世界のCNPから

くろるろぐ

皮膚

ここ何週間も会えなかった某に今週こそ会いたくて、なりふり構わず連絡を入れた。某は以下のように答えた。

 

「ダニだか皮膚炎だか分からないが、ともかく自分の肌が酷いことになっている、感染性のものだと怖いので、食事くらいならいいが泊まりにくるのは困る」

 

僕は卒倒しそうになりながら、構わないからそばに置いてくれと訴えた。某は僕のしつこさに負けて折れた。僕がどれほど頑固で独りよがりな人間であるかということを、某は誰よりもよく知っていた。

 

皮膚炎に関しては太宰も作品にしている( 太宰治 皮膚と心 )。皮膚に異常を感じている真っ只中の人間がどれだけ卑屈になるか、太宰は知っていたのだろう。

命に関わるほどの病ではないけれど、確かに健常な状態からは外れている。容貌に影響する。そして、「触れる」という単純な行為によって感染しうる。そういった要素のひとつひとつが、やりきれない、どんよりとした感覚を患者に引き起こすのだ。

 

「自分に触れた人間が感染して、自分と同じ苦痛を味わうことになるかもしれない」というのは恐ろしいことだ。他者との接触、ただそれだけのことが危険行為として認識され、自分の殻に引きこもることを余儀なくされる。某が僕を退けるのも当然のことだろう。

 

まあ、そうやって半ば強制的に人から切り離され孤立を味わうというのも、悪くないものではある。誰も自分に触れられない、誰も近づかないでくれ、という、寂寥の感を湛えた万能感。ひとりぼっち、という味わい。そうして自分自身と向き合う機会だと、捉えようと思えば捉えられなくもない。自省というものは孤独の中でしかなしえないものだ。

 

それでも僕は会いに行くと主張して引かなかった、そういうところが僕のダメなところだと分かってはいた、しかし僕は僕でいっぱいいっぱいだったのだ。皮膚によって心がやられた某と、心によって皮膚がやられた僕と、今週は共に過ごすこととなる。

 

どうせ大して触れ合いはしないだろうしな。

ファンタジックな比喩ばかり

700字から1000字ほどの記事を、さっきから書いては消している。何ひとつ、まとまらない。ぼんやりとした不満あるいは不安のようなモノが頭の中に渦巻いていて、何をするにもふわふわしてしまう。

それでも書いてしまうんだけれども。僕は詩人«ポエマー»だから。

 

某は仕事が忙しくなってきたので、僕の優先度を低めに設定するようになった。連絡の頻度がじわじわ減るのでわかる。僕に構っている余裕がないのだ。逼迫した現状を打破するため、それ以外の物事については後回しにせざるをえない、そういう状況なのだと思われる。

そうして後回しにされた僕は今日もとっととおとなしく寝ることとなる。

 

とはいっても、僕はそういう関係こそ理想的だと捉えるようになってきた。相手が自分のそばを離れることはない、と知っているからこそ許される態度、横暴なほどの信頼。背中を預け合うような。

「自分の背後の敵は相棒が斬ってくれるから、こっちは自分の眼前の敵だけに専念しよう、大丈夫、うちの相棒は死なないから」、みたいな。

 

まあ某の場合は僕がいきなり居なくなっても構わないという感覚でそういう態度を取っているだけのような気もするので、僕の理想とは若干ずれてくるかもしれないが。

 

某はどちらかというと、「自分の周囲の敵は自分で片付けるから、そっちはそっちで巻き込まれない場所まで離れて、そっちの敵と戦っていてくれ」というようなタイプなんじゃないかと思われる。危なっかしいと思って手を出そうとすると、互いに互いの武器で互いを傷つけてしまう。よって僕らは離れた場所で、それぞれの敵と戦う。あらかた片付いたら汗を拭って笑い合う。確かに、これはこれで悪くない。

 

しかしこれだと戦いは個人戦でしかなくなるので、相棒の存在が希薄になりすぎる。距離がある分、背中越しに相棒の剣戟の響きを聞いたり息遣いを感じたりということができない。相棒が何と戦っていて、今どのくらい斬り伏せたのか、何も分からない。あとで報告される戦果だけが証明になるわけだが、その報告は“過程”の意義を剥奪してしまう。そして最もよくないのは、相棒が怪我を負っていても気付けないという点だ。

 

ファンタジックな比喩ばかり使ってしまったが、つまり僕が言いたいことは、もっと頼ってもらえたらいいのにってことだ。

 

某の性格ゆえなのか、はたまた僕に頼り甲斐がないからなのか、ともかく某は単独で物事を片付けようとするし、そういう「片付け」期間になると内に籠もりがちになる。

余計な手出しをして逆に邪魔をするようだといけないので、僕は見守るほかない。しかし、僕の周囲の敵なぞ大したものじゃないのだから、どちらかというと某の助太刀をしたいというのが本音だ。

 

いやもっと本音を言うなら、単に僕が寂しいってだけの話なんだが。岩陰の向こうで某が苦戦していても、僕はそれを助けることができない、慰めることもできない、話しかけることさえできない、こんな寂しいことがあろうか。

 

なんて、こんなのは僕の傲慢だ。

「頼ってくれ(構ってくれ)」、というような態度がいかに某の迷惑となるか、僕はさすがにもう学んだ。普段は邪魔にならないよう見守り、時たま休憩しにきたときは全力で鼓舞し慰撫し、常に陰ながら応援する……そのくらいがちょうどいい。

 

どうせ戦いが終われば岩陰からひょこっと顔を出してくれるだろう、ということくらいは信じないといけないよな、などと思う、今日このごろ、だ。

 

僕は詩人«ポエマー»だからな。

ちなみにだけど、「永遠と続く」は誤記だよ。「延々と続く」が正解だ。

いつも使っている駅のホームでふと目を上げたらラブホのネオンサインが見えた。僕がすべきだったのはポエムを書くことじゃなくてセックスをすることだったのかもしれない。

 

僕の知り合いに文学青年がいた。数年前に会ったきり、もう全く会っていない。顔すら忘れた。最後に会ったとき、彼は家賃2万円の連れ込み宿を持っていて、たまに女の子を連れ込んでいると言っていた。感銘を受けた。僕のイメージでいうと、堀辰雄系の文学者であれば不要だが、太宰治系の文学者をやっていくなら確かに連れ込み宿は必要だと思った。

 

太宰治」は罪深い存在だ。彼の本名は津島修治という。しかし文学研究の場以外において、iPhoneが一発変換してくれないくらいには無名らしい。「太宰治」といえば大抵の人には一発で通じるっていうのに。そのくらい、津島修治は「太宰治」を作り上げるのが上手かった。津島修治という語り手が、「太宰治」という存在そのものを作品として語りあげたのだ。そして「太宰治」は、誕生日の6日前に入水自殺を成功させ、誕生日当日に愛人とともに引き上げられた。なんと美しい幕引きだろうか。「太宰治」とはそういう存在で、だからこそ文学者たちに目をつけられているんじゃないかと思う。存在そのものが作品だからだ。

 

で、そんな「太宰治」は、女性関係において(芭蕉風の言い方をすれば)一種の「軽み」を持っていた。不倫だとか心中未遂だとか、自棄的な、されど自己愛的な、オタクに好かれそうな態度を示していた。「文豪ストレイドッグス」や「文豪とアルケミスト」のような昨今のゲームにおける太宰の扱われ方を見ても、「太宰治」がいかにオタク好みの人生を歩んできたかというのがわかる。イケメンのメンヘラはモテる、それは1948年なんかでも現代と変わらないことだった。そういうキャラクター性を確立し、それを維持し、生誕から自殺に至るまで描き上げたというのは本当に寒気のするようなことだ。

 

そんな「太宰治」の雰囲気を現代で纏うならば、やはり連れ込み宿は必要だ。しかもできれば様々な好みの女の子を連れ込むべきだし、そのうちの誰にも執着すべきでない。そして自分自身のそういう生活をひっそり愛さなければならない。女に対する同情など抱えなくていい。自己愛、自己探求、そういうのの中に、寂寞、そして性行為、そんな感じであっていい。

 

先に述べた文学青年の言葉として、印象に残っているものを引用したい。「セックスは楽しい、けれどセックスは下らない」。一度でいいからそういう言葉を発してみたいものだった。彼は、本物だった。

彼は自分の肉体がそれなりに引き締まった健康的な男性であることを誇りに思っていたから、僕のようなブヨブヨした存在のことは実のところかなり見下していたようだったが、僕はそれでも一方的にすごいもんだと思っていた。

 

じゃあ僕は堀辰雄系の文学者になれるのかというと、それはそれで不可能な話なのだ。堀辰雄といえば「風立ちぬ」が有名だが、あれを全編とおして読んでいただければわかるように、セックスだの何だのといった水っぽい話は出てこない。堀辰雄も性は描くんだけれど、空気が違う。あの透き通った、フランス文学の「ロマンス」の系譜を引く、美しい「愛」の物語は、僕のように半端に汚れたメンヘラには真似できない。僕は汚い。堀くんのようにはなれそうもない。

 

堀辰雄が小説を書いていた時代は言論統制が激しく、政治的な内容を扱う小説が許されなかった。ゆえに、多くの作家たちが投獄されていた。しかし堀辰雄はそもそもそういう小説を書かなかった上、周りの作家たちから可愛がられていたので、上手いこと匿われて一度も投獄されなかった。誰も堀辰雄を告発しなかったのだ。そういう愛され気質というのも堀辰雄特有のものであって、僕には再現できそうもない。

 

何の話をしたかったんだっけ。ネオンサインの話か。ネオンサインとはいうものの、ネオンじゃなくてLEDだろうな。太宰治堀辰雄もとっくに死んだ。平成も終わろうとしている。時代が変われば文学者の姿も変わるということで、僕も何かしらひとつのスタイルを打っ立ててしまえばいいんだよ。とかいって、またセックスの代わりにポエムをやっちまった僕はたぶん延々とこんなままだろう。ちなみにだけど、「永遠と続く」は誤記だよ。「延々と続く」が正解だ。まあ、こういうのも時代とともに変わるんだろうけれど。

バイ春クロル2019冬 〜江ノ島パラリラ〜

数秒前に気づいたのだが、これが記念すべき100記事目となってしまったらしい。感慨深い。正直なところほぼ全ての記事が誰の役にも立たないポエムなんだけれども、自分の書いた文章を人に見てもらえるというのは非常に嬉しいことなので、何だかんだ今後も続けていきたい。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

さて。そんな100記事目は江ノ島の話だ。

 

去る2月3日、江ノ島へ行った。

f:id:CNP:20190216230225j:image

 

ちょっと前にうっかりトイカメラを購入してしまったので、埃を被らせるわけにはいかないのだ。

cnp.hatenablog.com

 

とはいえ家にいても撮れるものがない、ゆえに散歩がてら出かけた。トイカメラというのは作りがとにかく「おもちゃ」であるから、室内だとやはり明るさが足りない。晴れた日の太陽光を使う方がいい。たぶん。

んでその写真がさっき現像・プリント・CD化されたため、今こうして記事にしているというわけである。

 

じゃあ行きますよ。

 

【バイ春クロル2019冬 〜江ノ島パラリラ〜】

 

まず最初に言っておきたいことがある。

晴れているからといってバイク日和だとは限らない、ということだ。

 

空は青く澄み渡り、海を目指して走る……怖いものなんて……怖いものは…………

 

2月3日、天気はすこぶる良かった。だから調子に乗ってしまった。たまには高速道路を使いましょうか〜と思ってしまった。それが間違いの始まりだった。

衝撃の、風。

とてもじゃないが調子にも高速にも乗っていられなくなって、途中で降りた。しかし下道は下道で混んでいてつらい思いをした。ライダーを名乗る気があるなら天気予報を見る際に風向と風速も見ておくべきだと強く学んだ。いやもっと早い段階で学んでおけよ。

 

そんなこんなで江ノ島へ。

トイカメラ・Diana F+の実力を披露していきましょう。

shop.lomography.com

 

 

とりあえず、江ノ島といえば海(偏見)。海を撮影した。

まず比較のためにiPhone 8 Plusの写真。

f:id:CNP:20190216225636j:image

f:id:CNP:20190216225546j:image

 

 

そしてこちらがお待ちかね、Diana F+の写真、だ。

 

f:id:CNP:20190216204833j:plain

f:id:CNP:20190216204735j:plain

 

ふふ。ふふふ……。

 

おわかりだろうか。この暗さ、この手ブレ。

トイカメラ初心者感が前面に押し出されていて最高だ。……まあそれはさておき、ちょっとした日陰でもこんな感じになるのだというのがよくわかった。スマホの写真と比べるとよくわかる。

 

そしてもうひとつの注目ポイントはこの「平面感」である。特に1枚目など、遠くにあるはずの建物群がのっぺりして見えるし、近くの波模様も薄れているし、なんとなく「古い写真」の感じが出ている。

 

さらにさらに、画面上部、常に赤みがかっている。多分これが噂の「光漏れ」だと思う。カメラの隙間から入った光がフイルムに当たってしまうと発生するものだ。テープか何かを使って防ぐ方法もあるのだが、今回はそのままにしておいた。公式サイトでもオススメされているので。

www.lomography.jp

こんなに綺麗に出ないのだが……? まあ素人だから仕方ないね。

 

とにかく初心者なりに結構いっぱい撮ったものの、暗かったりブレていたりしてお見せできないものばかりだったので、いくつかそれなりにはっきり撮れていたものをご紹介する。

f:id:CNP:20190216204459j:plain

 

f:id:CNP:20190216204529j:plain

 

f:id:CNP:20190216204602j:plain

どうかな。

どうかな!!!

 

ノスタルジイ、感じませんか。

 

なんとなく最近の風潮のせいで「彩度低め (※色が薄い) + 周辺光量落ち (※写真の四隅周辺が暗くなっている)」というのがいわゆる「サブカルメンヘラ」の十八番みたいになってしまっているので、そういう目で見てしまうとそういう写真にしかならないのだが……。

しかし逆に考えてほしい。こういう写真はトイカメラが先であって、スマホ写真はそれに似せて加工しているんだぞということを。

 

ちなみに公式サイトによればDiana F+はもっとビビッドな色が出るカメラのはずなんだけれども、天気も僕の性格も暗かったせいなのか全体的に色味が抑えられているような気がする。なかなか難しい。

 

まあでも個人的には気に入ったよ、トイカメラ

 

 

ところでトイカメラというのは光を取り込むのが苦手なカメラである。よって、

その結果がこちら。

f:id:CNP:20190216204627j:plain

下手くそ。
こんなだから童貞なんだよ。

 

嬢に土下座してもう一枚やってみた。

f:id:CNP:20190216204659j:plain

ゴムをつけるときの刺激だけで射精したみたいな写真になった。

 

外が暗いからキツイかな〜と思って手持ちのくせにバルブモードでシャッタースピードをめちゃくちゃ遅くしたのが原因である。手ブレするに決まっているのだから普通に撮ればよかった。

 

※バルブ撮影については以下をご参照いただきたい。クソ簡単にいうと「普通の撮影だとシャッターボタンを押した瞬間だけ撮影するが、バルブモードではシャッターボタンを押している間ずっと撮影しつづけてそれが一枚の写真になるので、シャッターボタンを押しつづけたまま手ブレを起こすとそれが写真に写ってしまう」というような話だ。……という説明でだいたい合っていると思うんだけれども。

ptl.imagegateway.net

 

でもこれはこれで綺麗なんじゃない? 味わいなんじゃない?

光自体は問題なく取り込めそうなので、おとなしく三脚を用意して挑めばそこそこ面白いものを撮れるだろうと思う。ちゃんと「ビビッドな色」も出ているしね。

 

 

自分のバイクも撮ってみた。

まずiPhone 8 Plus。

f:id:CNP:20190216225759j:image

 

以下がトイカメラ

f:id:CNP:20190216204158j:plain

SO COOL...

 

ちなみにここは「江ノ島なぎさ駐車場」というところの近くにある無料のバイク駐車スペースである。しかし意外と人気はなかった。……盗難される可能性が高いからかもしれない、と気付いたのは後になってからだ。

 

この駐車スペース以外にもバイクを停められる場所はたくさんあり、やはり江ノ島というのはライダーに人気のスポットなのだろうと感じた。が、湘南のバイクっていうのは「ガチ」のバイクなので、まあちょっと怖くもあった。

三段シートに旭日旗を刺してパラリラパラリラ高らかに鳴らしているバイクが現存していると思っていなかった僕は相当ビビってしまい、慌てて帰宅した。

 

f:id:CNP:20190216224928p:plain

( 参考: 暴走族のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや )

 

 

というわけで今回のバイ春クロルはここまで。トイカメラも加わったことで楽しみが増してきたので、また景色のいいところへ行きたい。

 

その前にパラリラパラリラ鳴らすやつ付けるか……(つけない)。

観劇はまだガンには効かないがそのうち効くようになる

演劇を観てきた。

 

前日になって某が都合をつけられなかったため1席キャンセルした・寝坊した・「赤羽駅」と「赤坂駅」を間違えてめちゃくちゃ時間がかかってしまった・結果として遅刻した……等々、正直なところ僕は到着する前の時点で精神を参らせていたのだが、それでも観てきた。

 

僕は演劇を観に行って後悔したことがないからな。

 

コメディシーンで笑い、シリアスシーンで泣き、場の雰囲気そのものを楽しみ……なんというか、「感情を任せる」感覚を味わえるのが演劇のよいところだ。

登場人物の誰かに感情移入することで自分自身の感情を忘れている、というのとはやや違う。観客として空気や壁と一体化し、物語そのものに没頭することで自分を見失っている、という方が近いかもしれない。僕の場合は。

 

僕は観劇後しばらくボーッとしがちで、異世界(劇場)から現実世界(外)に帰っていってもまだ夢の中にいるような状態を抜けられないタイプだ。役者さんたちと話すときもかなりボケッとしていたような気がする。

そのくらい、作品に没入しすぎるので咄嗟に帰ってこられないのだ。自分がどこにいるのかすら見失ってしまうのだ。この感覚をも含めて「観劇」だ、という感じがする。

 

とはいえしばらくして落ち着いてから照明担当氏に3000字くらい感想文を投げておいた。✌︎('ω')✌︎

 

ハコの中は異世界である。すなわち観劇とは異世界旅行である。異世界には現実世界の苦痛も苦悩も入ってこられないので、安らかだ。

まあそれは僕が観客だからであって、そんな空間を実現してくださる劇団サイドは「安らか」どころの騒ぎじゃないんだろうな。いつもありがとうございます。あまりご無理をなさらないでください。

 

しかし精神安定剤が抑え込めなかった感情を、90分間の演劇作品が抑えてくれたらしい。つまり冷静でいたかったら常に演劇を観ていればいいのでは……?

さらに演劇を観たあとはいつも謎の意欲に満ちるので、観劇ってのは無気力にも効くのだと思う。観劇はまだガンには効かないがそのうち効くようになる。

 

とてもよかった。この感覚、ちゃんと捕まえておきたい。

以上。