世界のCNPから

くろるろぐ

HOLGA DIGITALを買った

しばらく席を外していても、ふと戻ってみるとまだ元の場所に自分の机が残っている、それがツイッターという場なのだなと思った。

 

それで、カメラを買った。

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HOLGA DIGITAL。
例によってトイカメラ

 

HOLGA DIGITAL Black

HOLGA DIGITAL Black

  • 発売日: 2016/02/09
  • メディア: Camera
 

黄緑はどういうわけかアダルト商品に当たるらしいので、黒の方を紹介しておく。確かに黄緑はちょっとばかりエッチな色かもしれない。

 

何枚か遊んでみた。

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まあまあ撮れそう。
周辺光量落ちがデフォなあたりサブカル女子感。ただトイカメラという割には画質がいいので、そこはデジカメなんだなぁと思った。

 

一応、写真のサイズは長方形か真四角かで選べるのだが、まだ真四角を試していない(意図はない)。真四角で周辺光量落ちだとますますインスタの感じになりそう。

 

絞りも「晴れマーク」か「曇りマーク」かで選べるようになっていて、それぞれF2.8かF8かということらしい。本当に?

 

晴れマークのとき。

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曇りマークのとき。

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見た目としては差がほとんどないような気がする。室内だからかね。

 

 

ちなみに、SDカードをWi-Fi対応のものにすればその場でスマホに送れる。実を言うとずっとこういう運用のできる子を探していた僕にとって都合のいい相棒になると思う。

 

またひとり遊びの道具を買ってしまったな。

他人と話すときは他人に伝わるように話さなきゃいけなかったのに今までの僕はそれをしてこなかった

 僕は他人との会話において、「この人はこう言われたいだろうから/こうは言われたくないだろうからこう言おう」というような、内容面に関する調整には気を配って生きてきたつもりだったが、

 

「この人はこういう言い方をすれば理解するだろうから/こういう言い方では理解できないだろうからこう言おう」というような、形式面に関する配慮を怠ってきていた、ことがわかった。

 

曖昧な物言いをするのは他人を傷つけないため、などと言い訳して、疑問形で終えるのは他人の選択権を尊重するため、などと嘯いて、僕は実際、他人のことなんか欠片も考えていなかった。

 

僕は好き勝手に喋っていた。好き勝手に喋って、ついてこられる人だけがついてくればいいと思っていた。他人との会話というシチュエーションであるにも関わらず、僕はずっとTwitterをしていた。

 

相手が今までどんな生き方をしてきて、どんな思考回路を組んでいて、どんな会話形式を得意としていて、という他者理解を、僕は全く真面目にやってこなかった。

 

文系とか理系とか、男脳とか女脳とか、ビジネスとかプライベートとか、そういう次元ではなく、そういう次元を越えて、僕はもっと会話相手を理解しようとすべきだったんだと思った。通じないんじゃなくて、通じさせようとしていなかったんだと知った。

 

たとえば他人に、「どうして僕がこんな記事を書くに至ったか」の話をする必要ができたとしたら、そのときにはきっと適切な翻訳が必要になるだろう。

 

僕は会話相手に合わせて、会話の内容を調え、会話の形式を整え、そうして十全な会話をこなせるようになっていきたい。僕は会話相手に合わせて、主義を調え、主張を整え、思想を、理屈を、持論を、今でさえ見失ったままの本音を、そうして十全な会話を。

人の言葉には裏がある

僕は中学1年生の頃いじめられていたらしい。

 

らしい、というのは、僕自身が全く気づいていなかったから。気づかなかった故に、傷つかなかったから。

 

僕は小学生から中学1年生に至るまで、他者を溺愛していたし、他者も自分を溺愛していると思っていた。父親が癇癪を起こす人間で、母親が嫌味を得意とする人間で、その間に生きていた僕は、「本当はみんな僕のことを好きだけれど、機嫌によって態度が違うのだろう」と思うしかなかったんだと思う。

 

今でも覚えているのは、中学1年生のときの遠足でのこと。いつも制服で学校に通っていた僕らは、遠足のときだけ私服で集合することを許されていた。僕はそのとき買ったばかりだったお気に入りの服を着て遠足に参加した。

 

「クロルくんの服、超イケてんじゃん。自分のこと相当イケメンだと思ってないとその服は選べなさそう。俺なら着れないなぁ」

「クロルくん凄いね、アニメの見過ぎって感じの服で」

 

遠足当日、かけられた言葉がこんな感じだった。

 

それに対して僕が当時、抱いた感想はこうだった。

 

「みんなめっちゃ褒めてくれるじゃん……まあ気に入って買ったからな! やったぜ」

 

マジで。

 

僕は本当に他人の言葉を疑わなかった。本気で、褒められたと思っていた。なんだか言い方が刺々しいとは思ったけれど、それはみんなの語彙力が足りないせいだと思っていた。読書家である僕はそのあたりの機微を汲み取れるのだと思っていた。

本気で。

 

いつだろう、その誤解に気づいたのは。

それは普段よく一緒に帰ってくれていた友人がいきなり僕を突き放したときだったかもしれない。それは僕に対する明白な悪口を漏れ聞いてしまったときだったかもしれない。それは恋人氏が影で僕への愚痴を吐いているのを知ってしまったときだったかもしれない。とにかく僕は、どこかのタイミングで、万人が自分を愛しているわけではないと気づいてしまった。

いや、気づいたというより、直視してしまった、というのが正しいのかもしれない。僕はずっと自分を誤魔化して、人の言葉を好意的に読み替えて、それで自分を守れていたのに、自分で自分の欺瞞を理解してしまった。

 

人の言葉には裏がある。

 

僕の言葉にも裏がある。

 

僕は他者の言葉を信用できなくなった。……というと聞こえが悪いけれど、要するに、どんな言葉の裏にも「その言葉を吐くに至った経緯」とか「その言葉を選ぶに至った感情」とか「その言葉を発するに至った理由」とかがあって、なんでも好意的に受け取ればいいというわけじゃないことを知った。

 

そっからの僕は、他人の言葉について裏を読まずにはいられなくなった。「裏」というと悪い意味に聞こえるが、要は言葉の文脈、言葉の行間、というような話だ。

 

例えば。

 

「嫌いだ」と言われた場合、それは「自分から離れてほしいので冷たい言葉で拒絶します」となる場合が多く、わかりやすい(「本当は好きだけど構ってほしくて拒絶しています」というパターンは、僕のような人間に向けられることはかなり少ないのでほぼ度外視できる)。

 

「好きだ」と言われた場合、「本当に好意的に思っています」か「角の立つ言葉を選ぶと面倒くさそうなので好意的な言葉を選んでいます」かという分岐があるため、ややわかりにくい。こういうときは相手の表情を見る必要がある。

 

といったような。

 

僕自身も相手の状況や願望や行動をできるだけ考慮しながら言葉を選んでいるつもりだけれど、他者は他者で僕という人間を読みながら言葉を選んでくださっているはずで、僕は、まず声をかけてくださっていること自体に感謝しつつ、隠されている意味を読み取らなければならないと感じている。

読み取った上で、どう返すか考えなければならないと。

 

僕が他者とのコミュニケーションにめちゃめちゃ体力を使ってしまうのはこういう、勝手な読み合いを自分で展開してしまうせいだと思う。たまに「人と喋ると元気が出る」という方がいらっしゃるが、僕からすれば驚懼の対象だ。

 

「自分はいつも素直に喋っているから何も考えなくていい」と、ある友人にご提案いただいたことがあった。それでも僕は、相手の表情をこっそり伺いながら、結局は疑いつづけた。悪い意味じゃないのだ、「裏」というのは。その言葉を発するにあたって相手が考えたであろう物事というのを、僕は汲みたいのだ。……本当は。

 

そして僕が技巧的な言葉選びをしてしまうのも、きっと本当は、相手に読んでほしいから……なのだと思う。恥ずかしながら僕も、きっと素直な人間ではない。

 

と、考えていくと、他者交流というのは、僕にとって本当にかなり難しいことだ。精神的スポーツだ。それなのにここんとこ出社ばかりで在宅勤務にさせてもらえないので、僕は体力をだいぶ失っている。

僕の理想は「他者に嫌われることなく、かつなるべくひとりで生きていくこと」である。他者からいただける愛情は、大事にしたい。他者のことは、愛したい。けれど、交流は見てのとおり下手なので、程よく放置されたい。

 

つまり、まぁ、やっぱり独り暮らしと転職をしないとダメだな……。

スマホを落としたらケースに傷がついた、わかりやすい因果関係だ

問題が何処にあるのかわかっていて、その解決策さえ見出せているのに、どうしても片付けることのできない問題、というものがある。僕はこうした問題をひとつずつ箇条書きにしていつも、その大きさに絶望する。

 

ここのところ気付いたことだが、僕は、“やるべきこと”が一定量を超えると自分を見失うらしい。優先順位をつけて、時間を割いてひとつずつ対処していく、という、社会人には必須の技術が、僕にはないようだ。

 

かてて加えて、僕の抱える問題というのは、解決策を見出した上でも結局どうすることもできないという一番タチの悪い性質のものばかりで、いや、僕より優秀かつ怜悧な人間であればどうとでもできようはずのところ、僕には手のつけようがないという種類のものばかりで、僕は問題そのもののもたらす苦痛だけでなく、そうした劣等感、つまり「一般人ならとっくに解決しているだろうに」という焦燥にも傷つけられている。

 

そしてこんなことを言えばどうなるかもわかっていて、それでも僕は喋りつづけてしまう、そういうところが僕は自分でも嫌いでならない。

 

本当に、すべてを終わりにしたいと思う。問題を解決できるだけの才能がない人間は、最も簡単で手っ取り早い方法を選びがちだ。ただし、どうか忘れないでいただきたいことは、僕にとって自分の人生などもはや何らの価値もなく、従って他者が自分の人生に関わってくることについて僕は否定的なのであるということだ。平たく言えば、僕は決して君たちのうちの誰をも殺さないということだ。

 

今の僕は、命を他者に握られすぎている。「僕が死んでも悲しむ人なんていない」とかいう、アンニュイな中学生めいた感傷を抱く自由さえ、僕は奪われている。誰もが幸せになってくれたらいいと思う。そうすれば、僕のような人間がひとり居なくなったところで、誰の生活にも影を落とさないだろうに。

 

朝になれば覚めるだけ、悪夢の方がマシだ。

日本酒と金平糖

冬が舞い戻ったような夜だった。僕は汚い手を擦り合わせてわずかな熱を求めた。電車は遅れていた。

 

日本酒に金平糖を入れると旨いというので、手慰みにやってみた。アルコールの味しかしないはずの安い日本酒が、毒のようにやけに甘くなった。これは、危険だ。中に劇薬が含まれていても、きっと僕は気づくまい。

 

我が恋人は、こういう毒を僕にくれようとはしなかった。僕はどちらかというと、不幸のふりをして酔い痴れるのが好きだったのだけれど、我が恋人は真面目で真っ直ぐで、狂うことを好しとしなかった。

 

死にたい、と口にすると、我が恋人も友人も、それはいけないと言ってくれた。僕はそれを悦びながら、心のどこかで物足りなくも感じていた。僕は、死にたかったのかもしれなかった。あるいは、どこか遠くへ、行ってしまいたかったのかもしれなかった。

 

嗚呼、あらゆる他者が、我が世界を愚弄する。