世界のCNPから

くろるろぐ

他人と話すときは他人に伝わるように話さなきゃいけなかったのに今までの僕はそれをしてこなかった

 僕は他人との会話において、「この人はこう言われたいだろうから/こうは言われたくないだろうからこう言おう」というような、内容面に関する調整には気を配って生きてきたつもりだったが、

 

「この人はこういう言い方をすれば理解するだろうから/こういう言い方では理解できないだろうからこう言おう」というような、形式面に関する配慮を怠ってきていた、ことがわかった。

 

曖昧な物言いをするのは他人を傷つけないため、などと言い訳して、疑問形で終えるのは他人の選択権を尊重するため、などと嘯いて、僕は実際、他人のことなんか欠片も考えていなかった。

 

僕は好き勝手に喋っていた。好き勝手に喋って、ついてこられる人だけがついてくればいいと思っていた。他人との会話というシチュエーションであるにも関わらず、僕はずっとTwitterをしていた。

 

相手が今までどんな生き方をしてきて、どんな思考回路を組んでいて、どんな会話形式を得意としていて、という他者理解を、僕は全く真面目にやってこなかった。

 

文系とか理系とか、男脳とか女脳とか、ビジネスとかプライベートとか、そういう次元ではなく、そういう次元を越えて、僕はもっと会話相手を理解しようとすべきだったんだと思った。通じないんじゃなくて、通じさせようとしていなかったんだと知った。

 

たとえば他人に、「どうして僕がこんな記事を書くに至ったか」の話をする必要ができたとしたら、そのときにはきっと適切な翻訳が必要になるだろう。

 

僕は会話相手に合わせて、会話の内容を調え、会話の形式を整え、そうして十全な会話をこなせるようになっていきたい。僕は会話相手に合わせて、主義を調え、主張を整え、思想を、理屈を、持論を、今でさえ見失ったままの本音を、そうして十全な会話を。