世界のCNPから

くろるろぐ

雨が降っていた

とろりと虚空を眺めていたら、電車を何本も逃した。帰らねば、いけなかった。雨が降っていた。

 

なんだかんだ、近世近代の作家は恵まれていたと思う。デカダンに耽溺するだけの、余白があった。現代の僕らには余白がない。行間もない。ぎゅうぎゅう詰めの予定帳。

 

やめようやめようと思って、またやめられなかった。遠くで風の音がした。世の人は、よく正義でいられるものだ。僕は、正義のほうを塗り替えることでしか、正義でいられない。寒いと思ったら、服を着る。

 

動けないなあと思った。

 

 

第█回 中間テスト成績報告

〜科目1 試験開始〜

被験者「で、どうだった。この休日、僕と過ごして」

試験官「どうって?」

被験者「一応、掃除や洗濯や買い出しは請け負ってみたが」

試験官「うん、助かった。本当にごめんね」

被験者「謝らないで」

試験官「んー、……ありがとう?」

被験者「それで……どうだろう。少しは生活を支えられたかなと思っているんだけど」

試験官「だいぶ助かったよ」

被験者「どうかな。……こんな感じで、いつか一緒に暮らしてくれないか」

 

試験官「嫌」

 

被験者「そっか。まぁ、料理とか下手くそだったしな。まだスキルが足りないか」

試験官「料理は……まぁ、練習したらすぐ上手くなるよ」

被験者「ありがとう。精進する」

試験官「そう」

被験者「いつか、いつでもいい、一緒に過ごせる日は来ないかな」

試験官「来ないよ」

被験者「……そのうち変えてみせるよ」

試験官「……。」

被験者「……。」

試験官「……ところでさ」

被験者「ん?」

試験官「COST9の礼装ってロクなの無くない?」

被験者「わかる! QP獲得量UPとか魔術礼装EXP獲得量UPとかしかないよね」

〜科目1 試験終了〜

 

〜科目2 試験開始〜

被験者「あなたはさ、僕のこと……」

試験官「ん、なーに?」

被験者「や、何でもなかった、すまん」

試験官「えっ、なんか言いかけなかった?」

被験者「いや……」

試験官「どしたの」

被験者「僕のこと好き? って聞こうと思ったけど、あなたそういうの嫌いでしょ」

試験官「うん。嫌い」

被験者「……ね。すまん」

試験官「はー」

被験者「ごめん。でもつい聞いちゃうくらいには不安なんだ。そちらから伝えてくれたら安心する」

試験官「早く仕事行ったら?」

被験者「……行きたくねぇー」

〜科目2 試験終了〜

 

〜総合成績評価〜

中間テスト不合格。

以降、次回テストまで人生継続。

客観的“精神力の強度”=倫理観の精度×演技力の練度

 

ここのところ僕の人生は、上手く回っている。

 

思えば僕は、何に悩んでいたのだろう。少しだけ見方を変えれば、世界はこんなにも豊かで、輝かしい。ありがたいことに、僕は愛されている。支えてくれようとする人がいる。仕事はまったく順調で、家族との仲も完全に良好。金銭的な不安もほとんどマシになった。すべてが上手くいっている。焦燥に駆られる必要など、何ひとつないのだ。

 

早朝、目を覚まして僕は思わず高笑いをした。笑いだすと止まらなくて、ずっと声を立てて笑っていた。幸せのあまり、涙が滲んだ。何も考えなくて良かったのだ。こんなに簡単なことに、どうして気付かなかったんだろう。

 

陽の光が眩しかったので、カーテンを閉めて布団に潜った。真っ暗で生ぬるい空間が、僕を守るように包んでいた。温度と湿度とが少しずつ上がって、僕はじわじわと苦しくなっていったけれど、朝日に晒されるよりはずっと心地よかった。

 

これから先、僕の人生は自由だ。何をしてもいい。そう思うと嬉しくて、僕はニヤニヤした。何をしようか。何か、大きなことをしてみたい気がした。今までしたことのないような。しようと思ったことすらないような。大きくて華やかで煌びやかで、取り返しのつかないことを。

 

僕の人生は上手く回っている。

 

 

谷折り線に従って折ると同じ主題の段落が重なる文章

仕事を終えて外へ出ると、足下の地面がじっとり濡れていた。思わず笑った。また雨に打たれずに済んだらしかった。雨雲には、いつも嫌われていた。

 

電車の中で、ひとり酒盛りをしている男がいた。彼は座席を四人分にわたって占領して、肴を広げ、缶チューハイを絶え間なく飲みつづけていた。眺めていると泣きたくなってくるような、色のない光景だった。

 

そんなに遅い時間でもないのに、駅のホームは不思議と空いていた。何故だろうとしばらく考えて、ここのところずっと世間を騒がせている疫病のことを思い出した。愛される権利のある人たちは、もうとっくに家へ帰っていたのだった。

 

今日とそっくりの明日が来る。明日とそっくりの明後日が来る。

 

-----谷折り-----

 

それなのに、幸せだったかつての日々とそっくりの今日はいつまで経っても来ない。

 

マスクをした人々が足早に歩いていた。いつもなら活気に満ちているはずの駅も、ひとけがなく、どこか湿っぽくて、沈んでいた。雨のせいばかりではないだろうと思った。簡単な算数だった。すべての群衆から、愛する人と一緒に家へ引きこもっていられる人間を引くと、我々が残るのだ。

 

電車内で酒に溺れる勇気はなかったから、窓を見ていた。窓は夜めいた黒でほとんど塗りつぶされていて、外の景色よりも自分の顔の方がよく見えた。さっきの酒盛り男と同じ色をした、濁った眼がこちらを見ていた。

 

電車を降りて外へ出ると、地元の地面も湿っていた。道ゆく人々がみんな濡れた傘を片手に歩いていくのに、自分だけ一度も雨を受けないままでいるのは、なんだか仲間外れにされたようだった。

自粛ムードと夜

「こういう状況だから、会わない方がいいと思う」

『でも、どうせ会社には出るんだし、家に帰るよりあなたの家へ行く方が早いくらいなのだし』

「会社へ行くのは必要な外出でしょう。遊びに来るのとは違うよ」

『でも、家に帰るのと似たようなものじゃない? 家族には毎日接しているわけで』

「できるだけ接触する人間を減らすっていうことに意味があるんだよ」

『でも、あなたを“最低限 接する人”の中に加えたくて』

「勝手にしてもいいけど、それであなたが感染しても私は責任を取らないよ」

『でも、……ごめん。わかった』

「うん、すまないね」

『僕に会えなくて寂しい?』

「寂しいよ」

『ほんとに?』

「ほんとだよ……」

『そっか、早く会いたいね』

 

 

昔から、規則を守らずにはいられない子だった。派手な性格の人たちがルールを破って楽しむのを見て、片頬をあげて微笑みながら、静かに怒り狂う子だった。今回も同じことだ。世間が、不要不急の外出や接触をするなと言ったから、あの子はそれを守るのだ。わかっていたことだった。あの子は、自分を嘘つきだというけれど、実は誰よりも正直だった。僕は、自分を正直者だというけれど、実は誰よりも嘘つきだった。

 

例えば僕らが家族だったなら、僕が仕事を終えて帰宅するだけで、僕らは会えたのだ。できるだけ接触する人間を減らす、といっても、自宅に居る人間と接触しないということはできないのだから。無茶なことをするつもりなんてなかった。ただ、部屋の中でふたり、疫病に怯えたふりをしながら過ごせればよかった。あの子がゲームに熱中していようが、僕を無視して過ごそうが、僕は構わなかったのに。

 

会社に程近い路上で、泣きながら酒を飲んでみた。まっすぐあの子の家に向かう方がよっぽど、健康的だったような気がした。夜桜。夜風。夜空。夜闇。ひとりで過ごすのがやたら難しい夜だった。完全に正直な気持ちを述べるなら、僕は疫病なんてどうでもよかった。

 

自分がどうしたいか、ということについて、僕はどんどん鈍感になっていた。誰かが決めてくれたことに、ただ身を任せたかった。自分の意思というものが驚くほど欠落してしまった。本当に、どうなっても構わなかった。いっそここで、