世界のCNPから

くろるろぐ

腹が減った

腹が減った。

 

ここんとこ胃の調子が悪くていきなり吐いたりなんだりしていたんだけど、今日はそれが良くなってきたのか妙に空腹だ。まあ晩飯が足りなかった。うまかったけど。

 

高校時代、サイゼでミラノ風ドリアを食ったあとマックでビッグマックセットとポテトLを食う人とか、松屋でカレー食ったあと自宅で親の用意した晩飯を食う人とか、そんなのがいたのを思い出した。僕も成長期のデブなりにコンビニおにぎり10個とかを昼飯として食っていたけど、さすがに牛めし+ラーメン+菓子パンみたいな内臓破壊工作だけはできなかったね。

 

高校時代のことはあまり思い出したくないが、こうやって自分の傷つかない程度に(あるいは他者を傷つけた記憶に触れない程度に)上澄みだけを掬うようにして振り返ってみると、何だかんだ楽しかった部分もある。そりゃね。あるんだけれども、やっぱりまだ語りたくはないな。なぜなら、僕は本当にクズでゴミで、同情の余地もない最低野郎だったから。

 

いま僕のことを避けずにいてくれている色んな人たちを失うのが怖いというのもあるし、自分で自分の人生を振り返ったときにそういう汚いものだらけだということを再確認するのが怖いというのもある。嫌だな。そんな僕が「あの頃は何だかんだ楽しかった」なんて言えるかっつーと、ダメでしょう。

 

本当は僕のことを憎んで止まないあの人やあの人のためにも死んでしまったほうがいいのだが、そこまでの勇気は僕にはない。今のところ。というか、あの人、殺しに来ないのかな。会ったら殺してやりたい、と言っていたそうなのだが、会いそこねたためにここまできてしまった。まあいきなり「天誅!」とかいって殺されるよりは、理由を聞きたいところ。心当たりはないわけじゃない、が、あくまで予測でしかないので。

 

家族仲がボロボロになったのは僕のせいだ。僕が雑な生き方をしてきたために、父親が気分を害して荒れ、母と妹とが呆れて出ていき、祖母も狂いはじめている。どうにかしようとすればするほど全部おかしくなっていく。仕方ないね。僕だもんな。

 

さて一方、恋人氏との仲は前より多少マシになったんじゃないかと僕は思うけど、恋人氏からするとそうでもないかもしれない。少なくとも八つ当たりはしなくなったつもり、そこは精神安定剤に感謝したい、けども、向こうとしては他にも不満がたくさんあるんじゃないかなあと思う。

 

僕は自分の苦痛から逃げるために恋人氏を使いたくないので、というか恋人氏を守り慈しむ立場になりたいので、僕の家族の仲が荒れているからといって恋人氏に助けを求める気はない。なんてカッコいい言い方をしているが、これは数年間にわたる試行錯誤の果てに僕が出した回答だ。

 

僕は昔からどうも「人に頼り、人に頼られる」みたいなのに憧れちゃうふしがあって、頼り頼られる関係性を目指しちゃう悪癖があって、縋らせてくれそうな立場の人間……つまり「恋人」なんだけど、必要以上にべったり縋ろうとしてしまうところがあった。しかし何度も同じ失敗を繰り返しているうちにわかってきた、恋人氏は可愛くて優しいが、だからこそ頼っていい存在じゃないんだと。

 

いや頼る程度ならまだいいんだろうけど、縋りついて絡めとって巻きこんで苦しめてしまうのはダメダメのダメって話だ。人には限界がある。そして人は人の痛みを真に理解することなどできない。となると、自力で何とかするしかないんだよなあとなる。

 

結局のところ人は孤独な生き物なんだね。

不思議なことに僕は「誰かが助けてくれる」と思ったときよりも「誰も助けちゃくれない」と思ったときのほうが動きやすいみたいだ。気を抜いたら全てが自分に降りかかってくるのだと思うと怖くて馬鹿力が出るのかもしれない。そして、疲れる。そりゃ疲れるとも。けれど、その方がいいんだと思う。思った。

 

「人は孤独な生き物だ」というとき、世の中では悲惨な悲壮な雰囲気を纏わせがちだ。けれども、僕は今やケロっとしている。ひとりでやった方がいいような気がしている。何かとね。家族のことは嫌いたくない、友達には迷惑をかけたくない、恋人には嫌われたくない、僕はひとりで色んなことを、解決まではできなくとも、まぁ「うまく」やっていけるようにしたいってわけなのだ。その程度。

 

ここんとこツイッターの面々がそれぞれに苦痛を抱えているように見えるので、僕はつらい。端的につらい。文学部卒のくせして上手い言葉が出てこなくて、でもツイッターなんて言葉にしないかぎり何も伝わらない場なわけで、どう言おう……どう言おう……となってばかりだ。

 

みんなには死んでほしくないんだよ。だけど、死なないでくれって胸を張って言ってあげられるほどの何かを提供できるわけでもないのに、無責任なことなんて言えなかった。

 

解決策を考える、少しだけ頑張ってそれを実行する、その繰り返しでジリジリとマシな方マシな方へと進んでいくしかないんじゃないかな、と思うんだけどさ、それもできないくらい大変なんだよねってのも、見ていて伝わってくるから、本当に無理しないでほしい、なにもかも。

 

過去を振り返るのは怖い、未来を見据えるのも恐い、となると今を生きるしかないよね、もう楽しいことだけしていたい。怒鳴られるのも叱られるのも失敗するのも嫌だ、罪悪感も嫌悪感も味わいたくない。そんな夜だ。

 

そういや、ミラノ風ドリアといえばここのところ久しく食べていない。サイゼのペペロンチーノは意外とニンニクを強めに使っているので人と遊ぶときに食うのは避けていた。ただでさえ僕はニンニク臭のするデブだからね。懐かしいな。もう少し過去がキラキラしていたらそんな話もできただろう。

 

腹が減った。

アイドルのライブへ行った

アイドルのライブへ行った。

 

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アイドルのライブといってもAKBやナントカ坂のような大所帯アイドルグループがデカいホールで開催するような規模のものではない。

デセオアイドル劇場〜道玄坂移転SP2部〜 東京都渋谷区/イベント - ロコナビ

このようなやつである。

 

あるフォロワーさんの影響で「ぜんぶ君のせいだ。」に出会って以来、僕は「アイドル」という存在のドラマ性に興味を持つようになった。 

 

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ちなみに僕が初めて目にしたのはこちら。


ぜんぶ君のせいだ。"わがまま新生Hominina" Official MusicVideo

 

でもここから未来千代めね(青色担当)が卒業してしまったので現在は以下のような感じ。


ぜんぶ君のせいだ。"革鳴前夜"Official MusicVideo

 

かわいいと思うので是非ご覧いただきたい。

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アイドルというのは「顔がよくて歌って踊れる存在」と簡単に言えるような存在ではない。アイドルがアイドルとしてステージに立つまでには、様々な努力と苦労と裏事情と黒歴史と闇があるのだ。……ということを、僕は少しずつ分かりはじめてきたような気がする。

んで、僕はそういうアイドルたちのことをもっと知りたくて、敢えてアマチュアアイドルさんたちの集まりを観に行ったというのが今回である。

 

場所は渋谷、「デセオアイドル劇場」。こういうところから大きなアイドルグループが立ち上がることもあるんだろうな、AKBみたいに。

時間は17:00〜22:00くらい。ただし頭から全て観る必要はなくて、推しアイドルの出る時間帯に来て推しアイドルだけ観て帰るというのも可能だ。僕は頭から最後までいたけれども(より多くのアイドルを観たかったため)。

チケットは予約で2000円、+ワンドリンクで600円、締めて2600円。これで14グループ(1グループ約15分間の持ち時間)くらい? を観ることができたのでリーズナブルだった。

 

一口にアイドルといっても、14グループも集まっているのを4時間も観続けているとさすがにその在り方の差異がわかるようになってくる。

 

まず衣装の時点で、そのアイドルグループが目指す方向性のようなものを味わうことができる。いかにも「女の子アイドルグループ」という感じのヒラヒラしたミニスカート衣装を着た人たち。セーラー服っぽいワンピースを着た人たち。ロングスカートを着た人たち。パステルカラーの人たち。各担当色の人たち。白黒の人たち。

 

それから曲調もそれぞれ違う。ダンスミュージックのようなカッコよさめな曲、ポワポワした可愛めの曲、機械的なピコピコみのある曲。

一部を除いて大抵はオリジナル曲らしく、音源を発売します〜なんて紹介していたグループもあった。マジかよ、と思った。はっきり言ってどれもこれも、名さえ売れれば大人気を博しそうな名曲ばかりだった。アイドル、やべえな。

 

もうひとつ感動したのが、みんな歌もダンスもお世辞抜きにハイレベルだったことだ。

まず誰も彼も、歌声がとても良かった。ひと組たりとも「この下手くそな歌を15分間も聞かねばならんのか」みたいなグループはなかった。またそれぞれのグループが少人数であったためか、あるいは歌唱力が高かったためか、複数で歌ってもゴチャつかず、綺麗なハモリを楽しめた。

ダンスに関しても、手足がキパッと動くし、ターンが決まるし、客に目を合わせてくれるし、どれほど練習したんだろうという感じだった。

 

そしてもちろん、アイドルに必要なのはやはり「魅力」である……「また会いたい」「応援したい」と思わせてくれるような「魅力」である……と僕は思うのだが、いやー、それがどのグループも本当に魅力の塊だった。ふらふらっと引き寄せられてしまうような芳しさだった。

 

ひとつずつ挙げて語れるほどの語彙力がないのでアレなんだけれども、とにかく充実したひとときだった、とだけ言っておきたい。

本当にありがとう(オタク特有の合掌)。

 

 

さて。

アイドルとはすなわち“偶像”である……という言葉を僕なりに解釈すると、それはつまり、何らかの主題/テーマ/コンセプトを用意し、それを生身の人間に纏わせることで完成させる一種の芸術である、というような話になると思う。

コンセプトといっても具体的なものじゃなくたっていい。「愛嬌があり魅力的で、歌と踊りがうまくて、元気を分けてもらえる」というようなのだってコンセプトである。

 

大抵のアイドルが恋愛禁止とされているのは、それがたまたま“偶像”のコンセプトとして求められているからなのだ。アイドルは残念ながら今のところ「大衆を愛し大衆に愛される存在である」ことを基本要素とするよう求められている。よって、「特定の個人を恋人と置いて愛情を注ぐ」という行為はアイドルのコンセプトに合わないものとして忌避される。

 

だからアイドルというのは危うい芸術だと思う。あの人たちは、一般的な人間に当たり前のごとく認められているはずの様々な権利を、「アイドルとしてのコンセプト」によって抑圧されかねない。

 

けれども、「だからアイドルというものは不幸な存在なのだ」、とするのは少々短絡的だとも感じている。大衆が認め大衆が憧れ大衆に愛される“偶像”は、もちろん燦然と輝いているわけだから。

その煌めきを自分の身に纏わせること、誰もが認め憧れ愛する“偶像”になりきること、それがアイドルの目標地点なのだと思うし、アイドルの仕事内容なのだと思う。

 

やったことないけど、アイドル。

 

だから個人的には、「アイドルは恋愛でも何でもバレないようにやれば良し」「ただしバレるな」と思っている。アイドルである以上は“偶像”を守るためのコンセプトに縛られざるを得ないけれど、人間である以上は自由に生きる権利があるのだから。

 

(……この価値観はゴシップ雑誌と相性が最悪なのである。かつて文春の記者氏のインタビュー記事を読む機会があったので読んだのだけど、「有名人のスキャンダルを暴いて世間に知らしめるのが人生最高の楽しみだ」というような態度だったので、こいつぁ分かり合えねぇかもなと思った。汚いところは隠して、醜いところは誤魔化して、“偶像”としてのアイドルを守ってやりたいと感じてしまうな、僕だったら。)

 

しかしアイドルに限らず有名人というものには「オフ」というのがほぼないので、そこが大変だろうなといつも思う。というのも、例えば僕だったら仕事を終えて家に帰ればただのオタクになれる、ツイッターで愚痴を言ってもいい。けれどアイドルはステージから楽屋に戻っても、そこから帰宅しても、まだ気を抜くことができない。コンセプトから外れた姿を大衆に晒さないよう注意しなくちゃいけない。かなり気を張った仕事だろうなと思う。

だからこそ本当に本当の、人間としての自分を再確認できるようなオフを作って差し上げるべきだと思うんだよな、な。

 

やったことないけど、アイドル。

 

……さあ、久々に人の集まるところへ行って久々に他者と会話したのでだいぶ疲れてしまった。早く寝たい。

けど、こういうときアイドルだったらまずはみんなへの感謝のツイートをするだろう、と思うと、やはりアイドルには頭が上がらないのだった。

 

とか散々語ったけどライブ直後はマジで語彙力がなくなった、みんな良すぎた。

またキンブレ振りに行こう(オタク)

つかれた!

日々に嫌気がさしている!

 

負の感情にもいろいろある。「つらい」とか「しんどい」とか、そういう包括的で抽象的な言葉の中にも多種多様な負の感情が含まれている。

 

で、僕はいま、嫌気がさしている!

 

言葉にするのがあまりに難しくて、記事として書くことさえできなかった。今日も本当は筆が乗らない気分の日だ。それでも僕は無理やり手を動かしてみよう。

 

キンと冷えた空気、淡く晴れ渡る青空、吐く息は白く、手はかじかんで震え、ああいかにも冬の日よ……そうやってボーッとしていられる間はまだいい。しかし唐突に、何かがガツンと僕の頭を殴りにくる。

あ、やめたい、やめたい、……僕自身、何をやめたいのかさっぱりわからないんだけれども、何だか急に怖くなって、やめたい、と叫び出しそうになる。

絶望とも憤怒とも違う、腑抜けたような感覚、逃げ出したいとか抜け出したいとか逆方向に駆け出したいとか、そういう「逃避欲求」じみた感情。

ほら、上手く言えていない。そういうことだ。とはいえいつまでも「上手く言えないの」なんて誤魔化していたって仕方がないので、ひとつ言葉にしてみたのがつまり、

 

日々に嫌気がさしている!

 

と。

この「!」も重要である。

梶井基次郎桜の樹の下には」( 青空文庫: 梶井基次郎 桜の樹の下には )でも、冒頭まっさきに「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」ときている。「これは信じていいことなんだよ」、ええいっと叩きつけるような宣言。「俺には惨劇が必要なんだ」、興奮した語りは熱を帯びて「お前」(聞き役)に冷汗をかかせる。

 

要はね、僕も逃げ出したいんだと思うのだ。何から? すべてから。

 

死は究極の逃避である、と捉えるなら、自殺は僕の逃避欲求を充分に満たしてくれるだろう。そのためだけにでも死んでみる価値はある。

ただし自殺の瞬間には、刃物であれ縄であれ崖っぷちであれ薬物であれ、ともかく自分を死なせるための“何か”から逃れられないんだよな、という、臆病者に二の足を踏ませるには充分すぎるほどの事実があり、僕はその辺で詰まってしまう。現実から逃げるための行動が、最後の最後に自分を追い詰めている感じがする。

桜の樹の下で桜の養分となれるならそれはひとつアリかもしれないが。

 

まあ、せめて旅に出たい。何も気にせず遠出をしたい。社会に呑まれて、「決められた日までに帰ってこなければならない旅」ばかりさせられていると気が狂いそうになる。天気のいい朝に伸びをして、「よっしゃ出かけるか」と呟いていきなり旅に出たい。帰りたくなったら帰ってきたい。

 

端的に言って疲れた。つらい、しんどい、そういう深刻な感情ではないんだろうと思う、ただ疲れた。

 

つかれた!

バイ春クロル2019冬 〜壊れたバイクと箱根の玉子〜

箱根・大涌谷へ行った。

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なぜ

弊社では、盆暮れ正月などのまとまった休みの際「どこで過ごす予定か」を前もって書いておく決まりとなっている。仕事の都合でどうしても急に呼び出さなきゃいけなくなったときのためだったり、何らかの形で事故った場合いち早く状況を確認するためだったりするらしい。

そんなわけで僕も「1/4 箱根」と書かされた。

しかし僕は元来「おっ今日はいい天気だな、出るか」という“勢い”で旅をするタイプだ。なので、正直この仕組みは僕にとってかなり窮屈である。

1ヶ月も前から予定しておくなんて性に合わなすぎる。当日の朝になってやる気が出なかったら行くのをやめたい。翌日になって行きたくなったらフラッと出かけたい。

とはいえ僕は会社でちょっと目立つ新人になってしまったようなので(上司に物を言いまくったせいか?)、「ヘェ〜箱根に行くんだ〜いいね〜」と周りから突かれてしまい、「やっぱりやめました」と言いづらい感じになってしまった。まあ「やめました」と申し出ることはできるのだが、わざわざ申し出なきゃいけないため、それはそれで面倒だった。

 

じゃあ行きますよ、行けばいいんでしょ、行けば。

 

 

【バイ春クロル2019冬 〜壊れたバイクと箱根の玉子〜】

 

 

ここのところ、出発が遅すぎる。次回以降は改善していきたい。

 

よく考えたら箱根は避暑地だった。文豪たちでさえ真冬に登山してはいないと思う。

 

コンビニにて。空があまりに青かったので、そしてバイクとのコントラストがあまりに綺麗だったので。

かつて僕は「渋谷の若者たちはなぜ駅の横の何もない白壁を背景に自撮りしているんだろうか」というのを疑問に思っていたが、少しずつその気持ちがわかってきたような気がした。要は背景をどう使うか、ということなのかもしれない。

 

 

大涌谷

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14:23着。あまりの寒さに全ての感情を失った。

なぜこんなにかかったかというと、僕が「すり抜けしないマン」だからである。

たぶん車の隙間をスイスイ走り抜けていれば1時間半は早く着いたはずだ。けれども、僕はすり抜けをしないマンなのだ。

なぜか? まず「他の車にぶつかりでもしたら問題になるかもしれないというのが怖いから」。次に「バイクに乗らない知り合いたちがみんなすり抜けを嫌っているから」。あと「車は大人しく渋滞に巻き込まれているのにバイクだけスイスイ抜けるのは不公平だと思ってしまうから」。このあたりが理由だ。

まあ、だからといって僕は「すり抜けするマン」のことを憎んでいるというわけでもないので、単に僕個人のこだわりみたいなものだ。危ないことはしないっていう。

 

と、まあそれはさておき、そうやってめちゃくちゃ時間をかけながら目的地へ着いた。腹が減って死にそうだったのでまずは昼飯にした。

「レストラン」と書いてあったがカフェのような軽食屋のようなものだった。1200円分ほど食べた。

 

 

そもそも僕がわざわざ大涌谷を目的地としたのは、祖母に(箱根土産として)欲しいものを聞いたところ「黒玉子……?」と返答したからだった。

大涌谷黒玉子は「ひとつ食べると7年寿命が延びる」とされている。祖母が「無駄に延命してもねぇ」という態度を取ったので、僕はそっと「でもやっぱり生きていてほしいと思っちゃうもんだよ」みたいなことを言っておいた。

 

 

事件

 

バイクを倒してしまった!

 

バイクをお持ちの方は特によくわかると思うが、坂道において「バイクの上側(シートがある方)」を「坂の下側」に/「バイクの下側(タイヤがある方)」を「坂の上側」に向けるように倒してしまうと、引き起こすのがかなり難しくなる。なぜなら「バイクを引き起こすための力」が重力に反する向きとなるからだ。

僕は軟弱なので一旦上下が逆になるよう回転させてから引き起こした。

 

しかし……

なんとこの一撃でバイクくんがまともに動かなくなった。見た感じクラッチ周りの部品が歪んだことによる不具合のようだった。そこで一応自分でもレンチを使って歪みをグリグリしてみたが、「1速に入ったら戻らない」「2速とニュートラルにしか入らない」などどうしようもない結果に終わった。

 

なんだかテンションがおかしくなっていった。

 

正直、今回は「走行中でもなく、他者を巻き込んでもおらず、バイクに致命傷を与えたわけでもない」という状況だったのでだいぶ落ち着いて対応できた。とはいえ、保険会社の人やロードサービスの人にご迷惑をおかけしてしまったことについては反省したい。

「ひとり旅」はひとりで完結させてこそである。

 

また、これはぜひ覚えておいていただきたいのだが、冬の箱根の山はダメだ。

北海道の人からすれば大した寒さではないと思うが、暖房の前で毛布にくるまっているような東京人に耐えられる寒さではなかった。

寒さのあまり上記のような支離滅裂ツイートをしてしまった。

 

出発前の僕「箱根湯本駅周辺にはバイク置き場がないから今回は立ち寄れないな〜」

数時間後:

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出発前の僕「箱根湯本駅に寄らないなら「えゔぁ屋」も今回はスルーだな〜」

数時間後:

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そして最終的にはバイクのヘルメットとグローブとを手に抱えたまま、

 

こうして、バイ春クロル2019冬は幕を閉じた。

…………反省点はたくさんある。寒さ対策は万全にしなくてはならない。駐車は慎重にしなければならない。そもそも自信がないなら山へ登ってはならない。

てなわけで、魔法の言葉「次回以降は改善していきたい」を呟いておいて、今回はここまで。

 

 

おまけ 問題があれば消すやつ

ダメそうなら消そう。

 

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必死こいて玉子の写真を撮るひとり旅の僕。

裏側で楽しげに集合写真を撮る大学生くらいの男女グループ。

 

まだバイクを倒してしまうとは思っていなかった僕。

「黄色い歓声」という言葉を小説以外で使うとしたらここしかない、というような声を上げて駆けていく男女グループ。

 

しゃがみ込んで写真を撮る僕。

周りの人に写真お願いしますと頼んで集合写真を撮る男女グループ。

 

王子にも玉子にもなれない……僕。

 

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謹賀新年(遅延)

謹賀新年(遅延)。

1月1日〜本日は寝ているうちに終わってしまったので、2019年一発目の記事はこちらとなる。

あけましておめでとうございます。

 

さて。

 

一昨日から今日にかけて……いわゆる「三が日」というめでたいはずの日々において、僕はちょっとした疲弊を感じさせられていた。

父親と祖母との口論を聞き、双方の主張をまろやかにしてそれぞれに伝えなおした。母親と妹との喧嘩を聞き、双方の問題点をそっと指摘した。恋人の「来たければ来ていいし、来たくなければ来なくていいよ」という究極の二択に対する回答をひねり出した。

 

トホホ〜もう「僕の一言が場面を展開させる」みたいなのはこりごりだよ〜!

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「発言」とか「行動」とか「選択」とか、そういう「何かを変えてしまう責任重大な状況」というのがどうも僕に降りかかってきやすい三が日だった。

 

誰だって責任は負いたくない。責任というものは、ちょっとした規模でも労力を費やすものだ。

 

まず。

僕の家族は崩壊している。母親、父親、妹、母方祖母、父方祖母、それぞれに何らかの因縁があるため、人間関係系アニメ(造語)の相関図か? というくらいゴチャついたことになっている。

で、僕だけが唯一「橋渡し」としてギリギリ機能しうる立ち位置にいるため(好かれているわけではなく「憎悪のあまり話もしたくない」という輪から外れているらしいというだけ)、互いに何か伝えたいことがある場合は僕がいいように使われるのである。

今回もそういう「橋渡し」をやった。のみならず、いつもより“揉め”のレベルが激しく、やたら駆け回る羽目になった。

 

……「やめちゃえばいいのに」、ごもっともである。しかし僕が逃げないのはひとえに、僕がやめたら全てが粉々になる、という「責任」から逃れるためなのだ。いまこうして背負っている責任よりも、逃げることで負わされる責任・あるいは後悔・もしくは自責、の方が重いのである、僕にとっては。

……「家族がそういうのやめてくれればいいのに」、ごもっともである。僕の両親は50歳前後、祖母たちは80歳近い。24歳児である僕に気を遣わせるような動きをしないでくれ頼む、君ら大人だろ(懇願)

 

 

つぎに。

恋人氏は疲れているとき、「相手を思いやりたい/でも自分の疲れもしんどい」というギリギリの状態から頑張って発言するので、「どっちでもいいよ、あなたが決めて」という言葉を使いがちだ。

「発言」「行動」そして「選択」に伴う「責任」というのは、かなり人間を消耗させるものだと思う。疲れているときに何かを選ぶようなことはしたくない。全て誰かに任せておきたい。そういうものだと思う。

 

かつての僕なら、「どっちでもって何だよ! どうでもいいってことかよ!」となっていただろう。けれども僕は少しずつ、そういうのをやめようとしてきた……つもりだ。

僕が憤れば相手はますます疲れてしまう。というか、冷静になれば別に憤るようなことではない。「次に狩るモンスターはあなたが決めて」と同レベルの選択権譲渡に過ぎない。僕はそういうのに少しずつ気づこうとしてきた……わけだ。

……てなわけで、「明日のことは明日決めるよ」などと適当なことを言って、相手の「選択」も自分の「選択」も同時に先延ばしにした(ダメ人間)。

恋人氏はホッとしたような様子で「じゃあモンハンしよっか」と言い出した。

 

そんなこんなで、僕の三が日は過ぎていった。

 

2019年、今のところは大丈夫。ただ、時々突発的にふわっとつらくなるので気をつけたい、といったところ。

 

「責任」に疲れたときは、他愛ない「発言」・できる範囲の「行動」・なんとなくの「選択」、で許されるようなことだけやっておけばええんや、と自分に言い聞かせて、適当なことを言ったり、適当な場所に行ったり、適当な選択肢を選んでバッドエンドになったりしている(ゲームの話)、まあとりあえずそれでいいかなと思う、今のところは。まだ新しい年も始まったばかりだからな。

 

ひとまず、本年も何卒よろしくお願いいたします。