世界のCNPから

くろるろぐ

ケツから出血

 

チャラリーン、ケツから出血。

 

切れ痔になった。キレそう。

 

キッカケが全くわからなかった。いつものように厠へ行き、いつものように用を足し、ふと違和感を覚えたと思ったら出血していた。

 

なぜなんだろう……菊門を用いる性的遊戯に耽溺した覚えはないし、直腸を痛めつけるような異物にも心当たりはないし、端的に言って困惑の極みだった。ただ溢れかえる鮮血に眼を瞠っていた。そして、今までの人生で一度も味わったことのない種類の悲壮な痛みを感じた。

 

はー死にてえ!

 

いや痔を原因として死ぬのは嫌なので耐え抜くわけだけれども。ここ最近のグニャグニャした気分に追い討ちがかかったような形で、僕はとにかく涙を流すことしかできなかった。

 

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嗚呼、こんなものの世話になる日が来ようとは。

しかしこれがなかなか強力で、外にサッと塗ったら痛みが引いた。やはり世に広く用いられている薬剤というのは効力が違う。出血も止まったので、無理(意味深)さえしなければどうにかなりそうだ。

 

ともかく今は様子を見ていこうと思う。もしこの記事をお読みになった方の中で痔に詳しい方がいらしたら是非アドバイスのほどよろしくお願いしたい。

 

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(参考 : ハムご5 )

 

明日の来るのが怖い

パジャマの上からロングコートを羽織って外へ出た。外気は生温かった。男子高校生の集団が大声で歌いながら自転車を走らせていった。あ、と思う間もなく泣いた。それから舌打ちをした。いつのまにか舌先に膨らんでいた口内炎が歯に叩かれて鋭く痛んだ。

 

明日なんて来なくていいと思った。仕事がつらいというよりも、人と会うのがつらかった。のんびり他愛のない話をさせてくれる人としか会いたくなかった。嫌な思いをしたくなかった。

 

どうしてあんなにも先輩と気が合わないのだろうと思う。仕事以外の場においては、雑談もするし冗談も言う、そんなに仲の悪い間柄でもないのだ。しかし仕事が絡んだ途端、我々はどうしてもうまくやれない。僕はつまらない作業を効率化したかったし、そのための時間を得たかった。先輩は効率化のために時間を割くくらいならつまらない作業でも地道に終わらせるべきだという性格の人間だった。

僕は皆様が想像する以上に反発し反抗する新人となった、反骨精神の塊となった。けれど先輩も強情だったし、基本的に先輩の方が正しかった。僕はどんどん荒んでいくのだった。

 

明日の来るのが怖い、そんな日々が来ることになるなんて思いたくなかった。ここのところ、高校生を見るたびとにかく悲しくなるようになってしまった。日々を謳歌し、自由を堪能し、人生を満喫する人々、何もかもが羨ましく、眩しかった。

 

楽になりたい、手段は何だっていい、楽になりたい。程よい刺激と、確たる安定と、自己の在り方に対する自信と、そういうのを手にしたい。とはいえ「したい」じゃどうしようもないのだと、自分に言い聞かせては努力を始めるも、世は無常なるかな、このざま。高校生にはなれないし、大声で歌うこともできないし、口内炎は痛むばかりだし、このざま。

 

死にたいんじゃないんだと思う。求めるのは解放。その過程で死んだとしても、それはそれで構わないのだが、あくまでそれは手段であって、欲しいのは解放の方なんだろうと思う。

 

 

「本当のところをいうと、僕はこう思うのです」

「じゃあ会社内に本音で話せる相手っている?」

 

上司からそう聞かれて僕は何も答えられなかった。その上司は弊社内でいうと相対的に僕の最も尊敬している上司で、だからわざわざ飯の誘いを飲んだくらいの相手なのだが、それでも何も答えられなかった。

 

本音?

 

まずあらかじめ言っておくと、僕はほとんど嘘をつかない。というより、つけない。嘘をつくというのは破綻なき物語を書くというのとほぼ同等の作業だ、というのが僕の考えで、つまり僕はそういう作業に耐えうるほどの構成力を持たないのだから素直に真実を語ってしまったほうがよいというところに落ち着いているのだ。

 

などと言いつつ、正直に話すことと本音を話すこととは違う、とも思っている。なぜなら「話す」ということ自体が「本音」と相容れない行動だからだ。

 

「本当のところをいうと、僕はこう思うのです」。言葉にした途端、それが自分の「本音」とズレていることに気づく。違う、こうじゃない、訂正のための言葉を重ねれば重ねるほど、「本音」は遠のく。「本音」には形がない。「言葉」は形なきものに形を与えようとする。喧嘩するのは当然のことだ。

 

そればかりではない。

僕はもうとっくに自分の「本音」を見失っている。あらゆる価値観を讃え、多様性尊重の権化・ミスターダイバーシティとして生きているつもりの僕は、自分がどのイデオロギーに身を染めているのかもはや自分でも分からない。

 

二枚舌だの八方美人だの責められるならそれも甘受しよう、ただ主張しておくと、僕は他者の太鼓で雷神ごっこをしているわけじゃない。本当に他者の意見ひとつひとつを気に入ってしまうので、どれかを「自分の考え」として固定的に宣言しえないのだ。一見すると矛盾しているように見える複数の主張についてさえ敷衍してその根底にある共通意思を摘出しようとするのである。

 

本音?

 

「「腹が減った」とか「眠い」とかも「本音」だよ」、まあね、でもそういうことじゃないんだ。僕が言いたいことってのは。

「本心から出た言葉であればことごとく「本音」と呼んでしまっていい」、なるほど、では次に知りたいのは「本心」のことだ。

「本当の心」、と返答されたら僕はしたり顔を浮かべる、「本当の心を言葉にできるはずがあろうか」という台詞とともに。

 

つまり突き詰めていうと、僕の考えでは「「本音」で語り合う」ということ自体がヒトには成しえないことだという話なのだ。

では我々は互いに虚偽と虚飾とを交換しているに過ぎないのか、などとひねくれても構わないが、僕はそれよりも、「本音」には到達しえない種々の言葉のやりとりをそういうものとして楽しんでおきたいと思う。

 

上司は「本音で話せるような状況じゃないってのはあまりいい環境じゃないな」と顔をしかめてくださったが、僕としては構わなかった。どうせ「本音」なんてどこにもないのだ。人の言葉など好きに解釈すればいい。

 

「本当のところをいうと、僕はこう思うのです」。

パーン

死にてえ! いや死にたくはねえ。

 

何もかもをパーンとやってしまいたいときというのがある。けれども僕は勇気のない人間なのでほぼ全ての「パーンとやってしまいたいとき」を踏みとどまって見逃してきた。

奈須きのこ空の境界」の橙子さんあたりに聞いてみたらきっと僕の起源は「惰性」って言われるんじゃないかと思う。すなわち、一度始めたことを続けるのが上手いのだ……なぜなら辞めるための活力を湧かせられないから。

 

ここのところ僕は仕事をこなすだけの機械と化している。筆に水だけつけて紙の上を滑らせているような、いくら必死になっても絵が完成しないような、そういう骨折り損の生活をやっていっている。仕事をサボって海へ行きたい。

と、言いつつ、絶対にやらないのが僕である。大学時代もそうだった、サボりに適した快晴の日でも授業にはぜんぶ出席していた。頭の出来が悪いうえ友達もいなかったので成績はよくなかったが、ひとりぼっちの皆勤賞をこっそり誇っていたものだ。

 

サボれない、休めない、投げ出せない、捨てられない。続けるつらさよりも辞めるつらさの方が僕にとっては重い。何事についても、「よーし辞めるぞ」の一歩が難しい。「よーし死ぬぞ」も失敗している。

という話をしたら、恋人から「じゃあ私のことも捨てられないから捨てないだけなんだね」と微笑まれたことがある。反射的に「違う」と返したものの、さて否定するための材料は証拠は権利はいずこに? 僕は「惰性」で恋人を束縛しているのかもしれない。

 

そういうことなら、僕は恋人との関係も「パーン」した方が本当はいいんだろうな、ってこれはもう数年前から悩んでいることである。けれど僕は相変わらず恋人のことを好きで、……いや、少なくとも主観的には好きだと思っていて、意識と無意識と、自己認識と実情と、もうわけわかんないのだが、結局のところ事実としてもう8年間も「惰性」的に縛り付けているわけで、

 

パーン。

 

梶井基次郎檸檬」( 梶井基次郎 檸檬 )における一節が頭をよぎる。「黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。」梶井自身も実際に神経衰弱だったらしいが、それはさておくにしても、この「檸檬」における“爽やかな果物”と“爆弾”とのコラボレーションは実に梶井的で鮮やかだと思う。

 

まあこの一節を引いて「文豪ストレイドッグス」で梶井基次郎が「爆弾魔」になっていたのは最高に面白かった。あの作品、なかなかギャグセンスが高い。太宰は川上からドンブラコ〜ドンブラコ〜と流れてくるし、泉鏡花は実物がおっさんなのに美女になっているし。まあ信長も美女になってエロ同人を描かれる時代、肉体的性別なんてどうでもいいよねという話なんだろうな。

 

閑話休題

辞めるとか逃げるとか消すとか爆発させるとか、そういう「パーン」的な幕引きを決意するのにも勇気は必要だと思う。そして僕にはそれが決定的に欠けている。辞めるべきときに辞められるのも、逃げるべきときに逃げられるのも、才能だよ。

こないだ尊敬する知り合いから、「現状維持も「選択肢」だ」、という言葉をもらった。つまり、今の状態をそのままにしておくことを選ぶのもアリだけれど、それが失敗だとわかってきたら別の選択肢を選ぶのもアリだということなのだ。「現状維持」は特殊な場所にあるものではなく、いくつかある選択肢のうちのひとつなのだ。こいつはダメだと思ったら捨てていいものなのだ。

もちろん勇気は要るけれど。

 

何かに対する僕なりの抵抗として、いまウイスキーを飲みながら記事を書いた。パーン。なかなか爆発力のある一説になったんじゃないかと思う。嫌なことなんて考えなくていい。より良い結果を目指して自分なりにやればいい。爆発したっていい。

 

パーン。

 

死にてえ! いや死にたくはねえ。

本当は生きたいよね、できれば誰よりも幸せに。

 

東京国立博物館

先日、大学時代の知り合いたちと連れ立って上野の東京国立博物館( 東京国立博物館 - トーハク )を訪れた。

 

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特別展は 「 両陛下と文化交流―日本美を伝える―  」 ・ 「 国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅  」の二本立て。せっかくなので両方とも見てきた。

 

それぞれに突き刺された。

 

「両陛下」の方は、お二人の幼少期から現在までを文化財とお写真とで紹介していく形式だった。

それにしても皇室というのは「伝統」をひどく重んじておいでだ。「香炉と伏籠を使って着物に香を焚き染める」とか「重要な儀式の際には黄櫨染御袍や唐衣裳をお召しになる」とか、高校古典の授業でしか目にしたことのない風雅なる世界が解説されていた。賛否両論あるだろうが、僕としては伝統文化の妙味というのを堪能できて楽しかった。

 

中でもちょっと面白かった展示として「ボンボニエール」というのがあった。

 

明治20年代から,饗宴の折の引出物のひとつとして,ボンボニエールと呼ばれる小さな菓子器が採り入れられました。慶びの場にふさわしいデザインによる,手のひらに載るほどの大きさの愛らしい菓子器は,今日まで皇室の御慶事を記念する品として引き継がれています。

( 参考: 展覧会概要/第77回 皇室とボンボニエール―その歴史をたどる - 宮内庁 )

 

つまり菓子を入れておくための入れ物なのだが、これが皇室向けにかなり凝った作りをしているのだ。僕は皇室の方々がこういうものを使ってらっしゃるということ自体まったく知らなかったのでホホウとなった。

 

そしてその中のひとつ、「両陛下ご結婚記念」のボンボニエールを見て僕はちょっとばかり泣きそうになってしまった。

 

それは静かな池の上を二羽の鳥が連れ添って泳いでいるという立体的な作品だった。僕は息を呑み、そのまましばらく立ち尽くした。

 

人と人との関係なんてものは不安定で不条理だ、こと僕は「結婚」という言葉のもたらす鈍痛に日々呻吟しているわけであるが、……その二羽の鳥の凛と寄り添う姿を目にして、僕は「清廉」の二字を思い浮かべた。

夫と妻。

 

むろん「天皇陛下」であるからには「理想」である必要があるのだ、だから隅々まで「理想」を造形しているのだ、それは「象徴」としての宿命に過ぎないのかもしれない、……ということを汲んだ上でなお、僕はその「理想」の冴え冴えとした銀光を目に焼き付けておきたいと思った。綺麗事でいいのだと思った、どうせガラスケースの向こうに飾られているものなのだから。

 

 

さて。

 

「東寺」の方は、真言宗総本山である仏教寺院・東寺(またの名を教王護国寺)、および真言宗自体がテーマとなっていた。

 

真言宗の開祖である空海真言密教の教えをわかりやすく広めるため、手の組み方を図解したり(「蘇悉地儀軌契印図」)、唐から曼荼羅(真言密教の世界観を表現したウワーって感じの絵) を持ってきたり、何かと尽力した人物である。展示ではそういった空海の努力を示す品々を確認することができた。

 

その中でも特に今回は「仏像曼荼羅」……つまり密教の世界観を仏像によって表した立体曼荼羅とでもいうべき展示に力が入っていた。

仏像にもいろいろあって、その種類についても解説してくれていた。館内の写真を撮ることはできないので記憶頼みだが、まず仏界のヒエラルキーってのはだいたいこんな感じらしい。

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これが確かに仏像たちの姿に現れていた。僕は展示されていた仏像を見ながら「これは「菩薩」! ヨッシャ」「これは「天」! アァ「明王」の方だったか〜」などと見分けて遊んだ。

 

ちなみに僕の大学時代の知り合いたちは(僕も含め)文学館や博物館や美術館や水族館に行くとそれぞれ自分勝手なペースで好きな場所を見て回るため、基本的に「はぐれる」。僕は仏像選別ゲームに1時間ほど費やしてから現れたせいで、とっくに見終わっていた知り合いたちから苦笑されながら殴られた。

 

しかし。

僕は宗教に耽溺しているわけじゃないが、「あまねく人々を救済する」という如来の在り方には惹かれるところがあった。あの超然とした表情の内奥に、数多の人間を救いうる力があるのかと思うと憧れた。

 

僕は自分のことで精一杯だ、僕は仏教的に禁じられている種類の欲にまみれている、僕は他者を救うどころか片端から痛めつけている。

ひとりを救おうとすれば重さで沈めてしまうし、複数を救おうとすれば各々を傷つけてしまう。誰かの役に立つこともできない。あんなに苦しんでいる人がいるのに僕は何もしてやれていない。5億円を手に入れたら譲りたいのに、体が複数あったら代わりに働きたいのに、あまねく人々を救いたいのに、僕は誰のことも救えない。

 

そういう意味で、僕は仏像のことも「理想」としてノンビリ眺めた。「あまねく人々を救済する」、そんな不可能の偶像を真下から見上げた。

むろん宗教上の信仰対象だからこそ「理想」である必要があるのだ、だから隅々まで「理想」を再現しているのだ、それは「象徴」としての役割に過ぎないのかもしれない、……ということを汲んだ上でなお、僕はその「理想」の晴れ晴れとした後光を目に焼き付けておきたいと思った。綺麗事でいいのだと思った、どうせ見上げることしかできないのだから。

 

 

 

……宮沢賢治の「雨ニモマケズ」( 宮澤賢治 〔雨ニモマケズ〕 )は有名だから、ご存知の方も多いだろうと思う。僕はこの作品において刮目すべき箇所を、次の部分だと主張したい。

 

「サウイフモノニ / ワタシハナリタイ」。

 

そういうものに、私はなりたい。

「ならなくちゃ」「絶対なってやる」ではないのだ。「なりたい」。なれないから、「なりたい」。

「なりたい」を詠むというのは恐ろしいことだ。自らの理想を描くことは、それが成し遂げられぬまま空費されていく現実を描くことに他ならない。しかし一方、反実仮想は芸術との相性がいい。美術・演劇・音楽・映像・そして文学・あるいは人生における「なりたい」の描写は、それが憧憬であれ悲願であれ諦念の影の未練であれ、芸術たりうるものであると思うのだ。

 

僕は鳥になりたいのでも如来になりたいのでもなさそうだが、彼らから連想される“何かしら”に「なりたい」……とかなんとか言うと数行前に自分で書いた文章に脳天を貫かれてしまうのだけれども。「空費」という言葉を繰り返すのは自傷行為でしかないので、自分は芸術をやっていこうとしているだけだと言っておきたいわけだが。

 

しかし人生を芸術に見立てて愉しまんとするなら、何だかんだやっていけると思えるくらいの安定的余裕か、あるいは自分の吐いた血反吐に筆を浸して原稿用紙に立ち向かうような血みどろ死にかけの気魄か、少なくともどっちかくらいは欲しいわけで、嗚呼この辺りまで考えが至ると惨めになる。

 

何者にもなれないまま終わりたくはない、何者かに「なりたい」。