話の通じない人型の異形に訳もわからず襲われる
僕はずっと昔から「ホラー」を苦手としている。
大抵のものに好意的な目を向け、大抵のものにサッサと手を出すタイプの僕であるけれど、どうしても「話の通じない人型の異形に訳もわからず襲われる」ようなものが苦手である。
不思議なものだ、と自分でも思う。ここだけが、僕の価値観から遊離している。何にだって興味を持ち、何だって愛せる、そういうのが僕だと思いたいのに、どうしてもここだけ耐えられない。
僕がゾンビの類を苦手になったのは幼稚園生の頃に見たドラえもんの「3分間カップ旅行」的な道具の回のせいだと思うんだけど、その話を某にしたら「それからずっと苦手なままってことは、苦手なものから目を逸らしつづけて逃げつづけてきたってことじゃない?」と指摘されてぐうの音も出なかったぜ……
— ウイスキークロル (@_CNP_) 2019年3月8日
まあこれは笑い話なのだが、実はそこそこ刺さった。
苦手なものから目を逸らしつづけて逃げつづけてきたのか、僕は。
ここでいきなり、人間の行動をざっくり4種類に分けて見ていきたいと思う。
ひとつ、やりたい かつ やるべきこと。
これはなかなか見つからないものだ。自分の意志や嗜好が、自分の果たすべき義務と合致している……そんな状況、そうそうない。
強いて言えば、僕にとっては大学での文学研究がそれに当たったかもしれない。全力で自説を述べることが、僕の意志であり僕の義務であったから。そんなところか。
ふたつ、やりたい けど やらなくてもいいこと。
いわゆる“趣味”である。やらなくてもいい、けれどやりたいのだからやってもいい。読書、バイク、トイカメラ、とか。
やらなくてもいいことだからといって切り捨ててしまうと無味乾燥の人生が開けるだけなので、ある意味では必要なことだといえるけれど、やらなかったからといって問題が発生するわけではない、というところがポイントである。
みっつ、やりたくない けど やらなくちゃいけないこと。
出勤。業務。社会活動。等々。
僕はこのあたりの義務について、ちゃんと果たそうとしているつもりだ。喪失と後悔とを極端に恐れるがゆえに、僕は「やらなきゃ」と思うことについては恐慌状態に陥りながらも何とかしようとしてきた……つもりだ。まあ、果たしきれていないんだけれども。
僕の場合そういう義務をこなしたあとに得られるのは、達成感や充実感ではなく、“恐怖から一時的に身を隠しおおせた”という刹那的な安堵でしかない。次の義務が迫ってくればまた苦しい思いをする。人生。
よっつ、やりたくない かつ やらなくていいこと。
僕にとって「ホラーに立ち向かう」というのは、ここに当てはまることとして捉えられていた。全然やりたくないし、やらなくても問題にならない。
ここに分類されている以上、やらないからといって「目を逸らして逃げている」ということにはならない……そう思い込もうとしていた。
しかし冷静に考えてみると、この4点目こそ、やらなくてもいいからこそ最も逃げちゃいけない部分であるような気もする。
「やらなくたっていいんだし」、そんな言い訳が最も通ってしまう部分だからこそ。
僕は周囲の人々に、「無理をしないでくれ」と伝えつづけている。やりたくもないことを無理にやろうとして傷つく、そんな姿は見たくないからだ。けれども僕は、僕の方は無理をしなさすぎなのかもしれない。傷つくことを恐れて、挑戦を避けているのかもしれない。
話が大げさになってしまったが、まあ要するに、その、怖いものとか……不気味なものとか……いわゆるホラーに……立ち向かおうと……思う。
いい機会だし、うん。こんなくだらない理由で喧嘩をしたり気まずくなったりしたくないし、うん。情けないし、かっこ悪いし、嘲笑の的になりたくないし、うん。
立ち……向かえると……いいね。