶違いを多分に含んでしまっている、もはやそんな出来事など現実にはなかったのではないかとさえ思えるような「過去」である。

僕はそういう「過去」を時々、意識的に記憶の海から拾い上げる。そうして光に透かしてみたり手の中で転がしてみたりして、いわばズルをする、自分に都合のいい嘘をつく。「僕は他者を傷つけてばかりだが、かつて他者を楽しませたこともあるんだ」。

 

そうでもしないと自殺に至らない自分に論理的な説明がつかないから……要するに、そうでもしないと自分の心を保てないからである。

 

「だから僕は〈夏〉が好きだ。〈夏〉は海も花火もあるし、星も綺麗だし、実に“エモーショナル”な季節だからね。ああ、〈夏〉は好きだ。」

 

僕はそういうところ、致命的に嘘つきだ。

 

「九年前のあの夏の日」は、僕の脳内でどんどん輝きを増している。その光を再演しようとして、僕は夏になると海へ行くし花火をするし星を見るし、水鉄砲を買うのである。

観てきた演劇の雑感

さっき観てきた演劇の雑感だけまとめたいのでまとめる。

 


観てきたのは劇団「公式愛人」さんの「ミス・キャスト」。

 

( “ 次回公演 - ko-shikiaijin ページ! ” - 次回公演 - ko-shikiaijin ページ! )

 


【あらすじ引用】

台風の真っ只中にある、24時間営業のファミリーレストラン

 

深夜0時をまわった頃、不人気なブライダルプラン会社の写真(原文ママ・おそらく「社員」)である主人公・キミコと

その上司・マナベは頭を悩ませていた。

「あと一組、あと一組…」

二人が勤める弱小会社は、チャペルや式場を持たず事前に他社の式場を抑え、

そこに客をあてがうシステムで成り立っている。

今月のノルマはあと一組だが、逆にあと一組しか式をあげることも出来ない。

しかし、その一組がなかなか見つからないのだ。

 

「結婚してください」

そこへ聞こえてきた、公開プロポーズの声。

それも、同時に、三組。

 

早速営業をかけるキミコ達だが、三組のカップルにはそれぞれ、事情があるのだった。

 

 

一体だれが祝われるべきなのか。

祝われるべきでないのはだれなのか。

 

公に式の出来ない愛すべき人たちに送る、公式愛人からのラヴ・メッセージ。

 

今回の作品についてのチャチャッとした雑感だけ先にまとめておきます、忘れそうなので。推敲ゼロの超雑感なので適当に聞き流してくだち。

ややネタバレありです(千秋楽は迎えたけれど一応の忠告)。

 

【演出について】

さっきその場にいた某氏にも言ったとおり、「目を向けるべきポイントが複数箇所ある」というか「抱くべき感情が複数種類ある」というのはバランス感覚が必要だなと。


浜辺のカップルが中心のシーンの端っこでグラビアアイドルがポージングしていたら当然そっちを見てしまうし、シリアスシーンの最中に絶叫しながら走り去るギャグキャラがいたらそっちを目で追ってしまう。

中央にいる二人に泣かされている最中に、画面端でギャグシーンが繰り広げられていて、泣くべきか笑うべきか!? みたいなことになったりとか。


何度も出てきた以上それは狙って作られた演出というか現象なんだと思うから、そういう点では劇団あるいは脚本家もしくは演出家の持ち味なんだろうなと思った。


前に観た別の劇団では「シリアス」と「ギャグ」とをスイッチで切り替えるようにパキッパキッと出してきていたから、泣いたあと笑う、笑ったあと泣く、っていう切り替えが分かりやすかった。

一方、画面上を同時に複数の「感情」が駆け回る場合、どれを選びとってその瞬間を味わうかというのが鑑賞者側に委ねられるんだな。漫然と観ているとごちゃついた空気に呑まれてしまって、最も目立つ「笑い」に引きつけられてしまうけれど、実はその裏に「悲しみ」が隠されている、という感じ。


これ実はバランスが決まるとなかなか強力で、散々ギャグに使われてきた「リンダリンダ」が重要シーンのセリフに使われることで ぐっ……と息詰まらされる、そういうのが見事だなと思ったりなどした。

 

【脚本について】

ひゃー怖いなあと思ったのが、主人公に「正義」というか「正道」、「一般」? 「普通」? を叫ばせることで、逆にそこから「外れた」人たちの耐えがたさを浮き彫りにするという背理。

「僕にはあなたの意見がわからない」「逃げちゃいけない。現実を見なきゃダメなんだ」と叫ぶ主人公の「正論」が、カップルたちの心に針を刺し、その痛みがこちらにも刺さる。

 

「……あなたは“ただしい”ひとなんですね」

 

主人公に「正論」を言わせるだけの物語であったなら、カップル側からこんな台詞は出てこようはずもない。

 

 

この作品には3組+1組のカップルが登場し、それぞれが「普通」の目から見ると「外れた」カップルかだ。

 

1組目は「自分の恋人には他にも恋人がいて、私は3番目。それでも幸せだからいい」、そんな女教師と、その彼氏とのカップル。

 

……この女教師の決意は“逃げ”にあたるのだろうか? 3番目にすぎないという事実を受け入れた上で、それを幸せとして認識しようとする、それもひとつの闘い方ではないのか?

 

……3人の女を抱えてフラフラ生きていく、「俺はそういう奴なんだ」と苦笑する男……これは“逃げ”だったろうか? 男が語る女教師への愛情は紛れもなく真実であり、一方ほかの女へ語る愛もまた嘘ではない、……「普通」なら引っ叩かれて嗤われてクズ野郎として扱われるであろうその態度を、「俺はそういう奴だ」と貫くことにした、それは彼の、彼なりの在り方ではないのか?

 

しかしそれでも、主人公は女教師に対し、「そんなの悲しくないんですか。あなたは本当にそれでいいんですか」と迫る。また男にも、「恥ずかしくないんですか、ほかの女性と別れるべきでしょうが」と食ってかかる。

 

結局、女教師は主人公の言葉に揺れ、男に「自分かほかの女か選べ」と迫ってしまう、そして男は去ってしまう。女教師は笑いながら言う、「ほら、こうなっちゃうじゃないですか」。

 

これが「主人公の「正論」を受けた各カップルが「一般」の感覚を取り戻して「普通」になる物語」であったなら、女教師は男と離れて「普通」に自分だけを愛してくれる人を探せばよく、それがハッピーエンドだと見ていい。しかし女教師は去っていく男を追って駆け出していき、その行方も恋の末路も描かれない。

 

 

2組目は、相手を愛するあまり相手の愛を無限に欲して怒り狂ってしまう少女と、相手を愛するがゆえに相手の怒りをどうしていいかわからない美容師のカップル。

 

この二人は主人公ではなく、その上司が担当した。二人は順当に恋仲となったが、いつしか少女の愛の重さが美容師を悩ませてしまっていた。美容師は「結婚はできない」と突き放し、少女も立ち去ろうとする。

 

そこで主人公の上司は「いま逃げたら後悔します」「いちばん大きいのは、聞かなかった後悔と、言えなかった後悔ですから」といって二人を引き留める。美容師は少女に再び告白し、二人は結婚よりももっと前の時点からやり直すこととしたのだった……。

 

……この二人にとって、「互いを尊重して距離を置く」ことが“逃げ”だったのだろうか、「現状を維持する」ことが“逃げ”になるのだろうか。このカップルに関して言えば、“逃げ”の定義は曖昧だ。

 

 

3組目は、先輩に強姦を受けた女と、それを「上書き」するよう頼まれて望みを叶えた男とのカップル。二人は愛し合っており、結婚に対して最も前向きだった。

 

しかし主人公は、「現実から目を背けて「上書き」しようとしたって現実は変わらない」と突きつける。ここで例のセリフが出てくるわけだ……

「あなたは“ただしい”ひとなんですね」

彼らはそれだけ言って、主人公の前から立ち去る。

 

一体だれが祝われるべきなのか。

祝われるべきでないのはだれなのか。

 

この問いは、誰が誰に対して向けたものなのか。

答えは誰が返すのか?

 

 

主人公は何度も「逃げてはいけない、現実を見なきゃいけない」と繰り返す。

けれど、僕が思ったのは「“逃げる”ってなんだ?」「“現実”ってどれだ?」ということだった。

 

 

最後のカップルは、主人公と、主人公の上司。主人公は上司に想いを寄せていた、一方、上司は既婚者だった。しかし上司は結婚生活に苦しんでおり、主人公の告白を受け入れ、不倫関係を結んだ。

 

「あなたは旦那さんと結婚していなければ僕を好きにはならなかったはずです」「僕はあなたの天国に付き合うことはできません。ここはすでに地獄なんですから」。主人公は冷酷な言葉で、愛しているはずの上司を旦那の元へ……「現実」へと帰らせる。しかし最後に一度だけ、上司に結婚指輪を外させて抱きしめた……。

 

 

……例えばこの場面、「主人公が旦那から上司を奪う」というのもひとつの選択肢としてあったかもしれない、「上司が苦しい結婚生活から逃れるため離婚する」というのもアリだったかもしれない、……それらの選択肢は無に帰して、「現実を見るべきだ」と叩きつける、それが“逃げない”態度なのだろうか?

 

……何をもって“現実”とするのか、「祝われるべきでない」とされる状況とはどれなのか?

 

 

この脚本の凄さは、主人公視点での……主人公の価値観上の「普通」だとか「逃げ」だとか「現実」だとかを、主人公に「言わせる」ことによって、逆説的に「異常」だとか「夢想」だとかの中に生きる人々の――それは主人公自身さえも含んでしまうわけだが、そんな彼らの――苦悩を描き出しているところにある、……なんて僕は思った。

 

その超絶技巧を支える要素のひとつとして、登場人物の心情をモノローグするシーンがない、というのがあった。

 

現実において、他者の心情それ自体は決して読み取れない、人間は他者の心情を言動から汲み取らなければならない。

この作品では同様に、主人公を含めた全人物の心情を言動から汲み取るしかない。

 

完全無欠なる「正義」の主人公であったなら、最後に結婚指輪を外させることはないだろう、そもそも既婚者に懸想することすらないだろう。主人公自身も揺れていたのだ、「正道」や「普通」と、「邪道」や「異常」との間で。そして主人公は主人公なりに選択し、ほかのカップルにも主人公なりの言葉を投げかけたのだ。

しかしその「主人公なりの言葉」は、それぞれのカップルの懊悩をむしろ露出させ、全ての「恋愛」の在り方をチクチクと刺した。

 

カップルたちの末路は様々だった。主人公の言葉は、きっと彼らの運命に影響を与えたことだろう……が、結局どんな結論が「正解」であるか、ということを示す物語ではなかった。幸せの在り方について、誰しもが悩んだまま去っていった。

 

「正論」振りかざし系の作品とは一線を画す、そういう物語だと僕は思った。

 

 

 

 

 

雑感とは?

長くなりすぎなのでは?

 

疲れた……。

 

実は僕は借金をしてまで脚本を(しかも今回のチームの初稿と最終稿・見ていないチームの初稿と最終稿、で4冊も)購入してきたので、読んだらまた感想が変わるかもしれない(あとで金は返します)。

 

演劇は、舞台上で観るのと台本として読むのとで印象が全く変わる。観劇時の雰囲気だとか、体調だとか、曖昧になっていく記憶だとかによって、だいぶ別物になってしまいうる。なので、この感想文は観劇当時の感覚を詰めたものとして取っておく。台本を読んだら思い出せなくなるかもしれないから。

 

とりあえず、やはり演劇はいいな。グラビアアイドルも綺麗だったしね。

観劇すると創作意欲の芽みたいなものが顔を出しがちなんだが、焦るばかりの僕である。

 

 

きらきら

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缶入りの日本酒を飲みながら歩いた、曇天の夜だった。一人ということを考えた、死ということを考えた。偶然にも帰路にはお誂え向きの踏切なんかがあった、しかも僕は直前に楽しげな人々の群れを見ていた。きらきら。星のない夜に、街灯だのヘッドライトだのが星の代わりを果たしていた。酔った眼が光を拡散して、人工の星は天然の星よりも強く光った。きらきら、きらきら。

踏切特有の、誘うような音が聞こえた。朱い光が催眠術師のコインめいて左右に揺れた。あなたはだんだん眠くなる、そしてみっつ数えるとあなたは線路に飛び込む、……、などと。

水分を含んだ風が吹いた、背後から聞こえてくる足音が怖くて、怖くて、眼前を駆けてゆく電車の硬さが恐くて、恐くて、催眠術師の舌打ちを聞き流した、朱い光は消えた、静寂が訪れた、踏切の棒が高く高く、旗か何かのように誇らしげに上がっていくのを見た。手の中の缶が日本酒の音を立てた、曇天の夜だった。

ここんところツイッターを賑わせている某着物屋のキャッチコピー/インターネットをやる

「着物を着ると、扉がすべて自動ドアになる」

「ハーフの子を産みたい方に」

「ナンパしてくる人は減る。ナンパしてくる人の年収は上がる」

 

僕はよく、流行の話題についてひとりでモソモソ考え事をする、が、それを敢えて記事にしたことはそんなになかったような気がする。けれども今日の僕は眠いので、手近なところにあるネタを適当に拝借する。

 

さて、冒頭の文言はここんところツイッターを賑わせている某着物屋のキャッチコピーである。

 

確かにもともと着物を好いている人々からすれば、まるで自分たちが「高収入外国人狙い」呼ばわりされたような気にもなろう。

 

「着物を着ると高収入外国人に見初められる」という言葉は、少し紐解けば「高収入外国人に見初められたかったら着物を着ればいい」、「つまり着物を着ている人は高収入外国人に見初められたいんだ」と繋がりうる。

 

こういう「自分の価値観を他人に勝手に推測されて押し付けられる」系はヒトの不快指数を高めやすく、よって炎上しやすいように感じる。そのうえ、最近はいわゆる性役割について鋭敏な時代でもあるのに、そこに頭から突っ込んでしまっているのが甚だ不穏だ。

「着物を着ることによるメリット」を伝えようとしたのだろうが、「既に着物を着ている人たちはそのメリットを目的として着ている」という誤解を生みかねないという点には考えが至らなかったのかもしれない。

 

というように、僕はこのキャッチコピーを初めて目にした際、世の人々の憤怒に思いを馳せながらウンウン頷くところから始めた。

 

とはいえここで終わらないのが僕だ(暇なので)。

 

僕は念のため本件について軽く検索してみた。件の着物屋は本件を受けてホームページに一言二言ほどコメントを書き残していた。

 

これが実にうまい文章だった。

弊社のポスターについて、様々なご意見を頂いております。これまで着物にあまり関心を持たなかった方にも目を向けて頂きたいという意図で制作したものでしたが、今回頂いたご意見を真摯に受け止め、今後の広報活動の参考にさせていただきます。なお、本ページの一部についても掲載を中止いたしましたことをお知らせいたします。

 

簡潔で的確、しかし真摯にして慇懃、それでいて一切の謝罪をしていない。見事、と思った。嫌味や皮肉でなく、これは名文だと思った。

 

「これまで着物にあまり関心を持たなかった方にも目を向けて頂きたい」。この一文から僕が読み取ったのは以下のような“含み”だ。

 

まず、この文章を信じるなら、件のキャッチコピーは「着物に関心を持っている人」を対象としているつもりで作られたものではなかったのだということがわかる。着物屋は、着物愛好家の方々を「着物を着たら高収入の外国人にナンパされてハーフの子を身ごもって国際結婚できちゃうかもっ♡」的価値観の方々だなんてハナから思っちゃいなかったのではないか。

 

むしろ逆で、着物屋は「これまで着物にあまり関心を持たなかった方」たちをこそ、そういう「高収入外国人狙い」として捉えていたということになる。

 

「普段から和服を着ず露出の多い洋服ばかり着て、街ゆく高収入外国人たちにドアを開けてもらうのを待っている層に着物を着てもらうにはどうしたらいいだろう……?」

 

「それはもちろん、「着物を着れば君たちの願いは叶う」というアピールをすればいいんだよ!」

 

という発想でなければ、あのキャッチコピーとこのコメントは出てこないはずだ。

ゆえにこの一件で憤るべきは着物愛好家のほうではなく、むしろ「これまで着物にあまり関心を持たなかった方」のほうになるのだ。

だからこそ、着物屋のコメントは謝罪を含んでいない。彼らは着物屋として本心を……「着物愛好家を称え、着物を着ない人間の興味を引く、よくできたキャッチコピーのはずだったのに」という思いを……述べているにすぎないのである。

 

 

とかなんとか言われたかったんじゃないかな、着物屋さん。

などと自筆自賛。

 

 

個人の言動が「他者からどう見えるか」を作っていくのと同様、企業のキャッチコピーはその企業が「人々からどう見えるか」を作っていくものだといえよう。

 

「まごころ込めて握った寿司です」と言えばまごころの込もった寿司を食いたい人が集まる、「水素水で育てた魚をオーガニック有機栽培米とともに握った寿司です」と言えばオーガニック寿司を食いたい人が集まる、「チンポを握った手で握った寿司です」と言えばチンポ寿司を食いたい人が集まる、そういうことで、キャッチコピーとは「この言葉に惹かれる人はおいで」という集客用の言葉だ。

 

であれば、集客用の言葉は「集めたい客層の心に響きそうな言葉はこんな感じだろう」という憶測に合わせて作られるということになる。

今回、着物屋は「これまで着物にあまり関心を持たなかった方」を集めようとし、着物屋なりに思い描いた「これまで着物にあまり関心を持たなかった方」(虚像)が喜びそうな「外国人」「ハーフ」などの要素を組み合わせたキャッチコピーを考案した。「これまで着物にあまり関心を持たなかった方」が虚像なので、“それらが喜びそうな要素”というのも虚像であり、結果どこの需要にも合致しないキャッチコピーとなってしまった……そんな悲劇なのかもしれない。

 

しかしかかしおかし、僕がこの件をぐるぐる考えている中でふと思ったのは、「もともと高収入外国人狙いで着物を着ている人というのがいても別にいいんじゃないか」ということだった。

「着物を着ると「扉がすべて自動ドアになる」・外国人に見初められて「ハーフの子を産」める・「ナンパしてくる人の年収」が高まる、だから着物を着たい」。そういう価値観もあっていいと僕は考えている。着物を使って高収入外国人を狙っちゃいけないという決まりはないし、そういうつもりで着る人を否定することもできないし、着物という服にどんな意味づけをするのかは着る本人の自由なのだから。

 

一方、「そういう価値観は気に入らない」という価値観も、もちろんあっていい、あるべきだ。「着物は自分のために着るものだ」「洋服より楽だから着ているだけだ」「性愛対象に媚びるために着ているつもりはない」「結婚相手は同郷の人がいい」などなど、どんな価値観で着物を着てもいいだろう。

 

「着物を着ている奴はみんな「高収入外国人狙い」である」と宣言されたわけではない。「こういう言葉に惹かれる方がおいででしたらうちの店にお越しやす」、と一企業に宣言されただけだ。あらゆる着物愛好家は自分の価値観に応じて着物を着ればいいし、着物を嫌う人は自分の価値観に応じて着物から離れればいい。そう思った。

 

……といったものの、キャッチコピーに憤る人々に対しても、僕はまぁそうだよなと思った。確かにこのキャッチコピーは一企業の一表明に過ぎない。けれど、企業が「着物を着て高収入外国人を捕まえよう」というような偏りのある言葉を広告文言として世に広めるということは、「あの人も高収入外国人を捕まえるために着物を着ているのかも」という偏りのある観点を世に広めるということになってしまいかねない。

 

個人の価値観と企業のキャッチコピーとの差はここにある、つまり企業は「ひとつの観点を大衆に広める」ことによって個人個人の矜持を踏みにじったり個人個人の信念を傷つけたりしかねないのだ。

 

そういう点で、大衆を相手にコンテンツを広める存在であるところの企業というものは、大衆の構成員たちを尊重できているかどうか慎重に慎重にやらねばならないといえるように思う。

 

 

しかし思うに、世の企業はみなインターネットをやるべきなんじゃないか。

真剣にやらなくていい、ただせめて主要なSNSくらい覗いておかないと危険なんじゃないか。

 

というのも、性別に関する攻めたキャッチコピーがいま世の中でどんな扱いを受けているか……大衆は何を好み何を嫌うか……世の人々の平均的な読解力で意図を汲んでもらうにはどういった文章が必要なのか……そういう基本的なところを外したキャッチコピーやポスターや記事というのがときどき現れては炎上するからだ。

 

僕はむしろそういう企業に同情すらしてしまう。社畜ポスターだとかマナー講座だとか、もうどう考えても炎上する以外にありえないコンテンツを見るたび、この人たちはマジで「情報」を得ていないのか? と不安になる。

 

もちろんわざと炎上を狙うやり方もあるわけだけれど、世間の信用を得たいタイプの企業において炎上商法は諸刃の剣というかほぼ自分側に刃のついた日本刀のようなもので、よほど大当たりを引かなければ死ぬだけだ。そして最近炎上しているコンテンツは、どうも大当たりの引き方を知らなさそうな様子だ。

 

大衆の「情報」をいかに入手し利用するか、という点において、インターネットを忌避していてはもう戦えないんじゃないかと思う。頑張れ、コンテンツ作成者。僕も頑張るよ。まずはコンテンツ作成者にならなきゃいけないけどな。

 

 

 

そう、最後になるがこれは付け加えておきたい。

知っている方もいると思うが、このキャッチコピー案件は2016年、つまり3年前の話である。

銀座いせよし| Ginza ISEYOSHI:千谷美恵

さっきコメントを引用したときにURLを貼らなかったのはこのオチをつけたかったからだ。

 

なぜ3年も経った今になって炎上したのか? 考えうるパターンはいくつもあるが……それだけ人々が性役割について敏感に反応できる時代になったから……件の着物屋やコピーライターに恨みがあったから……性役割の押し付けを許さない風潮に乗じうるネタとして温めていたから……等々……いずれにしても、どんなネタであれ「いつの話なんや」とか「誰が広めたんや」とかは気にしておきたいなと改めて思った。

 

時事ネタも突き詰めて考えるといい暇つぶしになるよね。ねっ、ハム太郎♡ へけっ!

ヴァイオリンを弾いてきた

なぜ?

 

ヴァイオリンを弾いてきた。

 

大学時代の知り合いが「社会人になってから出会いの場がなさすぎてつらいから友達作り的な意味で何か始めたい」と言い出したのが1ヶ月前。

そのあと紆余曲折あって「なんかもう友達は要らんから楽器でもやって気を晴らしたい」と言い出し、「クラリネットとかマンドリンとか色々やってきたけどヴァイオリンはまだだからやってみたい」などというところに落ち着いたのだった。

 

なぜ?

 

 

まあ僕はこの手の「新しいことを始める」みたいなのが割と好きな方だから、その辺は構わなかった。けれども、僕の場合は基本的にひとりで始めたいタイプだ。

なぜなら僕はプライドの高い人間なので、知り合いの前で初心者特有のミスを犯して恥をかくのが嫌だからである……

 

……というのは2割くらいで、本当は「初心者なのでうまくできない」+「周囲に気を遣わなきゃいけない」というふたつの意識が僕の中で暴れた結果、「誰にも迷惑をかけたくないのに迷惑をかけざるをえなくてつらい」となってしまうからである。

 

てなわけで、その知り合いがあくまでも「初心者教室の無料体験コース(1回のみ)に行きたいけどひとりで行くのはつらいからついてきて」と言い張るのには驚いた。

まずヴァイオリンどうこうの前に、楽器を演奏するにあたって僕には重大な問題点があった。

 

 

僕が 楽譜 なんか 読めない こと 知ってるだろ〜w

 

 

大学時代、確かに僕は楽器系サークルへ入っていたことがある。なんか弾けたらカッコいいかなと思っていたのだ。しかしそのサークルもまさに「楽譜を読めない」ということを理由として即座に辞めている。そもそもその知り合いと出会ったのもその楽器系サークルであるのだから、僕が音楽に関してクソザコであることくらい知り抜いているはずではないか。

……という話を5億回くらいしたのだが、無念、知り合いは楽器に明るいタイプの人間なので「カタカナでドレミを振っておけばいいんだよ!」と笑い飛ばすばかりだった。

まあ僕も仕事がつらくて死にたくなってきているし、気晴らしってのは悪くない、おとなしくついていこう……そう観念して申し込みをしてやり、ついていったのが本日、という運びである。

 

結論。

 

 

ヴァイオリン、クソ楽しくね!?!?

 

まあ先に言ったように僕は楽譜なんか読めないので、楽譜どおりに弾いていきましょうと言われたときは普通に死んでしまった。

さらに言うと音感もリズム感もないので、先生の履いてらっしゃるピアノの音と自分の出している音とが違うということも分からなかったし、メトロノームのリズムに従って弾かなきゃいけないというのも分からなかった。ちんぽこ。

 

 

そんなこんなでマスオさんもビックリのゲロ音割れ不協和音を出しつづける機械と化した僕だったが、しかし、しかし、それでも言いたい……クソ楽しかったと。

 

とにかく「弓を弦に当てて擦ると音がする」ということ自体が面白かった。新しいゲームを始めて、Aボタンを押すとビームが出るということ自体に感動するような感じだ(普通の人はそんなことで感動しないのかもしれないが……)。

 

知り合いは楽器に長けているのでもっと楽しそうだったし、はっきり言って僕の音がクソ邪魔だっただろうなとも思ったが、僕は誘われた側なのだし許してもらいたい。

生徒は僕と知り合いとの2人しかおらず、あとは52歳の優しい先生がいるだけだったため微妙に気まずくはあったものの、1時間弱の稽古をなかなか楽しく過ごした。

 

僕はこれなら本格的に習いはじめてもいいなと思った……もし今が繁忙期でなかったなら。

もし、今が繁忙期でなかったなら!!!!!!!!

 

これから12月にかけて僕は22時帰宅を余儀なくされる社畜と化すだろう、昨年の今頃を思うとそれは避けられない。……ヴァイオリンを弾くので18時に上がらせてください、というのがどこまで通用するか。

たぶん上司も表向きは「趣味は大事だから調整してあげるよ」と言ってくれるだろう、それは予測できる、が、「本当は迷惑なので避けてほしい」というのを匂わされながらそれを押し切るだけの勇気と権力とが僕にあるだろうか……

 

てなわけでひとまずその場で申し込みすることは避けて、繁忙期を明けてから考え直すことにした。どうなることやら。でもちょっと予想より楽しかったのは事実で、……たまには新しいことをやってみないといかんなぁと思った日であった。

完。