世界のCNPから

くろるろぐ

FOREVER

平常と違う電車に乗って、平常と違う駅で降りた。どこもかしこも学生だらけだ。中学生、高校生、大学生、これらをひっくるめて学生と呼ぶならば。

若い人間を目にしてシンミリすることが増えた。数字だけ見ればまだ若く、経験だけ挙げればまだ幼く、若造、弱輩、青二才の類に分類されるはずの自分であるが、いわゆる「若さ」なるものを、少しずつ少しずつ失ってきているという感覚が日に日に増す。身も心も重い。光陰矢の如し。日が昇り日が落ちる、一日一日が矢のように弾丸のように飛び去っては視界から消えていく。空隙。時の経過は恐怖である。

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過去を振り返るのは恐ろしいことだ。未来に思いを馳せるのも苦しいことだ。となれば、目を向けるにふさわしいのは“現在”しかないという結論に至る。しかしながら、一瞬前はすでに過去であり、一瞬後はつねに未来であるから、“現在”を生きるというのはそうそう簡単なることではなく、すなわちほんのひと刹那をのみ……眼前に広がるこのタッタ今の景色をのみ眺め味わう、ということなのだろう。

 

 

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So we eat meat forever.

 

 

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SO WE EAT MEAT FOREVER.

 

 

肉を食った。もう親の仇ってくらい食った。

 

眼前に広がるこのタッタ今の景色をのみ眺め味わった。

 

まだ書いていない提出書類のことも、昨日の失敗のことも、来月のカード代のことも、明日の仕事のことも、すべてが過去か未来かに分散して遠景となり、ただ目の前の肉だけが圧倒的な“現在”として迫ってきた。甘い脂。牛に対する感謝感激。思うに、人生とはかくあるべきなのだ。華々しきかな。

 

そして、今。僕は強烈な胃もたれに悩まされていた。

いわゆる「若さ」なるものを、少しずつ少しずつ失ってきているという感覚が胃に胃に増す。胃も体も重い。満腹。牛の脂は凶器である。

 

 

そういえば今日はハロウィーンだった、というのを、渋谷駅に降り立ってから思い出した。渋谷を跋扈する若者たちは、“現在”のみを見据えて生きる、という点においてかなり優れているように見えた。もちろんそのように見えただけかもしれないが。

といっても、いずれにせよ自分があのようになれるとは思えなかったし、なりたいとも思わなかった。無許可のまま大挙して公道を占拠するという、いかにも“現在”的なオアソビは、きっとずっと自分の気分・思想・価値観に合致しないだろう、ということが自分自身でも把握できていた。焼肉をガツガツ貪る“現在”の方が性に合っているのであった。恐らく、人には十人十色の“現在”がある。

 

まあ何はともあれ、日々トリックを味わっている社会人としては、トリート……というよりミートを味わいたかったのであった、とかなんとか言っておけば、記事がシックリまとまるだろうかね。

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50記事

ふと見たら計50記事になっていた。

 

ここ数ヶ月の間、何かしらガンガン書いてきたので当たり前かもしれない。そもそも僕は本当は文章を読むのも書くのも大好きなはずで、こういう場でもいいからどんどん書くべきだったはずなんだな、というのをしみじみ感じている。

何となく、しっかりまとめたものをそれなりの何かに披露しなきゃいけないような気がしていたのだけども、しっかりまとめるためにはまず文章それ自体の練習と研鑽とが必要だったんだなと気づく。高いところへ登るには、まず低いところへ手足を引っ掛けなくてはいけないのだ。

 

といっても振り返ると大したことは書いていない。僕はもともと自己中心的で自己本位な人間なので、基本的に自分のことしか考えていないし、書けない。徹底的に一人称的だ。

そういう記事ってのはどちらかというと「女の子」が書いた方がモテるんだよなあと思いつつ(何といっても、かわいい「女の子」の頭の中身にはみんな興味があるものだ)、それでも「童貞男」のクロルは記事を重ねている(不細工な「童貞男」の人生なんて誰も興味を持たないにもかかわらず)。自分は何がしたいんだろうと思わないでもない。ま、そうやってやってきちゃったしな、くらいのものだ。

そもそも人は一人称視点以外で世界を捉えることなんてできない、そして文学に触れてきた人間は自分でもそれを書きたくなってしまうものだ、という言い訳をして誤魔化しておく。

 

そんなわけで、懲りずにまだまだ何かしら書きつづけたいと思っているので、もし気が向いたらご覧いただければと思う。気が向かない場合は無視していただければと思う(ツイッターに何事かを語るとTLに流れ込んでしまうが、こうしてブログに切り分けておくと「嫌なものは見ない」という選択肢を取っていただきやすいはず、と思ったからこういう形態をとっているふしもある)(見る見ないの判断を委ねてしまって申し訳ないのだけれども)。

本来は僕のようなカスが自分語りなどすべきではないし、自分の中だけに抑えておくべきだということも分かっちゃいるんだよな。

という予防線を張りつつ、今後ともやっていきます。

 

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寄生虫を見にいった

日曜日の昼下がり、寄生虫を見にいった。

 

場所は目黒寄生虫館公益財団法人目黒寄生虫館 )。大通りに面した高級住宅ふうの立派な建物だった。

一階は「寄生虫の多様性」と題した展示で、哺乳類の内臓や魚類の眼球に寄生した虫たちの漬物が並んでいた。二階の展示は「人体に関わる寄生虫」というテーマで、寄生されている生物をウッカリ生で食してしまったヒトに寄生するタイプの寄生虫だとか、汚い土やなんかから直接ヒトに襲いかかってくる寄生虫だとか、の解説をしていた。

さほど広くなく、けれども展示は充実しており、じっくり見ても疲れないというのがよかった。

 

 

それにしても「寄生」というのは面白い在り方だ、と思った。いくつか僕の興味をひいた話を書き留めておく。

 

とある寄生虫は、「寄生世代」と「自由生活世代」という二つの生き方を持っている、というのを見た。そもそも、(簡単にいうと)「寄生虫」とは何かに寄生しないと生きていけない虫のことで、「自由生活性」の虫というのは自力で生きていける虫のことだ(多分)。しかし寄生虫の中でも、状況に応じて寄生して生きたり自由に生きたりするものがあるらしいということである。

ちょうどよい時期にちょうどよい宿主を見つけた個体は、その宿主に寄生しながら生活し生殖し、「寄生世代」の寄生虫となる。一方、適切な宿主に出会えなかった個体は、自然界の中で自ら生活し生殖し、「自由生活世代」の寄生虫となる。という話である。

 

また、寄生虫によっては、自らの生活にとって最適な環境でないかぎり成虫化しないものもあるらしい、というのも見た。そういう寄生虫はひとまず宿主に寄生するものの、幼体のまま動き回っては宿主の体を傷つけるようだ。こういうのがよく人体に被害を及ぼす寄生虫として話題になるものらしい。

 

また、展示の中に、寄生虫とそうでない虫との特徴を比較したものがあった。曰く、寄生虫の尾肢は、自ら泳ぐ必要がないため退化している、そうでない虫の場合は、自ら泳いでいくために筋力のある尾肢となっている、とのこと。また寄生虫には宿主にしがみつくための脚しかないが、そうでない虫には歩くための長くしっかりした脚がある、とのこと。

 

といった感じだ。思いのほか混雑していたため少し居づらかったが、以上のような展示物を読むくらいの余裕はあった。

 

 

 

しかしまあ、どうしてこのあたりが気になったんだろうな。ハハハ。

 

 

捻転胃虫という寄生虫がいた。宿主から吸い上げた血液に満ちて真っ赤に染まった腸管と、対照的に真っ白な卵巣とが、紐状になって絡み合っている……という構造をしていた。いいね、と僕は思わず呟いた。消化器官と生殖器官としかない。食事と生殖としかできない。寄生による生活。依存による一生。いいね。僕は呟いてしまってから、苦しくなって黙った。

宿にされる方からしたら、たまったもんじゃないわけだから。

人間関係ハシゴ酒

酒を飲んだ人間ほど面白いものもないと思う。自分自身も含めて。

 

今夜は宴会があった。

僕は完全に素面のまま、上司たちの酔いどれ姿を見ていた。といっても誰も大学生ではないので、誰の酔い方もそこまで派手にはならなかった。ほどほどに酔い、ほどほどに抑え、ほどほどに笑って、みなシャンと歩いて帰っていった。

 

僕は場のノリに合わせて騒げるタイプの人間だ。そしてこうして一瞬で空虚な表情に戻るタイプの人間だ。

誰にも気まずい思いをさせたくないし、誰のことも傷つけたくない、不快な思いをさせたくないし、不穏な空気を味わいたくない、だから人々の集まる場が温まっているときは、その温度を下げない振る舞いを心がける。上手くやれているかどうかはわからない。

一方、僕はこういう会が終わったあとによく真顔で思案タイムへ突入する。自分の言動が不味くなかったかどうか、という反省タイムでもあり、他人の言動がどうであったか、という反芻タイムでもある。

 

人間関係というのは不思議なものだ。A氏はふだんB氏を嫌っているようだったのに、今日の二人は仲良く話していた。C氏はいつもD氏を叱ってばかりなのに、今日の二人は楽しげに笑っていた。

人の好悪は計り知れない。状況に応じて表情も態度も言動もくるくる変わる。どれが真実でどこが虚偽なのか、自分は結局のところ好かれているのか否か? 見極めることなどとてもできない。

特に社会人というのは仮面をかぶるのが上手い。僕はこの社会において、自分が好かれているかもしれないなどという幻想を持たないよう気をつけておかねばならないと常々思う。思っているからこそ、僕はいま素面なのである。

 

人が集まってワイワイ話しているのを見るのは、面白くもあり恐ろしくもある。「本当はこの人とこの人とは嫌い合っているはずなんだよな」というのを考えてしまう、「本当はこの人ってこの人に対してずっとキレているんだよな」というのを思い出してしまう、「本当はコイツお前のこと苦手だったらしいよ」なんて言葉を思いがけなく耳にしてしまう。耳にしてしまった。恐ろしいことだ。そして面白いことだ。

言うなれば、宴会それ自体が酒である。あるいは人間関係それ自体が酒である。人を酔わせておきながら、あとでそれを後悔させるのが甚だ上手いのである。乱痴気騒ぎに一時の慰めを見出しても、こうして二日酔いめいた疲労が襲いかかってくる。愚かしい話である。

 

社会の中で生きていくにあたって人間関係を避けることはできないなと、しみじみ思う。けれども僕は人間関係を編むのが極端に下手で、あちらへフラフラ、こちらへヒラヒラ、或る居酒屋で浴びるほど飲んで、別の居酒屋で溺れるほど飲んで、翌朝には自責と悔恨、僕にとっての“人間関係”とはそういうようなものなのだ。ハシゴ酒。人間関係ハシゴ酒。酔っ払っている自分自身も含めて、酒を飲んでいる人間ほど面白いものもないと思う。

道端のゲロ溜まりは“避けて通られる”という時点で実はかなり気にされている存在だ

ともかくも新宿を歩く人間は

顔がいいなと思った次第

(心の川柳)

 

大きなものを入れておける袋が必要になったので久々に新宿へ出向いた。この時間帯、新宿駅東口のあたりはかなり混み合っていた。行き交う人々とぶつからないよう自然と肩を動かして、何だかぼうっとしながら歩いた。空は黒、街明かりは白、緑、赤、青。いろんなものが光の中に溶けて見えた。人間自体からも光が発散されているようだった。

 

ともかく都会の人間は顔がいい。どんな親の元へ生まれ、どんな環境で暮らし、どんな生き方をして、どんな価値観を持ち、どんな人生を送ってくるとああいう顔になるんだろうかと、いつも思う。顔だけでなく背丈や体型もいい。すらっと背が高く、骨と筋肉とが造形美の限りを尽くしている。服もいい。流行なんて分からないけれども、彼らが自分という作品を最もよい方法で表現しようとしているのはどことなく伝わってくる。誇張でなく、ちょっとした芸能人になら簡単になれるだろうと思われるような美しい人たちが新宿という街には本当にワラワラ歩いている。

 

そういう中にいると、僕は自分の生きているのが恥ずかしくなってくる。

 

自分で自分の造形を気に入ることができないというのは悲劇的なことだ。鏡はできるだけ見たくない。すれ違う人々の笑い声が僕の醜さを嘲笑う声なのではないかと感じる。盗撮されてツイッターに晒され、「マジで気持ち悪い奴おった」などと叩かれるんじゃないかと怯える。人前に出るのがとても嫌だ。目立つはずがないとわかっていても嫌だ。

 

とはいえ、僕は実をいうと他者からイケメンだと思われたいわけではない、と思う。ここはちょっと面倒くさい感情なのだが、要は自分で自分のことを気に入ってみたいという話なのだ、たぶん。

自分で自分のことを気に入っていないから、他者から有難いお世辞(と書いて「おほめ」と読む)のお言葉をいただいても、感謝はすれど納得はできない。だって自分じゃイイと思わないんだよな、となってしまう、こういうところがあるせいでよく頑固だと言われてしまうんだけれども。

自分で自分のことを気に入っていないから、他者から嘲笑されているような気がしてしまう。嘲笑されうる状態である自分を意識してしまう。誰も見ちゃいないのに、誰にも見られたくないと感じる。

上手い例えが思いつかないが、そうだな、チャック全開で街を歩いていて、自分でもそれに気づいているのに、どうしても閉めることができない……開けたまま歩かなくてはならない……というような気分に近いだろうか。汚い下着はチャックを上げれば隠せるけれども、汚い顔面はなかなかうまいこと隠せるものじゃない。低い背丈も、太った体躯も、濁った地声も、腐った体臭も、ズボンで覆っておくというわけにはいかない。穢らわしい姿をお見せして申し訳ない、などと口先で謝罪しつつ、晒しながら歩いていくしかないのである。

 

まあ冷静になってみれば、道行く人々は僕のことなど道端のゲロ溜まり以上に気にしていないようだし(道端のゲロ溜まりは“避けて通られる”という時点で実はかなり気にされている存在だ)、何もそこまでゴチャゴチャ恥じ入る必要はない。はずである。身近な人は僕の外見を一切気にしていないようだし(そもそも僕のことを見てすらいないのではと思う)、このままでも支障はない。はずである。

けれどもけれども、やはりチャック全開で歩きたくはないなと思ってしまう、という、この見栄は、はたして誰に宛てたものなんだろうと考えだすと、暗澹。何しろ誰も気にしていないんだからな。

などと思索を広げていくと、これは容姿に限った話じゃないな、なんてところに行き着く。こんなブログをこうして書きつづけてしまう僕は、洗濯もしていない下着をこうして見せびらかしながら歩きつづけてしまう僕は。……

 

帰り際、今日の月がひどく明るいということに気づいた。月は月自体が光を発散しているわけじゃないのにあんなに綺麗なわけで、そういう手もあるんだよな、とかなんとか、かんとか。まあ月自身はそんなこと考えちゃいないだろう。

本当はすべてどうでもいいことなのだと、思えたらいいのにと思った。