世界のCNPから

くろるろぐ

僕もAVの話をしようと思います

じゃあ僕もAVの話をしようと思います。

 

人妻ナンパ中出しイカセ 27 白金台編 - アダルトビデオ動画 - FANZA動画(旧DMM.R18)

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(「買っちった」の画像)

 

何しろ3時間半から4時間ばかりの作品なので、とりあえず1人目の奥様だけ観てきました。「今回のお薦めは2人目」って書いてあるのを見落としました。

 

奥様は買い物の途中で「街頭インタビュー」に捕まり、断りきれずロケ車へと連れ込まれます。そしてごく一般的な「ショッピングに関するアンケート」に回答していきます。

結婚して4年、子どももおり、ヨガに通ったり絵画を嗜んだりと充実した生活を送っている奥様。しかしそんな奥様に対しインタビュアーはだんだんと性欲の牙を向けはじめます。流れるように服を脱がされ、下着を披露させられ……セックスレスに悩まされていた奥様は体の火照りを抑えきれないまま、やがて自分から……

 

といった流れでした。

 

いや、久々にしっかり観ました。奥様の押しの弱さが気になってしまったものの、可愛かったのでよいと思います。全体としてオーソドックスな展開にまとまっていたと思います。

 

AVにも様々な種類がありますが、これは「AV撮影をする」類の作品です。ちょっと何を言っているのかわからないかもしれませんが、つまり“世界観を作り上げる”タイプの作品とは別ってことです。

わかりやすくいうと、漫才とコントとの差異に近いでしょうか。漫才は「俺な、宇宙飛行士になりたいねん」「ほな練習しましょか」と始まりますが、コントは「ショートコント、宇宙飛行士」ときたら宇宙飛行的世界観の中で笑いを取りにいく、そういう違いです。作中で虚構だと明かされているか、虚構として作品になっているか、という違い、でしょうか。

 

個人的にはそれぞれ良さがあると思っています。

「美女素人を騙してゲットw」系の作品は、女優に対して張られる罠のチープさ・出てくる字幕の絶妙なオジサン臭さ・絶対に騙されているわけがないのに困惑した表情で話についてくる女優、などなどで癒されます。というのはさておき、視聴者の立ち位置が独特なのも面白い点だと思います。僕らは「AV制作スタッフ側に立って女の子を騙している」位置に立たされるわけで、ニヤニヤしながら視聴することを期待されているわけです。

 

一方ドラマ仕立てとなっている作品については、ただただ低レベルな演技に失笑してしまうだけというパターンもありますが、物語としての面白さに引き込まれることもあります。そういうとき僕らは読者となって、物語としての他者の性行為を楽しむことになります。

 

そのほかVRなどの一人称タイプなんかもありますし、アダルトコンテンツの世界は実に雄大ですね。

 

さて、ここまででお気づきでしょうが、僕はAVを決して早送りしないことで有名です。有名ではないけど。

インタビューだとか冒頭の白々しい芝居だとか、全て観たい派です。なぜか。

「全裸の女がいきなり喘いでいる」よりも、「白金在住の奥様がセックスレスによる欲求不満に耐えかね自分からセックスしたいと言いに来たあげく全裸になって喘いでいる」ほうが、断然、味わい深いからです。

 

性行為とはいわば物語です。「何がどうしてこの人々を交わらせるに至ったのか」、その千差万別十人十色を味わわなければ、コンテンツとしての意味がないとすら思っています。

よく言われたものでした、「物語性を重視するなんて女々しい態度だ、抜きたいときはとっととセックスシーンまで飛ばすのが普通だ」と。しかし僕に言わせれば、そんな態度ではむしろ勿体ないのです。セックスシーンは割と似たり寄ったりになってしまいますし、そもそも全編通して「作品」として作られているのですから、頭から終わりまで観なくては失礼というものです。

 

口調も股間も熱くなってしまいましたが、けっきょく何が言いたかったかというと、みんなもっとAVという“人の性欲を掻き立てることに特化した映像作品”に敬意を払って観てみようよということです。

 

 

以上です。

僕の風邪は喉から始まる

僕の風邪は喉から始まる。物を飲み込むのも声を発するのもしんどいような痛みが襲ってくる。

喉を痛めると、つくづく喉の大切さを思い知る。生命維持のための食事も呼吸も、意思疎通のための発声も、受け持っているのは喉だ。ここが痛むと日常がかなり重だるいものとなる。そもそも、体のどこかが常に痛むというのはそれだけで悲劇的なことだ。

 

僕が先輩と話すことを苦手としているのは喉のせいばかりではないものの、やはりこういう日はますます黙然としてしまう。そのせいか今日の先輩は僕に対してあまり優しくなかった。

喉の痛みに耐えつつ意識を飛ばさないようにしつつ、というのは思いのほか体力の要ることである。とはいえ他者と関わる以上、そうした体力を振り絞らねばならない場面というのもあろう。僕はそういうところ自分に甘いのでよくない。

 

僕は昔から健康な人間だ。容貌は悪いのに顔色はいい。そのためか、僕は「心配される」ことがあまりなかった。

強烈な頭痛に苛まれて「救急車を呼んでくれ」と叫んだあの日。父親と祖母はのたうちまわる僕を見下ろしながら、けっきょく何もしてはくれなかった。

肉体的にも精神的にも病弱な美少女を周囲の人間が必死に支えている、そんな構図を遠巻きに眺めていた高校時代。僕の精神もかなりボロボロだったはずだが誰に慰められることもなく、それどころか僕はその美少女に嫌われ、美少女の友人たちにも嫌われた。

タイヤブランコ(タイヤが鎖によってぶら下げられており円状に回転しながら揺られる遊具)で車酔いの症状を起こしベンチで横になった幼少期。友人は「君よりあの子の方が青白い顔をしている、君は元気そうだから大丈夫だ」と言って、嫌がる僕をまたタイヤブランコへ乗せた。

 

簡単に思い出せるだけでもこの通り、僕はかねてから「大丈夫な人」としてやってきた。

正直なところ僕はプライドの高い人間でもあるので、そうやって「君は大丈夫なんだろ?」と言っていただけることに誇りを持っているふしがないともいえない。

心配されることに慣れていないので逆に気遣いを気まずく感じてしまうこともあるし、慰撫するふりをしながら酷い陥穽に嵌めようとしてきた人たちというのがいたので場合によっては警戒してしまうこともあるし、「自分のために「心配」という負の感情を抱かせてしまった」と申し訳なく感じることもあるし、そこから弱音を吐いてごめんなさいと思うこともあるし、そういったゴチャゴチャがあって、「心配しなくていいぞ」というのを半ば本気で思っている。

 

とはいえ、もう半ばは我ながらわからない。

 

本当に耐えがたくなったときの僕は、誰にともなく「助けて」と訴えていることがある。独り言として呟いていることがある。それはやはり、完全に誰からも心配されていないと思うことを恐れているがゆえの行動なんだろう。半端者め。

 

僕は強がりたいだけで、本当のところとても弱い。けれど「君は弱いんだから慰められておきなさい」という庇護の皮を被った嘲弄には耐えられず身悶える。これでもある程度は強いはずなのにと情けなく涙を落とす、「ある程度」の“程度”が低すぎるのだということからは目を逸らしつつ。

虎にでもなってしまいそうだね。

 

風邪はまだ治らない、喉が痛む。しかし今のところ、「助けて」を呟かずにいられている。すなわちまだ大丈夫。たぶん、おそらく。これは強がりではないはずだ。記事の中身は暗くなってしまったものの、僕はそこまで落ち込んじゃいない、とりあえず少なくとも今日は。

どこかが常に痛むというのはそれだけで悲劇的なことだ。

歩けよ乙女

今更ながら、森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」を読了した。

 

これは前半までの記事。

cnp.hatenablog.com

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

(感想を書いている途中で寝落ちてしまった。日常生活というやつはこれだから嫌だ。疲弊させないでほしい。)

 

芳醇ながらも嫌味のないすっきりとした甘さ、華やかでありつつも安心感のある後味、そんな作品だった。「そう来たか」というドンデン返しよりも、「そう重なるか」という不意打ちの妙。前記事でも述べたように、人間同士の重なったりすれ違ったりという運動を追っていく楽しみがあった。

そして何より読みやすかった。

 

 

……。

 

「透明少女」の話をしたい。

 

「透明少女」とは、僕の後輩によって提唱された“少女の概念”あるいは“概念上の少女”の呼称である。

詳しい解説を聞いていないので、彼が具体的にどのような概念を指して「透明少女」と呼んでいたのかは残念ながら知らない。けれど、「透明少女」、その言葉の響きだけで、もうだいたいのことは説明されているような気もした。というより、わざわざ説明してもらう必要はないのかもしれないと思った。

 

結局、僕は「透明少女」という言葉を勝手に借りてしまった。そして僕なりの「透明少女」を収集しつづけることにした。

 

雨上がりの空へ向けてシャボン玉を吹いた少女。濡れた植え込みに咲いていた花をそっと摘んだ少女。白いワンピースに麦わら帽子をかぶってヒマワリ畑の前で微笑んだ少女。

ひとしきり笑ったあと煙草をふかして俯いた少女。話の途切れた刹那ふと遠くを見つめ口を閉ざした少女。核心をつく一言を発する直前に悪戯めいた表情を浮かべた少女。

 

どれも実在の「少女」たちだが、彼女らに対する猥褻な感情は一切ない。また、「透明少女」を捉えた次の瞬間その人物がコトンと俗に還ってしまうこともある。

“ふとシャッターを切ったら奇跡の一枚が撮れた”、そんな一瞬の煌めき、それが僕なりの「透明少女」だ。

 

すべて幻想に過ぎないのかもしれない。世の中は残虐で下劣で、美しいものに手厳しい。よって「透明少女」と出会うこと自体、至難の技だ。それでも透き通った夢を追ってしまうのは、まあ悲しい性である。

 

ちなみに、「透明少女」の提唱者たる後輩は、自宅をジャズバーに仕立て上げて友人らを招き、洒落た音楽とともにオリジナルカクテルを振る舞っているらしい。天晴れ。ぜひとも、敬愛を込めて「透明青年」と呼びたい。

 

僕の価値観でいうと、それが虚構的・夢幻的・文学的な透明性を帯びているかぎり、それは「透明○○」である。美しきことは良きことかな。最近どうも疲れが溜まっているので、視野が自然と狭まり、そういう透明な存在を見落としがちになっているのかもしれない。良くないことである。

 

と、言いつつ。

 

僕を知る人たちには既にバレバレだと思うが、僕は何だかんだ言って混濁や汚濁も大好きだ。性欲と物欲と承認欲、不透明。どうせ世の中は俗悪なので、「透明」なものばかり追い回してもいられない。俗悪の中にも愉快痛快は転がっている。優れた文学は濁った暗がりの中からも生まれてくる。

 

……。

 

夜は短し歩けよ乙女」は、「透明少女」(造語)と「灰色青年」(造語)と、それぞれの視点が切り替わりながら進むタイプの一人称小説だ。同じ地図の上を「透明」と「灰色」とが歩く。こんなにも色味が違うのか……そういう、世界の見え方の差も楽しめる。

 

そして、「歩けよ乙女」である。

「歩く乙女」ではない。語呂の問題だと言われてしまえばそれまでだが、僕は「歩けよ」という言い回しが選ばれたことに意味を見出したい。作中の「少女」は、「歩けよ」と誰かに呼びかけられて歩みを進める。誰に言われずとも歩きつづけるであろう「少女」なのだが、それでも彼女の周囲にはいつも「歩けよ」と声をかける何者かが姿を見せる。「少女」は透き通るほどの純粋な人格をもってそれらの声を受け止め、歩きつづけていく。

 

一方、もうひとりの視点人物である青年の方は、「歩けよ」と声をかけてもらうことがない。ひとりで勝手に奔走し、ひとりで勝手に落胆し、ひとりで勝手に歩いていく。彼は当初、自称する通り「路傍の石」でしかなかった。しかし彼は歩みを止めず、少しずつ少しずつ「少女」の歩く道に踏み込んでいく。「少女」の世界に食い込んでいく。

僕が前半の記事で述べた、「立体道路が幾重にも重なっているのを、真上から見下ろした」ような感覚はまさに、「少女」の世界に割り込もうとする青年の執念が生んだものだったのだろう。

 

僕は視点人物の多い一人称作品をあまり好まない方なのだが(と言いつつ何だかんだ理由をつけて許してしまうんだけれど、それは置いておくとして)、この作品において人々や物事の重なり合いを描くのにこれ以上の描写方法はなかっただろうと思った。

 

 

最後に文学部卒らしからぬ、陳腐なことを添えて台無しにしておこう。

「好奇心と執念と、そういうものに突き動かされて人は歩く、けれど時にそうした原動力を失ってしまうこともある、足が止まってしまうかもしれない、そんな場合、「「歩けよ」と声をかける何者か」がいれば少しは歩き出せるのだとしたら、僕がその「何者か」になってもいいな、と思った。」

 

歩けよ乙女。歩けよ人々。

夜は短し

 今更ながら、森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」を読んでいる。読みながら恥ずかしくなってしまうような可愛い可愛い作品だったらどうしようかと思っていたけれど、杞憂だった。

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

そうだな。「立体道路が幾重にも重なっているのを、真上から見下ろしたらどう見えるか?」、そんな作品だと思った。自分の“真上”あるいは“真下”を走る道路に如何なる車が駆けているか、当人たちには気づきようもない、彼ら彼女らはあくまで自分の乗る車のヘッドライトが照らしうる範囲の物事を語っているにすぎない。しかしそれらを統合していくと立体道路の見取り図が眼前の紙面上に描き出されていって、彼らが道路上のとある地点で一堂に会していることに、あるいは別の地点で宿命的な擦れ違いを起こしていることに、はっと気づかされる。

 

下手な例えだ。ともかく連鎖的構造美である。

 

この作品を購入したのは先日、大学時代の旧友たちと会うことになった日だ。僕は早々と待ち合わせ場所についてしまい、とりあえず本屋へ入って、とりあえず目に付いた本をガサガサ買った。そのうちの一冊がこれだった。雑な出会いだった。

 

その旧友たちとの会合は例によって滅茶苦茶で、僕は大量の日本酒を飲み、幻想のセックスを語った。気心のおけない若人と喋る機会というのが分かりやすく減少してきている僕にとって、こういう会は危険である、喋りすぎてしまうので。それでも後輩からラブホテルの内装について細かく聞き取ることに成功したのは収穫だった。やはり、ラブホテルは性行為に使われるとき最も輝くのではないか?

 

しかし大学時代の旧友たちの悪いところは終電を逃すことを美徳だと信じているところである。僕は心地よく酔って眠くなり、もう充分でしょうと手足をひらひらさせていたのだが、彼らは僕を離してくれなかった。結局、僕らはカラオケで夜を明かした。旧友の歌う桑田はとてもよかった。また旧友のせいでアルバムを買うことになりそうだ。

 

なるほど、夜は短し歩けよ若人、か。

 

明け方のまだ暗い夜道を駅に向かって歩きながら、僕はほのぼのとそんなことを思った。朝が来れば解けてしまう魔法を、その最後の一滴まで味わい尽くそうとする悲壮。もしかすると旧友たちにもそういう気持ちがあって、ゆえに夜遊びに耽るのかもしれなかった。何しろ僕の旧友たちは(僕の旧友たちだけあって)拗らせた文学愛好者たちであるから、ただの馬鹿騒ぎと見せかけた宴にも一抹の仄暗さを見出さざるをえない。

ま、それでも明け方まで遊ぶなんてのは無理をしすぎだと思うわけだが。

 

僕は穢れている、ので、登美彦の描いた「乙女」の独り歩きのような、透明感ある放蕩を再現することはできまい。とはいえ僕にとっても夜は短い、泣けてくるほどに。ヘッドライトもテールランプも深夜の道路ではシャンデリアやらイルミネーションやらに化けるのであって、僕はそういうのを求めて夜を歩きたいわけで、ああ、大人の世界に憧れていられるのは子どもだけなのだ、などと。

 

あの道路を夜に走っていけたら、何処かで面白い何かと合流して並走して遠くへいけるかもしれない……あの路地を夜に歩いていけたら、何処かで欲しかったものを拾えるかもしれない。

 

されど夜は短し。

僕は努力を放棄している

僕は努力を放棄しているのかもしれない。それが上司の目にも明らかなのかもしれない。僕が無能で無謀で無気力であることを、あらゆる人々はすでに知っているのかもしれない。僕はそれを自分に対して誤魔化しているだけなのかもしれない。

 

相変わらず仕事が面白くない。いや、正確には「うまく面白いようにできない」。たぶん、自分の力でもってもう少し面白くできるはずなのだ。効率化のための手段は打っている。早く帰るために全力を尽くしている。それでも、まだ足りない。面白くない。飢えている。もっと面白いことをやってみたくて、飢えている。

 

ここのところ、先輩と話すのが怖い。先輩はいい人だ。優しくて、真面目で、知識も豊富で、仕事も丁寧だ。僕は恵まれた環境にいる。友人としてなら、先輩とはうまくやれただろう。けれど、僕は先輩と話すのが怖い。

 

僕のやりたいことを申し上げて、それが通らなかった場合のことを考えるのが面倒だ、というのがひとつある。効率化のために手を打とうとしたところで、「それ要らないんじゃない?」の一言で流されてしまえばおしまいだ。ちなみに、こっそり勝手に進めたところで、あとあと「要らないって言ったのに……」となって揉める。結局、面倒に変わりはない。

 

そもそも、先輩の流儀というのが「効率化のための仕組みを構築するのに手数がかかる場合、むしろ従来の非効率的なやり方で進めてしまったほうが早い」といったものであり、まず僕の価値観と合っていない。僕は非効率的な作業をしたくない、単純作業も苦手だ、とにかくボタンひとつで全て片付いてほしい。このあたり、僕と先輩とは噛み合っていない。

 

また、先輩は完璧主義者なので、失敗を報告する相手としてこれほど厄介な人もいない。おそらく先輩の元来の性格なのだと思うが、「なぜ失敗に至ったのか」を根源まで遡らねば気が済まないらしい。僕としては「寝ぼけて間違えました」以上の何物でもないような失敗でも、とにかく根底まで辿りつこうとしてくださる。そりゃ、僕だって「なぜ」を考えるのは大好きだ。けれども、それは自分の過去や失敗に関わらない分野に関しての話だ。まあ、だから先輩のお気持ちもわかる。僕の過去や失敗は、先輩の過去や失敗ではないからね。

 

さらに、先輩の尊敬する上司というのがいわゆる「昭和のモーレツサラリーマン」を地でいくド根性オジサンなのだが、その熱い説教を一身に浴びながらキャリアを積んできた先輩は、僕にもそういう熱さをもって接してくださる。まあ、僕は熱い人というのも嫌いじゃない。仕事熱心な人に対して尊敬の念もある。ただ、話が、ちょっぴり長い。30分間も聞き続けていると、この時間で作業を進めた方がいいのではという気持ちになってしまう。そういう態度はよくないと自分でも思ってはいるが。

 

先輩は完璧主義者に加えてプライドの高い人間でもある。自分がやります、できます、そういって残業を自ら買って出てらっしゃる。僕のことを信用していないので(当然)、基本的に仕事を割り振りたがらないのだ。それでいて、残業時間をつけない。曰く、「あまり残業代を申請すると会社に迷惑がかかっちゃうから」。なんたる、聖人。僕は純粋にすごいと思った。ただし、巻き込まれたくないと思った。

残念なことに先月は巻き込まれ、「新人の君がこれだけ残っているというのに、上司である彼女は即座に帰ったというのかね? 本当に?」というような説教を受けた。しかしその理屈だと、僕も部下を持ったら無限に残業しなきゃいけないことにならないか?

 

等々。

 

僕は努力を放棄している、それは上司の目にも明らかだ、僕が無能で無謀で無気力であることを、あらゆる人々はすでに知っている、僕はそれを自分に対して誤魔化しているだけなのだ。