世界のCNPから

くろるろぐ

汗の話

流汗淋漓の夏である。

 

記録的云々と謳われる極暑、行き交う人々の肌には珠の汗がヌラヌラ光る。こと美しきは首筋を伝う汗である。拭うタオルの蠕動も艶かしい。蝉時雨の静けさ、肌を灼く陽光、溶け合う汗の匂い、汗。汗、汗。

 

ところで僕は、汗の香に逆らえない。

 

鉄道は地獄の宝箱である。汗もしとどに、汗水漬く、着物の色さえ染めかえて、人々は夏の酷暑を黙しつつ語る。濡れた空気の下にあって、人間は皆ただの濡れたヒトである。僕はその湿度を愛好する。

 

数多のヒトが流す汗は縦糸と横糸である、織りなされる紗はシックリと僕の肢体を包む、僕の鼻腔を潤わす。悪臭と呼ばるるくらいが丁度いい。そも世の中というものはたいてい悪臭に満ちているのだから、悪臭を愛せる者が勝つのも道理なのではあるまいか。

 

例えば。君ねえ何度も同じ説明をさせないで呉れないか時間の無駄じゃないか、僕の先輩は度々そうして僕を責めるのであったが、僕はそういうとき、ある瞬間から自責の念を見失うのである。先輩の肌から立ち上るは馥郁たる汗の匂い、鼻先を妖精が掠めるような、それは打撃であり暴力である。

 

化粧も香水も用いない先輩であるから、それは生の香りとして僕の鼻を殴る。二十五、六の女の肌が斯様に香るとは知らなかった。赤子の唾液を薄めつつ、老婆の吐息を練りこんで、そこへ性的なる何ものかをヒトヒラ混ぜ込んだような、芳香、である。香水に慣れた都会人は眉根を寄せるだろうが、僕にしてみれば抗いがたき誘惑、淫靡の限りを尽くした罠である。小狡いひとめ。

 

屠るには遠すぎる恒星、砕くには固すぎるアスファルト、僕たちは結局のところ、天と地との狭間で汗を流しておくほかないのである。となれば、カンと冴え渡る夏空の下、お天道様の目を盗みつつ、地上の薄暗いエロスに鼻をひくつかせるくらいの愉しみは許されてもよかろう。

 

妖姿媚態の夏である。