世界のCNPから

くろるろぐ

さて、どちらが「僕」なんだろう

①大きな事故に遭った「僕」。

顔も体もグチャグチャになり、元の容姿は見る影もなく、見た目の時点で完璧に別人となっている。

また事故をきっかけに記憶を失い、今まで学んできたことや得てきたこと、出会ってきた人々のことを全て忘れている。

さらに思想や哲学や価値観が一新され、元の「僕」とは全く違う考えを持つようになっている。

だが、紛うことなきオリジナルである。

 

②最新のクローン技術を駆使し、事故前の「僕」を完全再現した「僕」。

容姿は髪の一本一本から足の爪先に至るまで一分の隙もなく事故前の「僕」をコピーしてある。

それから「僕」が事故に遭う前の記憶を取り出してインストールしてあり、オリジナルが学んできたことや得てきたこと、出会ってきた人々のことを全て覚えている。

もちろん思想や哲学や価値観も事故前のオリジナルと完全に一致している。

だが、どうしようもなくコピーである。

 

さて、どちらが「僕」なんだろう。

 

 

……こんなことを考えだしたのは、僕の他者に対する考え方を掘り下げてみたからである。

 

僕にとって他者とは、ひとりひとりが唯一絶対の存在だ。僕は他者を「年齢」「性別」「国籍」とかいうようないわば〈カテゴリ〉によって区分けするのを好まないし、どれほど似た境遇や似たジャンルに生きている人同士であっても決して交換できないと思っている。少なくとも僕にとって、「その人」は「その人」だけだ。

 

……が。

それならば、僕は「その人」というのをどこで判断しているんだろう、と、まあそんな疑問を持ってしまったわけだ。

 

僕なりの考えだと、だいたいこんな感じ。

容姿が変わった程度なら、何の変化もないようなものだ。記憶を失ったとしても、「その人」自体はそのままそこに在るわけだから、その上にまた記憶を積み重ねていけばよいだけの話だ。主義主張や価値観は、そもそも(僕の考えによれば)生きていく中で揺らぎ変わっていくものであるから、変化も含めて「その人」であると思う。

 

そう考えてみると、僕は他者を「その人」という“概念”で捉えているような気がしてきた。何がどう変わろうと、僕にとって相手が「その人」であるかぎり相手は「その人」なのだ。

「その人」が今までと変わってしまって、悪いことをしたり酷いことをしたり、僕を嫌ったり傷つけたり、そういった場合でも僕は「その人」が「その人」であるかぎり「その人」として尊重したいのだ。

となると僕にとっての「その人」というのは、オリジナルの方になるのかもしれない。

 

けれど僕としては、クローンもクローンでクローンという別の“概念”になってしまうと思う。オリジナルと無関係の、完全に別の個人として。

他者というのは僕にとって“概念”だ。だから誰に似ていようと似せていようと、別の存在つまり別の“概念”になる。……と、思う。

つまり、ただよく似せただけの二人の人間が、二人分のそれぞれの“概念”が、世界に存在している……と捉えることになるだろう。あくまで僕の考えだが。

 

(しかし、今まで述べてきたのは「オリジナルが事故で変容しており、クローンが事故前の姿で生活している」という事実をこちらも知っているということが前提となっているオハナシである。

もしそこを知らなかったら、僕はクローンをオリジナルの「その人」として捉え、扱うことになってしまうわけで……それはオリジナルにもクローンにもひどく残酷なことだ、と思った。僕はそれぞれをそれぞれとして尊重したいのだ……。

まあこの記事はクローンの記事ではないわけだが、「本人の代理としてクローンが生活する」というのはそういう点で恐ろしいことだと思った。「その人」をすり替えてしまうからだ。

閑話休題。)

 

そして「逆に僕が「その人」側になって他者から見られるような状況に陥ったら、僕はどんな風に見られるのだろう」というのが冒頭の、二人の「僕」である。

他者からすると、僕は何をもって「僕」なんだろう。

 

①■■■■■■■■■■■■「僕」。

②■■■■■■■■■■■■「僕」。

 

さて、どちらが「僕」なんだろう。

だから兄貴、俺だけは風俗に行かないって決意するのもそれはそれでいいと思いますよ

「この結果でブログを書いてくれ」との要請を受けたので、のんびり捻り出そうと思う。

 

風俗、その現代における利用率について、兄貴はご興味をお持ちになったとのことだ。

曰く、“職場の人間がいつも風俗談義をしているので、半ば呆れているとともに、世の人々というのはそんなにも風俗へ通っているものなのかと驚かされている。自分の職場が特殊なのか、それとも世の中ではそれが一般的なのか、確認しておきたい”とのことだった。

 

そして結果は冒頭の通り、まあ半々くらい、やや「行かない」派が多い、という形だった。

兄貴の職場の人間は「いつも風俗談義をしている」とのことだったが、それはやはり職場の毛色なのかもしれない。

 

……と、言うこともできるが。

 

より踏み込んで考えるなら、このアンケートだけでは物足りない、と僕は感じた。なぜ兄貴の周囲には性風俗店愛好家が多いのか? なぜツイッターで聞いてみるとそれほど多くなかったのか? そういう「なぜ」まで考えていくとなると、最大でも4択しか設定できないツイッターアンケートでは限界がありそうだ。

 

まず、「風俗」の定義が曖昧だというのがある。

おそらく兄貴がおっしゃりたかったのは「性風俗店」、特に性行為を目当てとするタイプの店舗のことだと思われるが……。

 

せいふうぞく‐てん【性風俗店】
性的なサービスを行う店。ソープランドファッションヘルスなど。風俗店。

(参考 : 性風俗店(セイフウゾクテン)とは - コトバンク )

 

兄貴の言い回し通り「風俗にあたるもの」と考えた場合、もう少し広い意味で捉えられるかもしれない、とか。

 

ふうぞく‐てん【風俗店】

異性による接客や性的なサービスを提供する店の総称。

(参考: 風俗店(フウゾクテン)とは - コトバンク )

 

というか、もっと言うなら、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」に定められている店舗であれば「風俗」と呼びうるわけで……。

 

昭和二十三年法律第百二十二号
風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律

 

第二条 この法律において「風俗営業」とは、次の各号のいずれかに該当する営業をいう。
一 キヤバレー、待合、料理店、カフエーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業
二 喫茶店、バーその他設備を設けて客に飲食をさせる営業で、国家公安委員会規則で定めるところにより計つた営業所内の照度を十ルクス以下として営むもの(前号に該当する営業として営むものを除く。)
三 喫茶店、バーその他設備を設けて客に飲食をさせる営業で、他から見通すことが困難であり、かつ、その広さが五平方メートル以下である客席を設けて営むもの
四 まあじやん屋、ぱちんこ屋その他設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業
五 スロットマシン、テレビゲーム機その他の遊技設備で本来の用途以外の用途として射幸心をそそるおそれのある遊技に用いることができるもの(国家公安委員会規則で定めるものに限る。)を備える店舗その他これに類する区画された施設(旅館業その他の営業の用に供し、又はこれに随伴する施設で政令で定めるものを除く。)において当該遊技設備により客に遊技をさせる営業(前号に該当する営業を除く。)

(参考:e-Gov法令検索 )

 

このあたり、はっきり絞った方がより的を射たアンケートになりそうだと思った。

まあ、おそらく文脈で「風俗」といえば「性風俗店」だと伝わるだろうから、そこまで騒ぐことでもないが。

 

そして、対象が不透明かつ広域すぎるわりに回答数が少ない。

こういう不特定多数へ向けて発するアンケートの場合、対象のステータス……例えば「年代」「性別(性自認)」「国籍」「居住地」あたり……も聞いておかないと、対象が曖昧になってしまいかねない。どういう人間の回答によってこの結果が弾き出されたのか、ということを合わせて考えないと、統計として甘くなってしまうような気がする。

そういった「対象」を気にせず、敢えてフラットな聞き方をしたかったのだとすれば、75億人くらいに聞けたらよかったかもしれない。「地球人口の何割が性風俗店への来店経験を持つ」という統計結果は逆に有意義なものになりそう(?)

 

(僕は大学で本当に少しだけ統計学をかじったけれど、アンケート対象というのは適当に数を増やせばいいというものでもなく、いかに上手いことバラけさせるか、意味のあるサンプルを抽出するかというところが大事らしい。となると、同じ61人でももっといろんな界隈に届いていたら色々と変わったかもしれない。)

 

また、「行く理由」「行かない理由」が見えないので、「意外と○○だったな」以上のことは憶測で語らざるをえない。

例えば金持ちの場合は娯楽で行くかもしれない。若者の場合はストレス発散かもしれない。上司に連れられて行くのかもしれないし、暇だったから足を向けてみたということもあるかもしれない。

あとは来店の回数も気になる。「何度も行く理由」「一度で辞めた理由」「絶対に一度たりとも行きたくない理由」、それぞれ十人十色の事情があるだろうし、それらをこのアンケート結果から読み取ることはできそうもない。そうすると、「なぜ」を突き詰めることは難しいかもしれない。

とはいえ、「思ったより多かったな」「予想より少なかったな」という感覚を掴めたという点で意義のあるアンケートだったと思う。ここからさらに深めていくなら、また新たに調査が必要だろうけれど。

 

 

ちなみに、似たような調査をしたネットの記事も少しだけ紹介したい。

しかしこの手の話題の記事を書く人たちというのは半笑いで書いている感じがする。例えば、いくつかの記事に「風俗店の利用率について国が調査したこともあるんです」という言説を見つけたものの、その原典が書かれていないのである。ソースも出さないで何がメディアだ!

 

やや実直そうなデータとして「社会実情データ図録」( 図録▽主要国の性行動比較 )という研究者のサイトを見つけた……のだが、残念ながら中身は1999年のものだった。しかも「性風俗」とはズレる話題かもしれない。

 

新しめのものでいくつか。

※ネットニュースなのであまり好まない人は読まなくていいと思います。一応ざっと読んで不快感の少ないものだけ選びました。

 

独自調査なのでまぁ多少アレだけれど、年代別の結果なども出ていて興味深い。

性風俗店に行く男性の割合を調査 頻繁に通う20代に対して上の世代は意外な結果に – ニュースサイトしらべぇ

まず、「ほとんど行かない」と答えた人は56.0%。「あまり行かない」と回答した人を含めて4割強は、風俗を経験しているということになる。

また、頻繁に通っているグループは5〜6%台と少ないが、「たまに行く」と答えた人は2割弱。やはり、少なからぬ男性にとって身近な存在であることは疑いがない。

「よく行く」と答えた人は20代男性でもっとも多く、13.3%。30代になると半減し、40代以降は2%台にとどまる。

 

男性の夜の実態。風俗へ行ったことがある男性は●●%

半数以上の男性が風俗店には行ったことがないという結果となりました。
高額なうえに、病気がうつるリスクもあるため敬遠している男性が多い様子。

基本的には性欲を満たすという意味で利用している方が多い様子。
みなさん、それぞれで様々な経験を重ねているようですね。

 

と、こんな感じ。

色々と眺めてみたが結局、多くのサイトで「行ったことのない人が6割、行ったことのある人が4割」という結論を叩き出している。

そして僕は、冒頭の兄貴のアンケートから「ある」or「ない」だけ引っ張り出した場合の結果もだいたいこのくらいだということに気づいた。

 ある:15.25人(約36.2%)

 ない:26.84人(約63.7%)

 

まあ、つまり「一般」の縮図をまあまあ表現できてはいたということだ。

ただこれで「兄貴の職場は異常」として終わりにするのはもったいないような気がする。なぜ兄貴の職場では比率が逆転しているのか? 地域差? 職業差? そういうのも、また別枠で調べたら面白そうだと思った。

 

また、兄貴は何の気なしに「女」をアンケートから外してらっしゃるが、僕はここも調査してみたらいいんじゃないかと思った。

かの有名なTENGAが「iroha」という女性器向け性具を販売していることはよく知られている。

iroha(イロハ)ブランド公式サイト

「オナニー」を「セルフプレジャー」と言い換え、「気持ちよくなること」を恥じる必要はないのだと訴えたTENGAの功績は大きい。性欲文化はこれからもっと多様に花開いていいのだ。

まあ何が言いたいかというと、今の時代、性別に囚われない世の中になってきていることだし、「男性」以外向け、「異性愛者」以外向け、の性風俗店についても考えていけそうだなと、そんなことを思ったわけで。せっかくだからそういうのも知っていきたいと思った。

 

 

ところで、ウィキペディアにはこんな項目がある。

風俗店の歴史 - Wikipedia

日本には古くから様々な業態の「性的なサービス」提供店が存在していたのだと、この項目数を見ただけでも把握できる。

 

しかし、警察庁が公開している「平成30年における風俗営業等の現状と風俗関係事犯の取締り状況等について」( 風俗関係事犯|警察庁Webサイト )によれば現在、

 

4 性風俗関連特殊営業の届出数(営業所数等)の推移
過去5年間の性風俗関連特殊営業(店舗型性風俗特殊営業・無店舗型性風俗特殊営業 ・映像送信型性風俗特殊営業・電話異性紹介営業)の届出数(営業所数)は、(中略)横ばい状態にある。
平成30年末の性風俗関連特殊営業の届出数は3万1,925件で、前年より159件(0.5%) 減少した。

 

性風俗店は横ばい(やや減少)という傾向にあるらしい。「無店舗型性風俗特殊営業」だけは年々増加しているのだが(店舗型性風俗特殊営業は規定が厳しいこと、店舗型を新規に設立するのは法律上かなり難しくなっていること、自分で店舗に出向くよりも相手を呼びつける方が現代のニーズにあっていること、あたりが原因なんじゃないかと思う)、それ以外の営業形態については衰退の一途を辿っているようだ。

 

さらに、兄貴がご興味をお持ちになった「性風俗店」とはまた別種類だが、「接待飲食等営業」「深夜酒類提供飲食店営業」などのいわゆるキャバクラ・ガールズバーといった風俗営業店も減少傾向にあるらしい。こうした商売もだんだん廃れていくのだろうか。

 

僕個人としては、「店員が仕事に誇りを持ち、客が利用を心待ちにしている、それらが両立しているならば衰退しない方がいい」という気持ちでいる。嫌々働いているなら辞めてしまっていい、来たくないのに通っているなら来なくていい。けれど、働きたい人がいて、利用したい人がいて、誰にも迷惑をかけずにやっていくというのなら、それは「文化」として息づいていていいものだと思う。

 

むろん、性の問題は複雑だ。何から何まで複雑だ。「同意の上」なんて、誰が判断できようか? 心身が傷つくリスクを背負ってまでどうしても味わわなければならないほどの快楽か? 「禁止」、それ以上に簡単な解決策があろうか?

それでも、性欲文化はありとあらゆる時代で廃れなかった、誰にも抑圧しきれなかった……だからきっと、今後もどんな形であれ続くだろう。「風俗に行く」という形を失ったとしても。

 

だから兄貴、俺だけは風俗に行かないって決意するのもそれはそれでいいと思いますよ。

話の通じない人型の異形に訳もわからず襲われる

僕はずっと昔から「ホラー」を苦手としている。

 

大抵のものに好意的な目を向け、大抵のものにサッサと手を出すタイプの僕であるけれど、どうしても「話の通じない人型の異形に訳もわからず襲われる」ようなものが苦手である。

不思議なものだ、と自分でも思う。ここだけが、僕の価値観から遊離している。何にだって興味を持ち、何だって愛せる、そういうのが僕だと思いたいのに、どうしてもここだけ耐えられない。

 

 

まあこれは笑い話なのだが、実はそこそこ刺さった。

苦手なものから目を逸らしつづけて逃げつづけてきたのか、僕は。

 

ここでいきなり、人間の行動をざっくり4種類に分けて見ていきたいと思う。

 

ひとつ、やりたい かつ やるべきこと。

これはなかなか見つからないものだ。自分の意志や嗜好が、自分の果たすべき義務と合致している……そんな状況、そうそうない。

強いて言えば、僕にとっては大学での文学研究がそれに当たったかもしれない。全力で自説を述べることが、僕の意志であり僕の義務であったから。そんなところか。

 

ふたつ、やりたい けど やらなくてもいいこと。

いわゆる“趣味”である。やらなくてもいい、けれどやりたいのだからやってもいい。読書、バイク、トイカメラ、とか。

やらなくてもいいことだからといって切り捨ててしまうと無味乾燥の人生が開けるだけなので、ある意味では必要なことだといえるけれど、やらなかったからといって問題が発生するわけではない、というところがポイントである。

 

みっつ、やりたくない けど やらなくちゃいけないこと。

出勤。業務。社会活動。等々。

僕はこのあたりの義務について、ちゃんと果たそうとしているつもりだ。喪失と後悔とを極端に恐れるがゆえに、僕は「やらなきゃ」と思うことについては恐慌状態に陥りながらも何とかしようとしてきた……つもりだ。まあ、果たしきれていないんだけれども。

僕の場合そういう義務をこなしたあとに得られるのは、達成感や充実感ではなく、“恐怖から一時的に身を隠しおおせた”という刹那的な安堵でしかない。次の義務が迫ってくればまた苦しい思いをする。人生。

 

よっつ、やりたくない かつ やらなくていいこと。

僕にとって「ホラーに立ち向かう」というのは、ここに当てはまることとして捉えられていた。全然やりたくないし、やらなくても問題にならない。

ここに分類されている以上、やらないからといって「目を逸らして逃げている」ということにはならない……そう思い込もうとしていた。

 

しかし冷静に考えてみると、この4点目こそ、やらなくてもいいからこそ最も逃げちゃいけない部分であるような気もする。

「やらなくたっていいんだし」、そんな言い訳が最も通ってしまう部分だからこそ。

 

僕は周囲の人々に、「無理をしないでくれ」と伝えつづけている。やりたくもないことを無理にやろうとして傷つく、そんな姿は見たくないからだ。けれども僕は、僕の方は無理をしなさすぎなのかもしれない。傷つくことを恐れて、挑戦を避けているのかもしれない。

 

話が大げさになってしまったが、まあ要するに、その、怖いものとか……不気味なものとか……いわゆるホラーに……立ち向かおうと……思う。

いい機会だし、うん。こんなくだらない理由で喧嘩をしたり気まずくなったりしたくないし、うん。情けないし、かっこ悪いし、嘲笑の的になりたくないし、うん。

立ち……向かえると……いいね。

なぜ彼女はフレンチトーストにタバスコをかけなければならなかったのか

果たしてこれは誰のための記事なのか? むろん僕のための記事だ。僕は観劇を趣味としている。脚本、演出、音響、照明、役者の演技、それぞれに“意味”を見出しては反芻する、そういうのを楽しんでいる。

それだけのことだ。

 

 

前日、僕はデスソースを買って、レトルトのカレーに追加して食っていた。だから翌日、たまたま演劇の中で女の子がフレンチトーストにタバスコをかけまくって実際に食っているのを観て、ちょっとしたシンパシーを感じた。

 

なぜ彼女はフレンチトーストにタバスコをかけなければならなかったのか? 僕はその点についていくつか考えていた……ので、その話をしたい。

僕はあのシーンを「不要」と切り捨てさせはしない。

 

以下ネタバレあり。

 

ぜろ、(僕なりの)あらすじ

「就活がうまくいかない主人公は、ある日たまたま立ち寄った公園で小学生時代の同級生と出会う。

「10年前にやったあの劇をもう一度やろうよ!」その言葉に引きずられるようにして、主人公は10年前の仲間たちを集めるため奔走する。

当初は就活に対する不安から乗り気でなかった主人公だったが、“過去の仲間たちと演劇をする”という思いつきの面白さにだんだんのめり込んでいく。

しかし、主人公の恋人はそんな主人公の有り様に心配と苛立ちとを募らせる。「現実を見ろよ!」 恋人の言葉に胸をつかれた主人公は、一度は演劇から離れようと心に決める。

……だが、それでも主人公は、元同級生たちとの絆がどれほど大事であったか思い出し、演劇を完成させようと決意を新たにする。

準備に奮闘し、練習に尽力し、恋人にもチラシを渡すことに成功し……あとは本番まで駆け抜けるだけ。そんなとき、彼らを悲劇が襲った……」

 

いち、コメディシーンとしての意義

この作品における「10年前の仲間たち」は、ドMバカ・熟女好き・ドS女、等々……「ふざけていればよかった楽しかった過去」を表すかのような、コミカルな人々だ。だからこそ彼らの小学生時代シーンにおいては、そうしたキャラクター性を活かすような「ふざけ」の馬鹿馬鹿しさが重要になってくる。

そして、そうした小学生時代の性格を現在まで引きずっているという「変わらなさ」が、「変わってしまった主人公」との対比として必要になる。結果、「10年前の仲間たち」の現在の姿も、どうしてもコメディタッチになる。

 

対するタバスコトーストの彼女(以下「A」)は、小学生時代を描かれないキャラクターだ。ゆえに、幼さ由来の「ふざけ」が描かれない。また「すでに内定をもらっている」・「遊び呆けている恋人を心配している」、という「真面目」な要素を与えられている。つまり「ふざけていればよかった楽しかった過去」との対比、「見据えなければならない現在」を示すかのような「真面目」なキャラクターなのだ。

 

そんなAがあまり「真面目」から外れてしまえば、対比としての意義は薄れてしまう。あくまで、「これから見据えていくべき現在」の姿であったほうがよい。

一方、あまりにAだけに「真面目」を貫かせると、「10年前の仲間たち」が楽しげであるがゆえに、Aばかりが世界観の中で“硬く”なりすぎてしまう。

と考えていくと、“Aを描く”というのはかなりバランス感覚を必要とする技だったんじゃないだろうか。

 

だからこそのタバスコだとしたら。

 

そのシーンでAは、店員さんに「フレンチトーストください、あとタバスコも」と注文する。そして主人公の進路について真剣に話をしながら、平然とフレンチトーストにタバスコをかけまくる。どばどば。主人公の切羽詰まった表情にも気付かずひたすらタバスコを振り続ける。だばだば。「前を見て頑張って」、そんな優しさのこもった言葉とともにAはフレンチトーストを頬張り……グホッ……いや何で!? 辛いの苦手なの!? 何でかけたの!?

 

という顛末である。

 

そう、このシーンの面白さは、真剣な会話をしているにもかかわらずいきなり自爆するという「え!?」感にあった。しかもAはわざとふざけたわけではなく、完全に天然でやらかしたわけで、元来の「真面目」さを損なわないまま空気を和ませてくるという高等テクニックを用いていたのである。

タバスコはAという「真面目」なキャラクターの意義を奪わず、それでいて硬さを和らげる、そういう演出だったのではないか。そう考えれば納得がいくのではないか……。

 

まあ以上を踏まえて、僕だったらAのキャラ付けにはもっと時間を割いただろうと思う。コメディ多めの作品の中で「ハッと笑いを抑え込まされるシーン」を用意するのなら、そこで緊迫感に呑まれた観客をふっと緩ませるような安心させるような描写には、もっと手数をかけてもいいんじゃないか。

例えばだが、「その後のデートでもAはミートソーススパゲティにメープルソースをかけて噎せたり、コーヒーに塩を入れて噴き出しそうになったりする」とかいうシーンが入っただけでもだいぶ可愛くなったと思う(ただしこの部分については他のパターンもありうるので、そこは「に、」の方で触れる)(ちなみにメシ系は役者への負担が激しいので実際に演るかどうかは別)。

 

 

に、精神的負荷の描写

「フレンチトーストにタバスコをかけて食って噎せる」という行為の全体を通してみると、「Aの味覚は一般的だ」ということが判明する(刺激物に舌と脳とを犯された酔狂ではないということだ)。

その上で、「一般的な味覚の持ち主であるAがなぜわざわざフレンチトーストと同時にタバスコを自ら頼み、自らかけたのか」というのが疑問として浮かび上がってくる。

 

「真面目」なAが……冷静沈着、現状を正しく把握できるだけの明晰な頭脳を持つAが、甘味にタバスコを振りかけまくっている……というのは、

 

①「いち、」で述べたように天然キャラとしてのAの特徴であり、いわば「いつものこと」である。

 

②どう見ても普通ではない、異常なことである。

 

このどちらに転んでもキャラクターとして矛盾しない、というのが僕の考えだ。

 

①は「いち、」の話なので割愛する。コメディ要素として扱っても個人的に違和感はないという話だ。

 

②の方で扱うとすると、「面白かったけど何だったんだ今のは……」という、ちょっと引っかかる感覚を残してくるシーンになると思う。すると、その後のAが主人公へ頻繁に電話をかけたり、主人公を面と向かって叱りつけたり、というシーンに連なるものの一部となりうるように思えてくる。主人公を必死で気にしているがゆえに発された、「笑えるようで笑えない」重要なシーンとして顔を出す……というわけだ。

 

これは作品外要素になってしまうが、ストレスによって辛いものを摂取するようになってしまうというのは往々にしてあるらしい。

※当社調べ。

 

当然だが、タバスコは辛いものである。「タバスコ」という響きに、「もしかしたら甘い食べ物かも!」という要素はない。辛いものである。つまり「Aがいきなりタバスコを注文した」という時点で「無意識下で辛いものを欲していた」と読み取ることができるのではないか。そしてそれは、主人公を気遣いつづけたために溜まっていた潜在的ストレスが引き起こした欲求だったのではないか。つまり、ただ笑えるだけのシーンではなかったのかもしれない……そんな解釈も可能なのではないか?

 

作品外要素で穿ちすぎてしまったが、そうでないにしろ、正常な状態のAならばフレンチトーストとタバスコとが「噎せる」組み合わせであることを認識できなかったはずはないだろう。Aはあのとき確かに判断力を欠き、自分が今から口に運ぶものの異常性を認識できていなかった。それはAの置かれた状況の深刻さを物語っているのではないか。

 

A自身についての描写は少なかった。しかし、主人公の進路について真剣に悩むAの姿を追えば追うほど、描かれなかったAの心労が想像されてくる。

恋人とはいえ、主人公はAにとって他者である。そしてA自身は内定を得ている。よって、主人公に対してそこまで深刻になる必要はない。それでも心を砕いてしまうAのひたむきな優しさ。

しかし、主人公は現在を恐れて過去に逃げてしまう。それは、「現在」的な存在であるAから逃れ、「過去」的な存在である「10年前の仲間たち」の元へ消えていく……という構図だともいえる。

 

そうしたAの抱えた精神的負荷を、ちょっとコミカルに、でもどこかブラックに、あのワンシーンで描いていたと読むことはできよう。

 

 

さん、過去・現在・未来

この作品において、主人公は「過去」と「現在」との間に揺れていた。

そして「10年前の仲間たち」が「過去」の象徴であったとするなら、Aは「現在」の象徴だったのではないか……というのは、すでに散々述べてきた。

そして、「過去」につく形容詞が「楽しかった」なら、「現在」につく形容詞はきっと「つらく厳しい」なのだ。ともすれば「過去」の仲間たちとの楽しい時間に目を奪われてしまいがちなこの作品の中において、「現在」の苦痛を味わっていたAの存在は、実はひどく大きなものである……両天秤の片側を担う重要なものである、と僕は思った。

 

タバスコはタバスコペッパーと岩塩とビネガー(酢)とでできている。まさに辛酸だ(?)

そのままにしておけば甘かったはずのフレンチトーストを、Aはタバスコ漬けにして口にした……象徴的すぎるかもしれないが、甘やかな過去を振り切って辛酸を舐めているような、そういう状況であると読めなくもない。就職を決め、現実を見据え、現在に生き、Aはすでに辛酸を味わっていたのではないか。

 

(そういう観点で観るなら、Aが就活に苦しんでいる様子とか、内定が決まって喜んで主人公に電話したら冷たくあしらわれて傷つく様子とか、そういう描写がもっと欲しくなってしまうが……

 

「お母さん、また面接で……そう、今回は大丈夫だと思ったんだけど。ごめんなさい……ごめんなさい、次は上手くやるから。そりゃ、嫌だけど……卒業まで時間がないし、現実を見ないと……」

 

「私の強みは前向きなところです、過去に甘えることなく常に前進する意欲があります……えっ資格? そんなにたくさん……すみません、今は持っていませんが、これから……あっ、待ってください、必ず卒業までには……」

 

「主人公くん、内定もらったよ! 本当によかった……! 真っ先に知らせたくて……あ、その、ごめん……そっか、「10年前」のみんなと会っているんだっけ。邪魔してごめん……頑張ってきてね」

 

みたいな)

 

ともかく、主人公の進路、つまり現在から未来、そういう話をする場においてAが食らうものとしてタバスコが登場したということ……それは、「辛い」(つらい/からい)現実を示唆してもいたということなのかもしれない。

 

主人公は最終的に、「過去」つまり「10年前の仲間たち」と演劇を完成させることとなる。

 

(10年前の自分たちと10年後の自分たちとが舞台上でくるくると入れ替わり立ち代わりしながら「演劇」を進行する展開はさすが、舞台を上手く使ってらっしゃると感じた。かつて観劇した同劇団の坂本龍馬の作品でも似た演出があったが、舞台上を多くの人間が入り乱れるため華やかでよかった。)

 

そのシーンで、Aは客席の端にそっと腰掛けている。そして主人公たちが完成させた演劇を静かに眺めている……という演出だった。

僕はたまたまかなりいい席に座っていたため、Aが隅の席でチラシを握りながら舞台を見つめているその横顔を確かめることができた。なるほど……なるほど……僕は泣いた。

 

泣いた。

 

とはいえ、それでジーンときたのは僕の席がたまたま特等席だったからかもしれない。Aと築き上げていく「現在」そして「未来」を、もっと観たかったような気もする。

 

例えばチラシを受け取るシーンあたりで、

 

「あなたは現実から目を逸らそうとして、逃げようとして演劇をやっているんだと思っていた。けれど、あなたは一生懸命だったんだね」

「昔のみんなとの絆、これからも大切にしてね。私は応援しているから」

 

からの、

 

「何を言っているんですか。僕にとって……いや、俺にとって、Aさんとの関係は「今の絆」だ。「絆」ってのは、切ってしまわないかぎりずっと結ばれたまま続いていくものなんだよ。俺は10年前の仲間たちにそれを教えてもらった……そして、Aさんとの絆も大事にしていきたいって思ったんだ」

 

とかね。

 

僕には脚本の経験がないので蛇足のような気もするが。

主人公にとって、「10年前の仲間たち」との関係も、今こうして自分を支えてくれるAという存在との関係も、どちらも「絆」と呼んでいいものだろうと、それが「未来」に繋がっていくんじゃなかろうかと、そんなことを思った。

 

以上。

 

 

まあ、こんな風に、ひとりのキャラクターのワンシーンを引っ張り出して無限に考えを広げてしまう妄想家も観劇に来ているのだということをご承知いただければと思う。

 

以上は全て舞台の上の話だ。そしてこれは僕のための記事だ。

何せ眩しすぎるのだ

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いつもの時間いつもの駅、傘なんて久しく持ち歩いていない僕は雨に打たれながら帰路についていた。日本屈指の汚濁繁華街である新宿駅も、こうして濡れているときだけはその醜い輪郭を失うのだった。やはり光がだめなんだな、と僕は思った。何せ眩しすぎるのだ。

 

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疲れたな、そんな独り言が、口から勝手に零れ出た。あらゆる光が煩わしかった。目が重たかった。足が絡まり、腕が落ちた。だんまりを、許されたかった。

 

 

「期待しない」というのは、決して悪いことではないと思う。「期待」とはえてして、こちらの願望の押し付けであることが多い。「Aだったらいいのに」という言葉には、「どうしてAじゃないの」という非難が込められている、ように思う。

「期待」を押し付けられた相手はそれを押し返してきつつ、自分の方の「期待」をこちらへ押し込んでこようとする。互いの「期待」が互いを潰しあって息を詰まらせる。そうやって滅ぼされた人間関係というものもずいぶん見てきた。

 

まあ一方で、「期待」を全く持たないというのも、それはそれで虚しいものだ。「どうしてAじゃないの」という言葉には、「Aだったらいいのに」という希望が込められている、ように思う。何も望まない人生、何も求めない人生、「期待」をかけない人生、それはそれで寂しく切ない。

……と、思ってしまうから、何もかもが苦しくなっていくのだが。

 

「期待」、裏返って失望、わずかな光、「期待」、翻って絶望、かすかな光、「期待」。眩しい場所には光が満ちており、ゆえに甘い錯覚を与えてくれる、「ここなら期待できそうだ」。だから繁華街は大抵の場合において眩しいのではないか。

だが新宿駅をみるかぎり、繁華街の明かりというものはオススメできない、というのも、あの眠らない街には、蟻地獄が無数に口を開いているからだ。「期待」、ところ変わって変貌。

 

どうやら本来、光とは儚いものであるらしい。目の前でワッと煌めいているような場合は用心すべきなのだ。

つまり、何億光年も先からここまで届いてくるような、そういう小さくも力強い光をこそ摘みあげて「期待」すべきなのだ。

 

わかっちゃいる。

 

けれども人々は日々の暗さに耐えかねているので、とにかく目の前が燦然と明るむことだけを望んでしまう、それが叶わずに嘆いてしまう。そうやっているうちに尊ぶべき光を見逃しているに違いないということも自覚しながら、それでもなお「今、この瞬間」を隙間なく照らす光こそ至上のものだと思い込んでしまう。しかしそうした鮮烈な光などというものは滅多に差し込まない、差し込んだと思ったら地獄とつながっている、そんなありさまなので、結局、人々の周りは真っ暗なままだ。

 

ならばいっそ、「期待」のレベルを下げたほうがいい、というのが、最近の僕の姿勢となっている。小さな歓喜を極限まで大げさに捉えてみる、小さな成功を限界まで大ごととして扱う、というような、部屋中を明るくしなくてもいいから、手元だけ見えるくらいにしようというような、そういう。

だってどうせ満足のいくほど輝きにあふれる時代など訪れやしないのだから。

 

 

雨音が聞こえていた。止まない雨はない、らしいが、降っているあいだ、打たれているあいだ、それを信じることはかなり難しいのだった。