世界のCNPから

くろるろぐ

結局、必要なのは“余裕”なのだ

僕は日常生活の中で「なんだかちょっとよくない」と感じたら、胸糞の悪くなる何らかの何かを読んでみることにしている。

普通に楽しめたら、セーフ。胃が苦しくなってダメになってしまったら、ちょっと休んだ方がいいと判断。極端に興奮してしまってハイになってきたら、それはそれでヤバそうだなと自分にブレーキをかける。

まあいわば、自分の感情をなるべく客観的な形で測るために「読書」という手段を使っているということだ。

 

「読書」という言い方をしたけれど、そういう場合に読む“胸糞の悪くなる何か”なんて別に高尚なものではない。例えば地獄みたいな(褒め言葉)NTR漫画とか、イキリオタクのイキリツイートとかでよい。

要は「平時なら興味をもって味わえるはずのものを受け付けることができない」「平常なら笑えるはずのものを笑えない」状態に自ら気付ければよいのだから。

 

で、思うに、「平時なら興味をもって味わえるはず」「平常なら笑えるはず」と理解していながらそれに耐えられないときというのは、一言でいうと「“余裕”のないとき」なんだろう。

貯金に余裕があれば金持ちの言葉に憤る道理はない。時間に余裕があれば暇人の生活を羨む必要はない。肉体に余裕があれば。精神に余裕があれば……。

 

金が欲しい。時間も欲しい。無限の自由を手に入れたい。けれども僕が手にしている金も時間も結局のところ僕ひとり分の人間的生活をギリギリ保ちうる程度のものでしかなく、“余裕”とは言いがたい。また僕は巨腹なわりに貧弱で、つまり体力がなく、よってこれも“余裕”という感じではない。精神? 安定剤に頼らないと大騒ぎになってしまう僕のどこに“余裕”があるっていうんだろう。

 

結局、必要なのは“余裕”なのだ、と僕は思う。いかなる状況においても冷静に、丁寧に、繊細に、……そういう落ち着きというのは、心に“余裕”がない限り用意できるものではない。

 

2018年が終わる。2019年が始まる。何かの終わり、何かの始まり、それは僕にとっていつも怖いもので、だからいつも“余裕”を失わされる。

時はどんどん過ぎていくのに、僕はいつまでも無能で未熟で無価値なままで、だから年末はそんな自分に気づかされる時間なのである。“余裕”、振りかざしていきたいのに切羽詰まってばかりだ。

 

振りかざしてえよ、“余裕”。

ドヤ顔で「長生きしてぇ〜」とか「絶対彼女を幸せにする卍」とか言いてえよ。自分に自信を持ちてえよ。何もかも自由にやりてえよ。

 

僕は刹那的な人間だ。“今”を生きたい人間だ。しかもプライドが高い人間だ。「有言を実行できなかった」という恥をかきたくない人間だ。だから「2019年の目標」なんて言ってやるもんか、と思う。けど、

「“余裕”のある人間になってみたい」、と、そんな……目標ではない、ただの願望を嘯いておきたい。

 

さあ、今宵も胸糞の悪くなる作品で自分の機嫌を試してもいいような気がするんだけど、まあ平成最後の年末だし、たまには気分よくいられるような作品でも読もう。“余裕”ってのは、虚栄であってもぶちかましといた方がいいもの、であるような気がするから。

今ごろ君はツイッターで「痴漢に遭いそうになった」とか呟いているんだろうな

帰りの電車、ぼんやり立っていた僕のそばに、ひとりの女性が乗り込んできた。

三十代くらいに見えた。落ち着いた服装、化粧っ気のない顔。それも見えたのは一瞬だけで、すぐ僕から見えない向きへ体を向けてしまった。

それだけだったなら、僕も別に気にしなかったのだ。けれども、その人は少しばかり目立っていた。

 

無限に鼻をすすっていたのだ。

 

静寂に包まれた電車の中で、彼女は何故だかひたすら「ズズ……ズル……ズズル……」とやっていた。僕はアダルトビデオにおける水音を愛好している方なのでさほど不快なわけでもなかったが、それでも延々と鼻をすすっている彼女のことが心配になってきた。

電車内にいるオッサンたちも、鼻水の音に苦言を呈するようなタイミングで交互に咳払いをしていた。「ズズ……」「ゲホッゴホンッ」「ズビビッ……ズジュ……」「ンッン……ゴフン」……僕はなんとなく落ち着かなくなってきた。

 

いや、なんでかまないんだよ……。

チラと見ると、彼女は右手でスマホを操作し、左手でボロボロになったティッシュらしきものを握りしめていた。ははあ、かみたくてもかめないんだな、と気づいた。

 

そんなとき、僕はふと思い出した。そういや僕、こないだ街頭でポケットティッシュをもらったな、と。試しに鞄の中を漁ってみると、「献血のお願い」と書かれたポケットティッシュが出てきた。封も切られておらず、清潔だった。

 

……やめとけ、と冷静な僕が止めた、僕はそれを聞かなかったことにした。

ときどき僕はこういう無謀なことを思いつく。だが僕は以前から、「解決策が判明していてあとは動くだけだというのに動かない自分」に耐えられないらしかった。あとになって、動かなかった自分に後悔して苦しむことになるのだ。

そこで今回も、やるだけやってみようと思った……思ってしまった。

 

 

「あの」

 

イヤホンをしてスマホをいじっている彼女は僕に気づかなかった。

 

「あ、あの……」

 

少し強引なほど声をかけてみた。今になって思えば、本当に痴漢と間違われかねない動きだった。

彼女は僕の方を見た。それから、

 

「なんですか」

 

僕は“ゴミを見るような目つき”という表現を、小説の中にしかないものだと思い込んでいた。

しかし世の中の女性は、痴漢かもしれない相手に対して“ゴミを見るような目つき”を向けることがある、ということを僕は知った。

 

そして声は想像していたよりも若かった。若いというより幼かった。おそらく高校生くらいだったろう。若々しい服にも華やかな化粧にも興味を持たないタイプの、教室の隅で仲のいい子たちとだけつるんでいるタイプの、一見すると地味でありながらふとしたときに見せる笑顔が可愛かったり眼鏡越しの真面目な目つきが涼しかったりするタイプの、そういう女子高生だったんだろう。

 

嗚呼…………。

 

僕はもうその時点で自分が「しくじった」ということを把握していた。けれど、声をかけるだけかけて何もしないのではますます痴漢めいてしまうので、腹を括って最初の目的を果たそうとした。

 

「もしよかったら使いますか?」

 

ティッシュを差し出す僕。

 

「いいです、大丈夫です」

 

鼻をすする彼女。ズビズビ。

 

絶対に大丈夫じゃなかった。けれども、僕はもうそれ以上のことなんてできなかった。「そうですか」、小さく呟いて僕はそっとポケットティッシュを自分のポケットにねじ込んだ。周りにいた誰かがゴホッと咳払いをしたのが聞こえた。笑いを堪えようとしたのかもしれなかった。

 

なぜ気づかなかったんだろう……なぜ思い至らなかったんだろう……自分の容姿が大嫌いだ、とあれほど豪語していながら僕は、自分の容姿が他人にどれほどの不快感を与えるかきちんと理解できていなかったのだ。

 

よくよく考えたら、女子高生から見て二十四歳はオッサンだ。しかも僕は低身長なわりに顔が老けている。たぶん体臭もきつい。「いきなり話しかけてほしくない人ランキング」みたいなのがあったら僕はいい位置につけるだろう。

そんな僕から話しかけられたのだから、あの反応は当然オブ当然だった。「なんか気持ち悪い人が急に話しかけてきてティッシュを差し出してきた」なんて、ひとりでいる女の子からしたら恐ろしいことだったに違いない。

 

それに、どうも様子を見たかぎり、彼女は泣いていたみたいだった。何か僕の知りえない嫌なことがあったんだろう。そんなときに見知らぬ人から話しかけられて、「これで鼻をかめ」なんて示されたのだ。不快にもほどがあっただろう。

 

僕は目頭を押さえて寝たふりをした。そのまま降りるべき駅で降りて、逃げるようにその場を去った。

 

もう二度とやらない。いくら善意から行動したとしても、相手がそれによって不快感を覚えたならそれは善行ではないのだ。

本当にごめんなさい。

 

ああ、今ごろ君はツイッターで「痴漢に遭いそうになった」とか呟いているんだろうな。

 

愛の無能

愛の無能

 

「忘れらんねえよ」は笑いを織り込みながら「愛」を叫ぶ熱いバンドだからとりあえず聴いてみてくれ

星なんかより君のほうが全然可愛い、つらい。

 

頑張ろうとするけれど頑張りきれなくて、どうにかキメたいけれどどうにもダサくて、誰か俺を認めてくれ、誰か俺を愛してくれ、誰か俺に愛させてくれ、……なんて思いながら願いながら祈りながら、結局は俺なりにやっていく、俺は俺なりに生きていくんだよ、ってそういう感じのやつ。

忘れらんねえよ」。

 

新しく出たミニアルバム「あいつロングシュート決めてあの娘が歓声をあげてそのとき俺は家にいた」を即座に買って、ひさびさに恋愛っぽい歌を聴いた(最近の僕は歌詞のない曲ばかり聴いていた)。

あいつロングシュート決めてあの娘が歓声をあげてそのとき俺は家にいた(初回限定盤)(DVD付)

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あいつロングシュート決めてあの娘が歓声をあげてそのとき俺は家にいた(通常盤)

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とはいえ「忘れらんねえよ」の繰り出す恋愛系ソングは「愛を叫ぶことしかできないクソダセェ俺の叫びたくなるほどクソダセェ愛」って感じで、どちらかといえば歌というよりも慟哭だ。好きだという雄叫びだ。そして僕にはそういうタイプの声を聴きたくなるときというのがある。

 

ここのところ、「愛」のことを考えがちだ。

いつも様々な角度から考えているが、今夜は「忘れらんねえよ」の声を聴きながら特にいわゆる「恋愛」の「愛」について考えている。

 

どんな「恋愛」でも、それが始まるときには相手のことを少なからず好きなはずだと思う(僕はロマンチストなので、相手のことを全く好きでないのに始まる人間関係のことは「恋愛」でなく「謀略」と呼んで切り分けたい)。しかし時が経つにつれて色褪せてしまうタイプの「恋愛」というのも世の中にはある。

 

天秤なのだと思う。「好き」という感情と、「嫌な気持ちを引き起こすような何か」とが天秤にかかっているのだと思う。

最初の頃は「好き」という気持ちでもって接しはじめるうえ、「嫌な気持ちを引き起こすような何か」が起こっていないので、天秤は「好き」のほうに大きく傾いている。けれども付き合いが長くなれば当然いろいろな事件が起こる。その中で「嫌な気持ちを引き起こすような何か」が蓄積されていき、「好き」という感情よりも重くなった場合、高低が入れ替わる。逆に「好き」という感情が強まりつづけるようなら、「好き」側に傾いたままとなる。……とか。

 

あるいはパラメータの値として捉えてもいい。相手と共に時間を過ごしていく中で、「好きポイント」ないし「嫌ポイント」が溜まっていく。どちらがより多く溜まっているかによって、相手へ抱く最終的な感情が決定される。……とか。

 

いずれにせよ言えることは、「減らない」ということだ。天秤の皿の上に乗せた分銅であれ、パラメータの数値であれ、相手に抱く感情は相手と過ごした時間に応じて増えつづける。人と時を過ごすというのはそういう意味なんじゃないかと思う。

だから怖いんだ。

 

そして、「相手の言動に逐一苛立つようになった」とか「相手の失敗を赦してやれなくなった」とか「客観的に相手の言動や態度を理解してみようという気になれなくなった」とか、そういうのはまさに「嫌」側の感情が「好き」側の感情を凌駕したことによる変化なんじゃないだろうか。

相手のことを「好き」だという感情自体は消えてしまわないけれど、「嫌」という感情が強まりすぎると「好き」で覆いきれなくなってしまう……そんな感じだと思う。

 

で、その状態に陥ったとき考えるべきことは、「これから「好き」のほうを上げることはできるか」なのかもしれない。どうせ一旦「嫌」だと思ってしまった部分についてはどうしようもないのだから、今後その「嫌」を「好き」で覆いなおせるか? 受容できるか? というのを自問自答するしかないのだ。

これは恋愛以外の話でも同様に言えることなのではないか。

 

個人の感想です。

 

そういや片想い恋愛系ソングの主人公はその恋が叶ったあとどうなるんだろう、なんてことも考えた。

まあ、クソダセェとわかっていながら叫ばずにいられないほどの「愛」なら、かなり長いこと「嫌」って感情を負かしてしまえるかもしれない。天秤の片側が地面に沈むほど重く、パラメータの片側が天を貫くほど高いなら……。そして「好き」という感情を高めつづけ、ずっと「好き」側に傾けたままにしておくことも可能かもしれない。

 

しかし、それほどの「愛」を心から叫ぶには相応の覚悟も必要だ。叫ぶということは相手に聴かせるということだから、聴かされる側の感情についても考慮しなきゃならないのが道理だ。叫ぶ側の感情がどれほど「好き」に傾いていたとしても、相手側の感情は絶対に読み取れないわけで。相手に不快感や嫌悪感すなわち「嫌」な感情を与えてしまうかもしれないのだ。

叫びとは独りよがりなものだ。「忘れらんねえよ」の歌は、雄叫びは、その独りよがりを重々承知した上で「それでも叫ばずにいられない」という雄叫びなんだろうな。

 

僕は叫んでいいんかなぁ、とかね……。

 

かなり重い話になった感があるけれども、「忘れらんねえよ」は笑いを織り込みながら「愛」を叫ぶ熱いバンドだからとりあえず聴いてみてくれって僕は思うのでした。

 


忘れらんねえよ『君は乾杯のとき俺とだけグラスを合わせなかった』Music Video


忘れらんねえよ - 踊れ引きこもり【Music Video】

 

それじゃあ少し聞いてもらおう

 

ある冬の日のこと、猫の耳を頭に生やした可憐な少女が僕の前に現れて、にゃにゃっと優しい笑みを浮かべた。自分のことを好きなだけ話していいと彼女は言った。僕は少し考えて、それじゃあ少し聞いてもらおうと応えた。猫耳少女は満足そうに喉を鳴らすと、僕の近くへしゃがんで話を聞いてくれた。

 

この記事は自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2018 - Adventar 2018.12.22の記事です。

 

一、僕と文学とについて

自分で言うと気恥ずかしいけれども、僕はいわゆる〈文学青年〉というやつの端くれ、端っこ、切れっ端だと思う。

知り合いにもっと〈文学青年〉っぽい奴がいるので、これを僕が自称するというのはどうにも嫌なのだが、他にどう言いようもないので分かりやすく借りておく。

 

僕の記憶が正しければ、僕の本好きは三、四歳あたりの頃から始まっていた。

幼稚園児だった僕は、お外で遊ぶべき時間に絵本を読んで過ごしていた。幼稚園の先生はそれを止めようとしないで、そっとしておいてくださった。そうやって絵本を読みつづけたためか僕は、年中さんのときに年長さんの卒園式の「贈る言葉」係に抜擢されたり、お遊戯会の長台詞を任されたりした。

そして、これは信じていただけるか分からないけれども、その時点で僕はすでに、大学へ行くなら文学部に進むと決めていたのだった。

 

きっかけは単純なことで、父に「そんなに本を読みたいなら文学部へ行くといい、本を読むのが仕事みたいなところだから」というようなことを言われたからだった。僕は本を読みつづけたかったので、何の迷いもなく文学を志し、文系を選び、文学を学び、文学と戯れた。

 

そして、それまでの僕の「読書」がいかに甘かったかを思い知った。

 

文学部なんて遊んでいるだけだろう、と世間の人は言う。確かに、目に見える数値的成果を出せるような学問ではないし、曖昧模糊たる論文を書いてちゃっちゃと卒業できてしまうような印象を拭いきれていないし、甘ったれて見えるのかもしれない。

「文系はクソ」「どうせ文系だろ」「読書感想文を書けば卒業できるんでしょ?」「予算の無駄」などと毎回さんざんな言われようだ。知り合いからさえも「毎日遊んでいられて楽しそう」とよく言われたものだった。

 

しかし僕はだんだんどうでもよくなった。というのも、文学という芸術の幅広さが、文学という世界の奥深さが、僕を捉えて離さなくなり、やがて僕を呑んでしまったからだった。

自分の「読書」が、時を経るごとに深く重くなっていく快楽。

特に僕は良い教授と良い友人とに恵まれたので、爛れた性生活や乱れた堕落生活に落ち込むことなく、かなりの点において正当な文学部生としての有意義な時を過ごしえたのだ。そうして文学に耽溺していくうちに、世間からの評価も世論からの嘲笑も聞こえなくなっていった。

 

別に、斜に構えることで自分の身を守ろうというような態度であるつもりはない。そもそも僕は世間に対して、敵意も憤怒も感じていない。彼らは彼らであり、僕は僕である、というのを自然と受け入れているにすぎない。

僕は「自分が豊かになっていく」というこの感覚が好きなのであって、そういう場合、他者の干渉は意味を成さないのである。

……とはいえ僕だって、「数学ができないから文系に逃げたんだろう」なんて言われるとさすがにちょっと傷つく。僕は最初から文学をやりたくて生きてきたので、数学ができないのは事実だけれども、「逃げ」てきたつもりはないのだから。

 

 

さて。

 

そんな僕の専門は国文学・近現代文学だった。人に説明するときは「芥川とか、漱石とか、太宰とか」などという言い方をしている。最近だと「文豪ストレイドッグス」なんかで有名になっているようないわゆる「文豪」の作品群である(早く大江健三郎あたりも二次元美青年化されてほしい、僕は文ストをよく知らないけれども戦闘モノだと聞いている、ぜひ必殺技は「死者の奢り」でいってほしい)。

と、まあだいたいその辺りから、実は村上春樹吉本ばななも研究対象として扱ったことがある。そこそこ幅広い。

 

とはいえ僕が自分の専門分野を「近代」でも「現代」でも「近代・現代」でもなく「近現代」と呼んでいるのは、あくまでも“対「近代」の手法で「現代」にもニョキッと手を伸ばしているにすぎない”からである。より正確に書くなら、「近(現)代文学」といったところか。

そんな大学の4年間を通して、僕は「文学」について何やかんやと考えることができた。今回はそういう何やかんやのことをいくらでも話そうと思う。

傍にいる猫耳の少女は苦笑して、聞くよと念を押してくれた。

 

 

二、「作者の気持ち」について

「文系は作者の気持ちでも考えてろw」という煽り文句がある。

しかし実をいうと、文学部という究極の文系を卒業した僕は物語を読みながら「作者の気持ち」なんて考えていない。というか、そもそも「作者」というものに対する姿勢がちょっと違っている。

 

おそらく人々のおっしゃる「作者」というのは、ある物語を書いた実在の人間自体のことを指しているのだと思う。しかし僕はいつも、ある物語を読み解いただけでその「作者」の「気持ち」に至れるわけがないじゃないか……という感想を抱く。

無論、「作者」のそのときそのときの状況や感情、周囲の人間や環境が、作品に反映されることはままあるだろう。けれども、「作者の気持ち」とやらを作品“だけ”から読み取ろうとするってのは、無理だ。

 

だって僕は今、「最近は貧乳モノの漫画が少なくなっていてつらい」という気持ちを抱きながらこの記事を書いているんだけれども、そんなの誰にもわからないだろう。あるいは、例えば僕が今から小説を書いたとして、その小説“だけ”から僕の抱いている悩みだの痛みだの苦しみだのに至れる人がいたら、僕は怖くて一生インターネットを辞めざるをえない。

 

もちろん「書かれた作品を通して作者の真の姿に至ろうとする」というような研究もあるけれど、それが全てなわけじゃないし、僕がやってきたのはどちらかというとそっちじゃなかった。

 

少なくとも僕が「物語」において目を向けてきたのは、「作者」ではなく「〈語り手〉」だ。

 

〈語り手〉というのは、とりあえず“物語を語る概念的存在”のことだと捉えていただければよい。〈語り手〉の姿は、ハッキリしていることもあれば曖昧であることもある。けれども、語られないかぎり「物語」は生まれえないので、語られている時点でそれを語る“存在”が在る……というのをボヤッと察しておいてほしい。

 

例えば、

メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

( 青空文庫 : 太宰治 走れメロス )

と、こうあったら、メロスを「メロス」と呼ぶ第三者としての〈語り手〉がいるわけだ。これが例えば「私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した」という文だったとすると、その意味が変わってくる……というのは感覚的に分かっていただけるだろうか。

つまり、第三者の視点から語る「激怒」と、本人の視点から語る「激怒」とは、きっと別物だろう……というようなところに着目するのである。そして、どう別物になるのか? なぜ別物になるのか? というのを深掘りしていく……という感じだ。

 

また、この〈語り手〉は、物語を語る存在であるがゆえに、物語を誘導する力を手にしている。

 

また例え話になってしまうが、例えば、

「その男は布団圧縮袋へ女性を詰め込むことに性的興奮を覚える男だった。“そんなことはない”と男は幾度も主張していたが、それはどう見ても嘘であった。嘘を隠そうとする者だけが見せるあの動揺しきった目つきを、その男も見せていた。」

……という「物語」を語る〈語り手〉がいたとしよう。この〈語り手〉は、「男」が「布団圧縮袋へ女性を詰め込むことに性的興奮を覚える男」であると信じているがために(あるいはそう思い込ませたいがために、かもしれない、とにかく何らかの理由のために)、こういう語りを行い、こういう「物語」を紡いでいる、ということになる。

簡単にそれっぽくまとめると、「「男」の言葉を「どう見ても嘘」と一蹴することで「男」を布団圧縮袋愛好家という枠組みに抑え込もうとする〈語り手〉の意図が読み取れる」……と、こういう感じだ。

 

そういう目つきで見ると、「走れメロス」も同じような話だというのがわかる。メロスを「勇者」「韋駄天」と呼び、ディオニスを「邪智暴虐」「暴君」と呼ぶ〈語り手〉は、メロスを〈英雄〉に仕立て上げようとしている……こういうのがすなわち〈語り手〉の誘導なんじゃないだろうか? ……とか。

 

(※だが、ここでさらに気にしておきたいのは、“「これは〈語り手〉の誘導なんじゃないか」と気付かせるような要素が物語から排除されていない、という矛盾”である。

メロスをただ〈英雄〉にしたいなら、村でグータラ生活していたシーンも、疲れ果てて倒れたシーンも、別に必要ない。それを敢えて残しているというのは、むしろそうしたメロスの人間性に気付かせるための誘導なのでは? …………等々…………

走れメロス」は単純なようでありながら、実はかなり扱いにくい作品なのだ。)

 

と、これだけ見てくればお分かりいただけると思う。作者の太宰治が誘導しているわけではない。〈語り手〉が、語り方によって誘導しているのだ。

 

「その男は布団圧縮袋へ女性を詰め込むことに性的興奮を覚える男だという評判だった。しかし男は“そんなことはない”と強く主張していた。事実を伝えようとする者だけが出しうる、あまりにも苦しげな声で、その男は嘆いていた。」

……と、こう語れば、さっきと同じシーンだというのに全く違う印象になるわけで。

 

グータラな若者が勝手にキレて妹の結婚式のことも忘れて勝手に走り出して捕まって、親友をいきなり生贄に差し出して走り回っただけの話じゃん」

……と、こう語れば、「走れメロス」も平坦な話になるわけで。

 

それを敢えて“そのように語った”あるいは“そのように語らなかった”〈語り手〉の意図や意思、“そう語られた”ことによって生まれた意味や意義、とはいかなるものか? みたいなのを探っていくというのが、結局「文学」っぽい手法ということになるのかなーと僕は思っている。

 

だからまあ僕としては、「作者の気持ちでも考えてろw」と言われても、あ……そっすね……って感じなのだった。内心、考えることなら他にも色々あるから大丈夫だよと思うのだった。

 

……以上は僕個人の考え方であるうえ、なんだかあんまり上手く伝えられなかったので、もっと上手く説明できる方がいらしたらお声をお掛けください。僕は文学の話をしたい。

 

 

三、ライトノベルについて

世の中には「ライトノベル」と呼ばれる作品群があり、本屋の棚を埋め尽くすほど盛り上がっている。僕が中学生の頃なんかは教室でラノベを読んでいると一瞬でオタク認定され嘲笑の的にされたものだったが(僕の中学だけか?)、今やすっかり市民権を得ている。

 

そんな「ライトノベル」の定義は、コトバンク先生によると以下のような感じだ。

小説の分類の一つ。SFやホラー、ミステリー、ファンタジー、恋愛などの要素を、軽い文体でわかりやすく書いた若者向けの娯楽小説をいうが、明確な定義はない。

 

( 参考: ライトノベル(らいとのべる)とは - コトバンク )

定義していなかったな。

というわけで、コトバンク先生でさえ「ライトノベルというのはこういう種類のノベルだ」と断言できないのだから、僕に断言できるはずはない。

だからここからお話しするのはあくまで僕個人の感想・感覚になるのだが、……僕の考える「ライトノベル」と「お堅い小説」との違いというとだいたい以下のような雰囲気だ。

 

ライトノベル」においては、“個性豊かなキャラクターたちと、それらが活かされる舞台装置”というのが重要となりうる、と思う。キャッチーなキャラクターたちをいかに魅力的に描き出すかというところを重視している。そういう点で、「ライトノベル」は「文章で書かれた漫画」のような姿をしているのだと思う。

ここで重要なのは「文章で書かれた」という部分だ。どれほど漫画化やアニメ化を期待して書かれた作品であっても、「文章」という表現方法を選んだ時点で、その作品は「文章でしか表せない何か」を孕むことになる。漫画には漫画にしかできないことが、アニメにはアニメにしかできないことがある……同様に、ラノベにはラノベにしかできないことがあるのだ。漫画のように視覚的な、アニメのように躍動的な、そういう世界を敢えて「文章」という形式で織りなす……それが「ライトノベル」という分野の面白さだと思う。

 

一方の「お堅い小説」は、人物それぞれの個性を強調するような書かれ方をしない。いや、そりゃ人間なので登場人物ごとに特徴はあるのだけれども、そうした「個々人の魅力そのもの」を描こうという狙いはないのだと思う。

じゃあ逆に何を書いているのかというと、「○○とは何か?」というような、深層……概念……とでもいうべきものだろうか。人間とは何か、自分は何者なのか? なぜ生きるのか? というような、いわば“奥底”を書きたいのだと思う。

そうして、そういった“奥底”を描こうというとき、(絵画だとか彫刻だとか音楽だとか様々な形式があるけれども、)こちらも「文章」という形式を選ぶことによって「文章でしか表せない何か」を示そうとしている。あるいは、「文章でしか表せない何か」に迫ろうとしている。歴代の文豪たちは各々の万年筆で各々の「何か」を捉えようと書きつづけてきたわけなのだ。たぶん。

 

つまり、同じ「小説」でありながら描こうとするものの種類が違うからこそ別ジャンルのように扱われているのだし、描こうとするものが違うにもかかわらずいずれも「文章」という形式にこだわっているからこそどちらも「小説」と呼ばれているのである。

 

とはいえ、何がしかの“奥底”に迫ろうとする「ライトノベル」もあるし、キャッチーな人物を登場させる「お堅い小説」もある。だから「ライトノベル」と「お堅い小説」との境目ってやつはかなり曖昧だ。

 

言ってしまえば「ライトノベル」も「お堅い小説」も結局のところ「文学」に包括されるわけで、区別する意味などないとすら言える。まして、“どちらがより良いか”なんて問いはナンセンスすぎて頭が扇子になりそうだ。「文章」という形式、「文学」という芸術、それ自体をもっと幅広く奥深く味わわないと勿体ないぜと僕は思うのである。

 

もっとライトな項目にするはずだったのにマジメな文章がどうにも抜けない……。

次で軽さをアピールするぞ。

 

 

四、好きな登場人物について

ちょっと好きな人物の話とかしてもいい?

先に述べたように、「お堅い小説」……つまり僕が研究対象としてきたような作品群は、「個々人の魅力」よりも「人間そのもの」を描こうとするような作品群である。だからか、登場人物に名前さえ付いていないことすらある。

けれども、そういう人物の人間性にこそ惹かれてしまうことだってあるのだ……(垂涎)

 

何人かお気に入りの子たちを紹介させていただく。

 

堀辰雄「水族館」より 「彼女」

水族館

水族館

 

( 青空文庫 : 堀辰雄 水族館 )

彼女はその異樣な建物の前にぢつと佇んでゐた。私はやがて、彼女が身をこごめて、彼女の足もとにある一つの石を拾ひ上げるのを見た。それから彼女は狙ひをつけ、まだ一つだけ割れずに殘つてゐた硝子に向つて、その石を、滿身の力でもつて投げつけたのであつた。私ははげしく硝子の割れる音を聞いた。それからその破片がバラバラと下へ落ちてくるのを見た。そして彼女はと見ると、彼女はひた走りに走りながら、もうそこからだいぶ離れたところに達してゐた。

ンン〜……

荒れる美少女は良いものだ……

これは実際に本文をぜんぶ読んでいただきたい。この子が荒れた理由も含めて、とてもよい。

というか堀辰雄の文章は、うまく言えないが甘やかで爽やかですごく心に優しいのでつらいときにもオススメ。

 

 

夢野久作ドグラ・マグラ」より「呉モヨ子」

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

ドグラ・マグラ (上) (角川文庫)

 
ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫)

 

( 青空文庫 : 夢野久作 ドグラ・マグラ )

「……お兄さまお兄さまお兄さまお兄さまお兄さま……お隣りのお部屋に居らっしゃるお兄様……あたしです。妾です。お兄様の許嫁だった……貴方の未来の妻でした妾……あたしです。あたしです。どうぞ……どうぞ今のお声をモウ一度聞かして……聞かして頂戴……聞かして……聞かしてエ――ッ……お兄様お兄様お兄様お兄様……おにいさまア――ッ……」

はーーーー(感嘆)。

まあ彼女は言うなれば「ヤンデレ妹」に近い雰囲気かもしれないが、もっと闇深い存在である。絶世の美女でありながらこの、この狂気。「ドグラ・マグラ」の世界観が一気に不気味なものとなる、その要因のひとつは間違いなくこのモヨちゃんだろう。久作の書く女の子は大体ゾッとさせられる何かしらを抱えているのだが、モヨちゃんはその中でも異彩を放っているといえよう。

 

 

太宰治「秋風記」より 「K」

秋風記 (青空文庫POD(大活字版))

秋風記 (青空文庫POD(大活字版))

 

( 青空文庫 : 太宰治 秋風記 )

ことしの晩秋、私は、格子縞の鳥打帽をまぶかにかぶって、Kを訪れた。口笛を三度すると、Kは、裏木戸をそっとあけて、出て来る。
「いくら?」
「お金じゃない。」
 Kは、私の顔を覗きこむ。
「死にたくなった?」
「うん。」
 Kは、かるく下唇を噛む。
「いまごろになると、毎年きまって、いけなくなるらしいのね。寒さが、こたえるのかしら。羽織ないの? おや、おや、素足で。」
「こういうのが、粋なんだそうだ。」
「誰が、そう教えたの?」
 私は溜息をついて、「誰も教えやしない。」
 Kも小さい溜息をつく。
「誰か、いいひとがないものかねえ。」
 私は、微笑する。
「Kとふたりで、旅行したいのだけれど。」
 Kは、まじめに、うなずく。

絶 妙 。

あまりにも好き。太宰の書いた女の中ではダントツのよさだと思う。大した長さではないうえ、心が苦しい人にとってなかなかいい作品だと思うので、是非お読みいただきたい。

 

とまぁこんな感じで、「あ、このひとすき」ってなるような人物が「お堅い小説」にもチラホラ出てくるものである。小説を読む際、文学〜などといって堅っ苦しく考えず、好きな人物を探すために読むってのも大いにアリだと思う。

どんな読み方をしたっていいのだ。

 

 

五、文学と僕とについて

いやあ語り出したら止まらないなあ、と思いながら記事を書き進め、気がつけば投稿予定日が迫ってきていた(実はこの記事はここ一週間ほど毎日少しずつ書き溜めて書いた大作なのだった)。

僕は本当に文学の世界でやっていきたくてやってきたので、そういう純粋な「好き」って気持ちが皆様に伝わったなら幸いである。駄文で恐縮だけれども。

 

そして、願わくば皆様にも是非いろんな本を読んでいただいて、僕のダメダメな意見に反論していただきたい。僕は大学のとき思い知ったのだが、自分の考えをまとめようというときには他者の意見も取り入れた方がいいらしいのだ。

それから、かつて僕は好きな作品をバーっと紹介する記事を書いたことがある。今回ちらっと紹介した作品と一部が被っているような気もするが、是非こんなのも参考にしていただけたら嬉しい。

cnp.hatenablog.com

 

「本を読む」というのは習慣づけていないとなかなか難しいことだと思うが、逆に習慣づけてしまえば最高の暇つぶしになる。心が苦しいときの逃げ場にもなる。心からオススメしたい。

どうぞよしなに。

 

 

……僕はふと口を閉ざして、隣で耳をぴこぴこ揺らす猫耳少女の顔を覗き込んだ。猫耳少女は「ん?」というような表情で僕を見た。これだけ長くて面倒くさい話を君は本当に最後まで聞いてくれたんだな……ごめんよ、ありがとう……僕がそう伝えると、猫耳少女はキョトンと首を傾げた。自分のことを好きなだけ話していいって言ったでしょ、とでも言いたげに。

猫耳少女は人の話を聞くのがうまかった。ゆえに、まだまだ他の誰かの話を聞いて回る予定があるみたいだった。明日もどこかへ出かけるのだろう。僕は彼女の綺麗な瞳に向けて、もう一度ぐっと頭を下げた。

 

自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2018 - Adventar

Thanks for @Syarlathotep.

24歳、童貞です

今日は何の日?

そう、僕の誕生日、だ!!!

 

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と盛り上げてみたけれども、正直、僕は昔ほど「誕生日」にこだわらなくなってしまった(とか言いつつブログは書いてしまう)。なんだか、いつのまにか前日まで迫り、いつのまにか当日を迎えていた。幼い頃の僕は誕生月の頭からずっとワクワクしていたのだが。

それは最近の僕が忙しいせいでもあるし、最近の僕が人生について考え込んでしまうせいでもある。

 

僕のせいで傷ついた人がいる。僕のせいで憤った人がいる。僕を殺したいほど憎んでいる人がいる。僕によって人生を狂わされた人がいる。僕はそれを知っている、知っていながらこうして生き延びている。

僕が生まれたことは、この世界にとって必ずしもいいことではなかった。本当に本気で本心からそれを懺悔するつもりなら、せめてできるだけ早いうちに死ぬべきであったのに。

そうやって予防線を張りながら僕は結局ここまで生きてきてしまった。

 

死ねないもんだ。

 

つらいつらいと思いながらやっていくこと自体がつらくて、はっきりいうと僕は疲れてきてしまった。

自分はもっと早く死んだほうがよかった、ということを把握した上で、それでもなお生きることを選んでしまっている自分を、なるたけ否定しないようにしたいと思った。他人に迷惑をかけない程度に自律しつつ、大嫌いな自分のことを、できるだけ忘れておきたいと思った。「生きる」ということそのものについて考えてみたいと思った。

 

前向きな人間にはなれそうもないけれど、「“前向き”とはどういうことか」というのを考えたいと思った。

 

しかし時の経つのは早いものだ、いつのまにかこんな年齢になってしまった。考えたくねえな。せめて心意気だけは、無垢なる小学生の……腕白なる中学生の……多感なる高校生の……ままにしておきたい。

満天の星空を見上げて言葉を失うとか、湿った芝生の上にごろ寝するとか、いきなりキャンプへ出かけるとか、早朝の海を眺めにいくとか、そういうエモーショナル・エクスペリエンスに自らを投じるような人間でありたい。

 

人生という名の道程はどうせまだ続いてしまうから。

 

24歳、童貞です。