世界のCNPから

くろるろぐ

僕の風邪は喉から始まる

僕の風邪は喉から始まる。物を飲み込むのも声を発するのもしんどいような痛みが襲ってくる。

喉を痛めると、つくづく喉の大切さを思い知る。生命維持のための食事も呼吸も、意思疎通のための発声も、受け持っているのは喉だ。ここが痛むと日常がかなり重だるいものとなる。そもそも、体のどこかが常に痛むというのはそれだけで悲劇的なことだ。

 

僕が先輩と話すことを苦手としているのは喉のせいばかりではないものの、やはりこういう日はますます黙然としてしまう。そのせいか今日の先輩は僕に対してあまり優しくなかった。

喉の痛みに耐えつつ意識を飛ばさないようにしつつ、というのは思いのほか体力の要ることである。とはいえ他者と関わる以上、そうした体力を振り絞らねばならない場面というのもあろう。僕はそういうところ自分に甘いのでよくない。

 

僕は昔から健康な人間だ。容貌は悪いのに顔色はいい。そのためか、僕は「心配される」ことがあまりなかった。

強烈な頭痛に苛まれて「救急車を呼んでくれ」と叫んだあの日。父親と祖母はのたうちまわる僕を見下ろしながら、けっきょく何もしてはくれなかった。

肉体的にも精神的にも病弱な美少女を周囲の人間が必死に支えている、そんな構図を遠巻きに眺めていた高校時代。僕の精神もかなりボロボロだったはずだが誰に慰められることもなく、それどころか僕はその美少女に嫌われ、美少女の友人たちにも嫌われた。

タイヤブランコ(タイヤが鎖によってぶら下げられており円状に回転しながら揺られる遊具)で車酔いの症状を起こしベンチで横になった幼少期。友人は「君よりあの子の方が青白い顔をしている、君は元気そうだから大丈夫だ」と言って、嫌がる僕をまたタイヤブランコへ乗せた。

 

簡単に思い出せるだけでもこの通り、僕はかねてから「大丈夫な人」としてやってきた。

正直なところ僕はプライドの高い人間でもあるので、そうやって「君は大丈夫なんだろ?」と言っていただけることに誇りを持っているふしがないともいえない。

心配されることに慣れていないので逆に気遣いを気まずく感じてしまうこともあるし、慰撫するふりをしながら酷い陥穽に嵌めようとしてきた人たちというのがいたので場合によっては警戒してしまうこともあるし、「自分のために「心配」という負の感情を抱かせてしまった」と申し訳なく感じることもあるし、そこから弱音を吐いてごめんなさいと思うこともあるし、そういったゴチャゴチャがあって、「心配しなくていいぞ」というのを半ば本気で思っている。

 

とはいえ、もう半ばは我ながらわからない。

 

本当に耐えがたくなったときの僕は、誰にともなく「助けて」と訴えていることがある。独り言として呟いていることがある。それはやはり、完全に誰からも心配されていないと思うことを恐れているがゆえの行動なんだろう。半端者め。

 

僕は強がりたいだけで、本当のところとても弱い。けれど「君は弱いんだから慰められておきなさい」という庇護の皮を被った嘲弄には耐えられず身悶える。これでもある程度は強いはずなのにと情けなく涙を落とす、「ある程度」の“程度”が低すぎるのだということからは目を逸らしつつ。

虎にでもなってしまいそうだね。

 

風邪はまだ治らない、喉が痛む。しかし今のところ、「助けて」を呟かずにいられている。すなわちまだ大丈夫。たぶん、おそらく。これは強がりではないはずだ。記事の中身は暗くなってしまったものの、僕はそこまで落ち込んじゃいない、とりあえず少なくとも今日は。

どこかが常に痛むというのはそれだけで悲劇的なことだ。